<東京怪談ノベル(シングル)>
闇の狭間、赤く染まりしは…
失ったものを、探し続けていた。
いつ、失ったのか。
何故、失ったのか。
そして、何を失ったのか。
――その一切が、判然としない。
失ったものが何であるのか、その詳細すらはっきりしないとなれば、それを見つけ出す事は困難を極める。
それどころか、本当に失ったのかすらも、時として自信が無くなる程だ。
失ったのではなく、実は最初からそんなものは存在しなかったのではないか――そんな感覚に陥る事が、時としてあるのは否定できない。
それでも、こうして自分が今ここに存在している以上、「それ」は確かにあった筈なのだ。
そして、「失った」という感覚も、自分の中には確かに存在している。
その感覚を唯一の根拠として――
失ったものを、「彼」は探し続けていた。
□■□
入り浸るうちに、半ば居候状態と化した庵の縁側。
その片隅に腰を下ろした葵は、何するとも無く空を見上げていた。
秋も深まり空気は日ごとに冷たくなっているが、高く済んだ空には雲ひとつ無く、小春日の陽光があたり一面に降り注いでいる。
しかし、それを見詰める葵の表情は、対照的に陰鬱としていた。
「いい天気だな…」
ぽつりと呟くが、その声にも格別の感慨などは含まれていない。目に入った事象を、とりあえず見えたまま口にしてみた――そんな感じである。
いつもの彼であれば、こんな晴天は「絶好の光合成日和」と顔を綻ばせるものなのだが、明らかに様子が違っている。
「………」
わずかに風の吹き抜ける蒼穹に、溜息がひとつ。
青空も陽光も、心を惹き付けはしない。
この時の葵は、それとは全く別なものに捉われていた。
□■□
遠因となったのは、数日前のある出来事だ。
その日たまたま訪れた酒場で、顔馴染みの女魔導師から依頼された魔物退治――その時の光景が、幾度と無く脳裏で繰り返される。
炎を纏った馬の魔物――
目を閉じると、暗くなった視界の中に、その姿が鮮明に浮かび上がる。
(頭が……)
頭の奥がじりじりする。
眼前の魔物を包む炎が、自身の内にも燃え移り燻っているかのような、違和感と不安を伴う奇妙な感覚だ。
(何だろう…この感じは……)
違和感はやがて苛立ちへと変わって行く。
それでも葵は目を開けなかった。
ゆっくりと、押し殺した呼吸と共に、闇の中に立つ火の馬を見据え続ける。
じりじりという、由来のわからぬ感覚――あの時も、同様の感覚が彼の内に沸き起こったのだ。
馬との戦いを優先し、その時は深く追究する事は無かったが、以来、その不可解な感覚が消える事は無く、いつどんな時でも、こうして頭の片隅に残り続けている。
それが彼の意識を捉えていたのだ。
(どうしてこんな風に感じるのかな……何が原因なんだろう?)
記憶をなぞり返す。
キーワードは何か?
(馬かな? ……いや、違うな)
――火だ。
闇の中で燃え盛る炎という光景が、彼の意識を揺さぶったのだ。
魔に属する炎との対峙、そして、過去にも同じ場面に立ち会った事のあるような既視感――それらが相俟って、彼の中にじりじりという感覚を生じさせたのだ。
(だけど……)
記憶の糸をどれだけ手繰り寄せてみても、火の魔物と戦った経験は他に無い。火術を使うものとの対戦なら一度あるが、どうやらこれではないようだ。己の心に問いかけてみても、即座に「否」と答えがある。
ならば由来は何処にあるのか。
更に記憶を探ろうとする。
その時――
(あ……)
つと、頭の中で何かが蠢いた。
じりじりという感覚が染み付いた場所よりもっと深い、もはや無意識の領域に属するであろうあたりで、ゆっくりと何かが蠢くのを葵は感じ取る。
それが果たして何であるのかは判然としない。
だが、判然とはしないながらも、葵には何となくわかるような気がした。
蠢くそれの正体は、恐らく「記憶」だ。数日、数ヶ月といった最近のものではなく、もっと古い記憶が、彼の思索に呼応し動き出したのだろう。
しかし、そこまで漠然と察知していながらも、相変わらずその詳細は見えてこない。手繰れども、闇の中だ。
だが、それもある意味当然の事と云えよう。
――何故なら彼には、記憶が無いのだから。
□■□
いつ、失ったのか。
何故、失ったのか。
――その一切が、判然としない。
気が付いた時には「葵」という己の名前以外の一切を失った状態で、聖獣の加護を受けたこの世界に放り出されていた。
名前を覚えていただけでもまだ幸いなのかもしれないが、その名前とて、本当に自分の名なのかと問われれば、はっきり証明する術は無い。
(だって記憶が無いんだからね……)
自分という存在を確かに認識し証明するための、云うなれば「足場」が見えぬ状態だ。
それ故、彼は探し続けていた。
己が一体何者で、そして何処からやって来たのか――知らぬ間に闇の彼方へと消え失せてしまった記憶を。
形のあるものではなく、何処へ失せたのかもわからぬため、それは困難な作業である。そして事実、手掛かりらしきものはこれまで殆ど見付かってはいない。
火の馬を前にした時のあの既視感、そして頭の中に残るじりじりとした感覚――これらがもしや手掛かりになるのではないだろうか。
――何となく、そんな気がした。
(でも……そうだとしたら、おかしいよね)
記憶の回復を願う心は切実なものだ。
故に、手掛かりと思しきものが見付かったとなれば、もっと心弾むものでは無いだろうか。
少なくとも、彼はそうだと思っていた。
それなのに、この感覚は何だろう。
じりじりとした感覚が伴うのは、不安や違和感、苛立ちといった感情ばかりである。
(どうして……)
そこでようやく、葵は目を開けた。
□■□
「――え?」
視界に入ってきたものが、一瞬理解できなかった。
相変わらず陽光に充たされた縁側の景色。
考え込む内に俯いていたのか、最初に目に入ったのは、膝の上に置かれた自身の掌である。
その掌が――
「どうして……」
――赤く、見えたのだ。
ギクリ、と、呼吸すら止まりそうな程の衝撃が、葵を襲う……一体何故?
長い時間目を閉じていたために、降り注ぐ陽光に視界が眩んだのだろうかとも考えたが、どうやらそういうわけでもないらしい。首をめぐらせ、ゆっくりと周囲を見渡してみるが、空も木々も、池に浮かんだ小島も、全てがいつも通りの色をしている。
ただ葵の手だけが、赤く見えるのだ。
「………」
疑問、衝撃、そして動揺……瞬時に胸中を充たした感情を堪えるように息を殺しながら、再び両の掌に視線を落とす。
やはり、赤い。
赤く見える。
あの夜、魔物の身を包んでいた炎は頭の中だけでなく、もしやこんな所にも燃え移ったのだろうか。
(それとも――)
――もうひとつ、連想したものがあった。
同じ赤でも、今度は液体である。
炎のように身を焦がす程の熱ではないが、生温かく、そしてぬめりを伴うどろりとした赤い液体――それに見えなくも無い。
ぞくり。
刹那、寒気にも似た感覚が背筋を駆け抜けた。
頭の奥では、やはりじりじりとした感覚が消えずに残っている。この感覚、そして不安、更には赤く見える手――不可解なこれらの事象には、果たして何の意味があるのだろう。
失われた記憶と思しきものが蠢き始めている事と、やはり関係があるのだろうか。
「………」
一切を振り払うかのように強くかぶりを振り、葵はまた目を閉じた。
闇が、広がる。
先ほどまでは見えていた火の馬の姿は、そこには無い。
見渡せど、目を凝らせど何も見えぬ、闇の深淵があるだけだ。
ぞくり。
また、寒気。
(怖い……)
同時に、そう思った。
しかしそれは、眼前に広がる闇そのものに対してではない。この闇が、自身の内に存在する記憶の空白の如く見えたが故の恐怖である。
探し求めても一向に見えるものの無い記憶の闇――もしもそれが晴れたなら、その時、そこにはどんな景色が広がっているのだろう。
じりじりと、己の心を焦がしにかかるあの炎か?
それとも、両の手を染めていたあの赤い色か?
(何でこんな事を……僕は一体、何者なんだろう)
葵という名前のみに支えられた、不安定な足場が揺れている。
押し殺している筈の呼吸の音が、驚く程大きく耳に届く。
反響が、耳に痛い。
(怖い……)
あれほど切望していた筈の記憶の回復に対して、今の葵は恐れを感じていた。
そして、恐れたものはもうひとつある――戦う事だ。
先日のあの火の馬との戦いが、自身の内にじりじりとした感覚を植え付け、そしてその感覚が、失われた記憶に揺さぶりをかけ恐怖へといざなった。
ならば、このまま戦いを続ければ、揺さぶられた記憶はやがて表層へと浮かび上がり、己の世界全てを赤く染め上げてしまうのでは無いだろうか。
或いは逆に、周囲を取り巻く闇を更に深いものに変え、求めるものを、更に手の届かぬ彼方へと追いやり隠してしまうのではないか。
――いずれの結果も、考えられた。
そしてそのどちらをも、葵は恐れた。
(僕は一体……?)
繰り返されるのは、答えの無い疑問。
じりじりと、消える事の無い不安や苛立ち。
それから背筋を凍らせる程の恐怖――
――ぐらり。
眩暈にも似た感覚が襲い、意識が遠くなる。
その時――
□■□
「――!?」
てし、と何かが膝を叩き、葵の意識は現実へと引き戻された。
「あ……」
唐突な帰還に戸惑いながら目を開け、傍らを見る。するとそこには、この庵に住み着いている白黒の鳥が、わずかに首を傾げるような仕草と共に佇んでいた。
膝を打ったのはこの鳥か。
真っ直ぐこちらへと向けられた目は、葵の様子を訝しんでいるかのようである。
「…ん? 何でもないんだよ」
小春日の陽光にふくふくと羽毛を膨らませた鳥の頭を撫で、それからほわりと微笑みかけると、葵はゆっくりと立ち上がった。両手を組んで頭上へと持ち上げ、気持ちを切り替えようと大きく伸びをする。
その時ちらと目に入った両手は――
――やはり、赤く見えた。
□■□
それから更に、数日が過ぎた。
時間の経過と共に、頭の奥に残り続けたじりじりという感覚は薄れ始めて行く。
思い出そうとさえしなければ、全く気にならぬ程に薄れ行く。
それでも何気無く視線を己の手へと向ければ、そこに見えるのはやはり赤い色……。
故に、心はやはり不安や恐れに捉われたままである。
それでも彼は……
……失ったものを、探し続けていた。
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