<東京怪談ノベル(シングル)>



 黒々とした闇が、蟠っている。
 その中に見えるのは――囚われているのは。
 体格のいい、大男。名は。
 …名は?
「――!?」
 オーマ・シュヴァルツが全身に嫌な汗をかいて跳ね起きた瞬間、悪夢『だった』事を確認するようにふうっ、と太い息を吐いて。だが。
「――――」
 嫌な感覚は、消えるどころかますます明確に、そしてびりびりと肌を刺してオーマを苛んで行く。
 何だ…何が起こってる?
 感覚の果ては、感じ取れる限り遥か遠く。…下手をすれば、この聖都のあるユニコーン地方を越えてしまう。
 いや――
「あっちには、もう1つ厄介なシロモノがあるんだったな」
 一言で言えば、邪悪に染まった国。

 アセシナート、公国。

『ウォズが、あちらのひとに捕まったらしいわよ』
 これもまた、何かを予感しているのか眉を寄せながら告げた、その者の言葉にオーマが愕然となった。
 その目的は何なのか分からないが、ウォズと分かって捕獲したとしか思えないやり方だったらしい。
 そして、その言葉を聞いたオーマが最初にした事、それは、分厚いノートを引っ張り出し、ページを繰り始めた事だった。
 ――出来るだけ早く、正確に、この所必要とされている、そしてこれから必要とされる薬の調合法を、書き溜めたノートから写し取ったのは何故だろう。
 そして、それと必要な材料の予定数量と値段をもしっかり書き込んで、重しを乗せて病院を出たのも。
 嫌な予感は、すでに予感のレベルを越え、オーマを圧死させかねないだけの威力を持って取り囲んでいる。
 まるで、
 オーマ自身が死の淵に立たされているように。

****

 街を全速力で駆け抜け、街から離れた場所で間髪入れず巨獣へと変身する。
 誰彼が見たかも知れなかったが、構わなかった。とりあえず、街中で変化しなかっただけでも自分を褒めてやらなければならない。
 そのくらい、オーマは知らず追い詰められていた。
 空を、ひと蹴りして山を越す程の速度を付け、ユニコーン地方を一気に跨ぎ越す。
 近づけば近づく程、焦燥は胸を焼いた。それは、アセシナート公国に対する危惧や、国境を越えてやって来る巨大な獣の存在が両国にどう影響を与えるのか、そう言った危険性すら弾き返してしまうだけの力を持っていた。
「――!」
 広々とした大地。両脇には余程酔狂な人物でもなければ越えてみようと思わない剣状の岩が並ぶ山を抱いた、その麓。
 小さな、その発する力の出所としてはあまりに小さな施設が見えた。
 自分の姿が見えても構わない。
 銀の獅子の姿のまま、その施設へと一気に降り立つ――と。
 施設から程近い、広々とした大地の上にぽつんと、黒々とした鎖状の物にがんじがらめにされた何かが見え。それが何か気付いた途端、オーマの全身が総毛だった。
 ――まだ生命に余力を残している、だが相当痛めつけられたのだろう、ウォズの姿。
 黒い鎖は意思を持つのか、ぎりぎりとこれ以上無いくらい体を縮めさせられたウォズを、更に締め付けようとしているのが見える。
 ギリリッ、
 我知らず歯を軋ませたオーマが、変身を解き、いくつもの強い視線を感じながら、罠とあからさまに分かる大地の上へと駆け出して行った。
「――ッ、ガ――」
 鎖は尚も締め付けを増し、完全に死に至る事が無いウォズですら、苦痛の声を逃れる事は出来ず、もがき苦しんでいる。
「待ってろ、今――」
 言いさして鎖へと手を伸ばすオーマ。その指が、鎖へと触れた直後の事だった。

『――――』

 鎖の形をしていた『それ』は、禁忌に近い言葉の組み合わせによって組織を組み換え、オーマの体をすり抜けるようにして小さなドーム状の形へと変化した。
 それは…形容するならば、半円形の、黒いシャボン玉。禍々しい闇色をしているのだが、その色は7色を越え、文字を、呪を、怨嗟を、恨みを浮き上がらせ、そして渦を巻いて消える。

『―――――』

 内部にいるからこそ、オーマにはその力の意味するところがはっきりと分かった。
 これは、『籠』だ。
 閉じ込めるための籠。絶対的な力を持つ――
 触れれば、常人ならば即死しかねない強力な力を持つ壁は、また、中の2人の外へ向ける力を中和拡散させてしまう能力も持っていた。単なる封印より性質が悪い。
 これでは――オーマの、この場のウォズを救い出す、封印と言う手段は使いようが無い。
 ――!!!?
 一瞬。
 ほんの一瞬の差だった。殺気を感じた瞬間に無意識に避けたのが幸いしたか、首筋を狙った一撃はぎりぎり避けられ、目の前を銀の輝きが通り過ぎていく。
 それは、骨を変形させ、尖った部分をナイフ代わりにしたウォズからの攻撃だった。

****

「やめとけ…俺はお前と戦う気は無い」
 完膚なきまでに叩きのめした所で、最後の手段である『封印』を施せなければ、最悪『死』を迎えさせてしまう。
 それは、ある意味強力無比な爆弾と同じ意味合いを持っていた。
 ウォズの、『約束された死』以外の死は、理由はどうあれ周囲を巻き込む巨大な『無』を生み出してしまう。
 それは、いくつもの命を贄としても、購いきれない『もの』。
「う、うああぁああがああああ!!!」
 だが、捕獲された事、死に等しい拷問を受け続けた事、そして最大の敵である筈のヴァンサーと共に狭い空間に閉じ込められた事――それらのせいか、または本能か、ウォズの能力の全てはオーマへの殺意へと変換されていた。
 このまま、追い詰められたら、オーマとてどうなるか分からない。
 ましてや、この邪悪としか言いようのない、特殊な中に閉じ込められたなら――。
「……そうか」
 防戦一方でウォズの攻撃をかわし続けながら、何か納得した声を出す。
「本当の目的は、これか」
 底冷えのするオーマの声。もし、外から欲望に満ちた目で見ている者たちへ届いたなら、その者たちの肝すら冷やしてしまい兼ねない、そんな声がオーマの口から零れ落ちた。
 絶対的な力を持つ…封印の輪の中で、ウォズの死から溢れ出る『無』を閉じ込め。
 それを、任意の場所で解放する。
 万一にでもそれが成功してしまえば――例えば、聖都でそれが行われたならば、
 間違いなく、1日経たずして聖都は滅ぶ。

****

「くっ、そおッ」
 体中、傷に塗れたオーマが、へたり込みそうな足をガッ、と地面に叩き付けて立ち上がる。
 髪の色は、何度も真の力を発露させたせいか、黒と銀のまだら色に染め上げられていた。
 表面はまだ、ウォズによって付けられた刀傷だけで済んでいるが、内部は――正直な所、どうして立っていられるのか不思議なくらいやられていた。口を開ければ、焼け爛れたような内部の臭いが上がってきそうな…そんな深刻なダメージを受け続けているのだ、無理も無い。
 かと言って少しでも油断してしまえば、容赦無くウォズの刃物より切れ味の鋭い骨の洗礼を受ける事になる。
「後、少しなんだ」
 それが何かは分からないが、
 どこかが。
 なにかが。
 変調をきたし…溢れ出そうとしている。

 ぐ、ぐぐッ、と、オーマの背が丸められた。
 まるでこれからの何かのために、力を溜めるように。
 ギィン!
「!?」
 動かなくなったオーマの体へと刃を向けたものの、それがまるで金属の塊にぶち当てたような音を立てて弾き返されたのを、目を剥いて足を止めるウォズ。
 その刺激が、引き金だったのか。
「―――――――――ッ!!!!!」
 ヒトの耳には到底聞こえる事の無い悲鳴と共に、

 『それ』が、弾けた。

 ――それは、

 『大いなる力』そのもの。

 遥か過去に於いてひとつの大陸を滅ぼし、幾世代にも渡った不毛の地を作り出した力。

 ひとたび発動すれば、目的も無く、収束する事も知らず破壊し尽くすのみ。

 その中にあって、『オーマ』は唯一揺らぐ事無く、意識を失ったウォズを守るように光の中に包み…力が収束の方向へ向かうのを、ただ、待ち続けた。
 ほとんど誰1人として知る事の無い、真の姿で。

 2人にとって幸いだったのは、『結界』がそのほとんどの力を無効化してしまった事だっただろう。そうでなければ、再び焦土を作り上げてしまい兼ねないだけの威力があったのだから。
 そしてまた、結界から漏れ出した力のひとかけら…2人が表へと出る、ただそれだけの力のために、半径1キロは完全な不毛の地と化していた。いや、それだけではなく、岩山も、森の一端も全て巨大な爪か何かでえぐられ、原型を留める事を許されなかった。
「これだけで、済んだだけでも、マシか」
 実験の結果を見るために設えていた施設、その中にいたであろう公国の人々、及び邪悪なる存在…それらは見るまでも無い。一瞬の出来事であっただろうし、何が起きたか知らぬ間に終わってしまったのだから、と、言い訳めいた呟きを漏らし。
「…すまん」
 自分の中で、決して使うまいと思っていた力。半ば無理やり発露させられてしまったとは言え、自我を取り戻した後には苦い後悔だけが口の中に広がって行く。

****

 せめて、この者だけでも――。
 結界の中に居た事に加え、オーマの力を、オーマ自身が庇っていたとはいえ、浴びてしまったウォズに既に意識は無く。公国の境界を抜けて柔らかな草の上に横たえ、自身もどうっと力なく腰を落とした後で、ウォズの身体へと『治療』を施し始めた。
 それは、オーマの持つもう1つの施術。同じ異世界の血を引くヴァンサー仲間や、ウォズにのみ発揮する力――主に傷を塞ぐのみではなく、命そのものを送り込む事で行われる。故に、死に瀕した者を引き戻すだけの威力があるのだが…その代償として自らの生命力を削るため、余程生命力に満ち溢れているか、さもなければ相当の緊急事態でなければ使おうとする者は殆どいない筈だった。
 だが。
 先程、己の真の姿を現して力を解放し、今はただ回復を待たなければならない体であると言うのに、オーマには露ほども躊躇う様子など無い。ヴァンサーを敵と見なし襲いかかって来たウォズに対し、『治療』を施し続けている。
 余裕などあるわけもない。今、与えているのは、オーマの――残り僅かな命そのものなのだから。
「――っ」
 くらり、と眩暈がして倒れ掛かるも、ぎりっと歯を噛み締めて命の輸送を絶え間なく続けるオーマ。…口の中に鉄の味が広がったのは、噛み締めた際に唇でも切ったか。その痛みが、遠ざかる意識を戻したのだから、オーマに取ってはありがたい事だっただろう。
 そして。
 ――とさり。
 意識を取り戻したウォズが、ぴく、と身じろぎした、その事を何とか確かめた事で気が抜けたか、その巨大な身体は意外な程軽い音を立てて、うつ伏せに倒れこんで行った。
 もう、身体を起こす事も、叶わない。
 末端から冷えて、今まであった体温が大気へ、大地へと奪われて行くのが何だかおかしくて、口の端をぴくりと持ち上げる。
 その直後、ようよう保っていた最後の意識が、ぷつりと途切れた。

****

 オーマは、厳密な意味で不死ではない。
 不死に限りなく近いもの。だから、彼にも他と平等に死は訪れる。
 その事は、自分が何者かを意識し始めた頃から漠然と分かっていた。ただ――その、『死』と言う、自分には酷く遠いものが、実感として無かっただけだ。
 死そのものに初めて直面したのは、自らが奪ったちっぽけな命…その抜け殻を見た時だったのかもしれない。
 その時は何も感じなかったのだが。

「ヴァンサーに礼を言う気は無い、が…お前個人になら別だ。どうしてこんな事をしてくれたのか分からないが――感謝する」
 何も見えず、声だけが聞こえて来る。
「だが次は無い。忘れるなよ」
 …忘れやしねえさ
 オーマが横たわる、そこは、海。
 生命の源。――オーマが、ウォズが、生まれ来、いつか還る、『海』。
 呼吸するごとに、命が、寄せてかえすのが分かる。
 銀の髪が黒へ染まる頃。
 その赤い瞳が、柔らかく細められる頃。
 その大きな手が、殺すためではなく、救うためにのみ振るわれる…その力が戻る頃、オーマが再び聖都へと姿を現すだろう。
 その日は、そう遠くない。
 何故なら――命の守り手こそオーマだから。
 ウォズまでもが、オーマを救うため、受け入れたのだから。


-END-