<東京怪談ノベル(シングル)>


オーマの娘

 ある日、気が付いたら――子持ちになっていた。
 いやいやいや違う。
 妻子はちゃんといる。娘も立派に育っている。
 …のだが。
「あう…だー」
 おくるみに包まれた、ふやふやと安定感のない柔らかさ。
 ぽやぽやと生えている産毛のような髪の毛。
 どうやっても赤ん坊にしか見えないそれが、呆然と立っているオーマ・シュヴァルツの腕の中にあった。
 そして問題はもうひとつある。
 捨て子なのかどうなのかもはっきりしないこの赤ん坊は、――紛れもなくウォズであった、と言う事。
「まいったな。何をどうしたらこんなモンが家の前に落ちてんだ」
 珍しく早起きし、早起きは三文の得、とふんふん上機嫌で玄関先をいそいそと掃除しようとした矢先の事で。
 名前が書いてあるわけでもなく、ましてや「貴方の子です、云々」という手紙が挟まれているわけでもない。いやそんな事になったら流血沙汰では済まなくなるだろうが。その前にこの赤ん坊が抹殺されてしまうだろう。
「あーぅ」
 じたばた。
 オーマの腕の座りが悪いらしい。身体を動かして自己主張する小さな塊を心底困ったようにオーマが見下ろし、それでもさり気なく赤ん坊の位置を変えてやりながら、玄関掃除の事も忘れて途方に暮れた。

*****

 ソファの上に、タオルケットで転げ落ちないよう仕切りを作り、その上にそっと横たえて、ひとまず息を付く。
 壊れ物を扱うようで、手にしている間中落ち着かなかったのだ。
「普通にミルクでいいのか?っつってもだ、粉ミルクなんかある訳ねえし、母乳…頼めるわけねえ」
 オーマが小さな赤ん坊を抱いて貰い乳しに行った姿などが知り合いにでも見られたら、流血沙汰だけで済むかどうか。最終的に納得してもらうにしても、相手は人間ではなくウォズだと言う決定的な違いがある。
「ま、まあとりあえず野菜スープでも飲ますか…て哺乳瓶無いんだったな」
 かちゃかちゃと、取り分け用の小皿とティースプーンを用意し、人肌に温めたスープを持ってソファに戻る。
「おーい、飲めるかどうかわからんがこんなもの持ってきた…」
 唖然。
 スープの入った皿を落とさなかったのは、床を汚すまいとしたオーマの無意識の行動だっただろう。目の前の光景に目を奪われていたとしても。
 タオルケットに自らくるまってすやすやと安心しきったように眠るそれは、見た目で言えば2、3歳の幼児へと成長していたのだから。
 もぞ、と動いた幼児が、薄らと目を開け、呆然と急に育った自分を見ているオーマと目を合わせると、
「とーたま?」
 舌足らずな声で、不思議そうに見上げつつ訊ねて来た。

 その一言で、

 オーマは陥落した。

*****

「ととさま、ありがと」
「う、うおおおお可愛いぞお前っっ」
 きょとん、と訳も分からずつぶらな瞳を向け、オーマに切り揃えてもらった髪を嬉しそうに撫でながらにこにこと笑う少女。
 …あれからまた、ちょっと目を離すとどういう理由でかずんずん大きくなった元赤ん坊は、今では5歳程度の女の子になっていた。玄関先で拾い上げてから一日も経過していないのに、オーマは最早気にしていない。
 と、言うよりも。
 直に見る事が出来なかった愛娘の成長を重ねて見ている節があり、そして更に自ら父と呼ばれた事がゼロに等しいため、こうした呼びかけが嬉しくて嬉しくて仕方なかったのだろう。
「ねーねー」
「ん?何だ?」
「ととさま、だっこ」
「〜〜〜〜〜〜〜」
 じぃぃぃぃん。
「ととさま?どこかいたいの?」
 感動のあまり目頭が熱くなってしまったオーマの様子に不安を覚えたか、抱き上げてくれないオーマへ必死に手を伸ばして心配そうな顔をする少女。
「いやいやそう言うんじゃなくてだな、こう、我が子の成長に何か感慨深い物を感じてしまってなあ」
「?」
 ――本当なら、見ることが出来たかもしれない、自分の娘が育って行く様を。
「うんうん、これぞ親の醍醐味。な?」
「良くわかんないけど」
 にぱー、と無防備極まりない笑みを浮かべる少女。
「ととさまがいいなら、それでいい」
 きゅー、と抱き上げてくれないオーマの片足に4本の手足で絡み付いてにこにこ笑い、
「ととさま、はっしんー」
 しゅば、と片手を別の方向へ向けて、少女が楽しそうに命令した。しがみ付かれたままで別の場所へ運べと言う事らしい。
「わはは、任せろ」
 上機嫌のオーマが大きな身体を生かしてずんずんと足を踏み鳴らして行くのを、きゃあきゃあ笑いながらしっかりとしがみ付く小さな身体に目を細め。
 …もしかしたら、昔の自分なら決してやらなかったかもしれない、思いつく限りの遊びを、気付けばまた大きくなっている少女と共にし尽くして行ったのだった。

*****

「…いい天気、ですね」
「ああ」
 うららかな秋の日差しに誘われて、病院内の長椅子を持ち出し、日差しの良く当たる庭に置いて2人でぼーっと眺める。
「葉っぱがあんなに色づいて…綺麗だこと」
「そうだなー…」
 穏やかに微笑む、口と口。
「ひとつ、聞いても?」
「おう、1つと言わずいくつでもどんと来い」
 大きく口を笑みの形に押し広げ、オーマが目を細める。いつか、もっとずっと小さかった時に眺めたように。
「…どうして、ヴァンサーの貴方が私のようなウォズを育てたのですか?」
「あー。気付いてたのか。物心付かねえ時から一緒でも、分かるもんなんだな」
「……知識よりも、もっとずっと深いところで、分かっていたように思います」
 困った顔のオーマがぽりぽりと頬を掻き。
「理由があるとしたら、アレだな。…俺の事を親と呼んだからだ」
「…それだけ?」
「それだけ」
 にぃ、と笑う。それは照れ隠しのようでもあり、本音のようでもあり。
 ふぅ…と小さな溜息は、かすかな微笑と共に零れ落ちた。
「私も人の事は言えませんね。こうして、一緒に秋を眺めているのですから」
 小さな頃の面影は、何処に残っているのだろうか。
 そこだけ早回ししたように年を重ね続けた少女は、その頬にしっかりと皺を刻んで、父と呼んだ男を見上げ。
「私は、もしかしたら、出来損ないだったのかもしれませんね」
 そんな事を呟きながらも、穏やかな目を空へ向ける。
「いーや。それは違うぞ」
 脂気が抜け、すっかり白くなった髪を、それでも小さな時と同じようにわしわしと撫でるオーマ。
「何と言っても俺様の娘なんだからな。それだけで十分に生きる価値はあると言うものだ。うんうん」
「…もう、娘には見えませんよ」
 くすぐったそうな顔をする老女が、それでも嬉しそうににこりと笑いかけ、
「とうさま…」
 ことん、とその軽い身体を、頭をオーマにもたげかけた。
「おう。何だ?」
 娘の我儘なら何だって聞いてやるぞ、と笑いながらぽふぽふ頭を撫でていたオーマが、その手の動きをぴたりと止めて、ゆっくりと空を眺める。
「まあ、なんだ。お前も、人生そう悪くは無かった…だろ?」

 ――問いに対する、答えは、無いまま。

 夕日が陰って夜闇がゆっくりと降りて来ても…長椅子の上には、とうに1人の男の姿しか見当たらなくても、オーマは静かに空を眺め続けていた。


-END-