<東京怪談ノベル(シングル)>


 □蒼緑の彼方□


「あのですねぇ、ちょっとお手伝い願いたいんですよ」
「帰れ」

 大根を真っ二つに切りながらのオーマの言葉に、薬草店の扉をくぐってきた青年は「ええぇ」と軽く仰け反ってみせた。

「話も聞かないなんていきなりその言葉はないと思うんですがねぇ。折角貴方を頼ってきた青年の言葉ぐらい聞いたってバチは当たらないでしょうに」
「うるせぇこっちは今昼メシの支度の真っ最中なんだよ。用があんなら俺の腹が満たされてからにしろ」
「ならその大根まるかじりでもしながら聞いちゃってて下さい。あのですね」
「勝手に話を進めようとすんなっ!! そりゃこの大根は無農薬泥つき大根だからまるかじりしてもうまいがな、俺ぁふろふきが食いたいんだふろふきが。だからメシが終わるまでどっかよそ行ってろよそへっ」

 しかし青年は自身の赤い髪をいじりながら、

「ああそうですか。それでですね」
「てめぇは人の話を聞くっていうお子様大推奨かつ基本中の基本も知らねぇのかっ!!」
「知ってますよ。でも割と急ぎなもんですから、自然とこうした風にしかならないんですこれが。で、続きいいですか?」

 あくまでマイペースに事を運ぼうとしかしない青年に、オーマはくたびれたように手近な椅子を引いて腰掛けながら手招きをする。 

「……分かった、このまんまじゃいつまで待っても俺のふろふき大根ちゃんにはお目にかかれそうねぇ事は確かみたいだしな。いいぜ、話を聞くだけなら聞いてやる。だがもしつまんねぇ用事だったら遠慮なく放り出すぞ」
「あぁ、それは大丈夫です」
「なに?」

 怪訝そうなオーマの瞳に、青年は蒼の目を少しばかり微笑ませながら返した。

「きっと貴方は引き受けたくなるしかないと、そう僕は確信していたりしますから」

 精悍な面に浮かぶそれは特に邪気のあるものには見えない笑顔だったが、しかしオーマはそれを目にして眉を寄せながら問う。

「その根拠はどこにあるってんだ?」
「そうですねぇ」

 青年もまた乱雑に放ってある椅子の中から一つを引くと、テーブルの上で軽く手を組んで言う。

「ま、いずれ分かることですよきっと。そんじゃえーと、オーマさん。簡単に言ってしまえば僕にはちょっと行きたい場所があるんですよ。だからそこに同行してもらえないかなと思った次第でして」
「ほーお。だが何で俺なんだ? ギルドにでも行けばそういった話を持ち駆ける相手にゃ事欠かないだろ」
「ああ、そりゃオーマさんでなければならなかったからですよ。貴方を選んだ僕の理由といえばそんだけです。で、話を続けますが」

 人差しが一本、立てられた。

「僕が行きたい場所っていうのは、ユニコーン地域外の未到地です。人に踏まれていないまっさらな大地、そこに僕は行きたい。だから貴方に同行を依頼しに来たんですよ。あの辺りは前人未到ってだけあって危険が塊になって降ってくるかもしれないっていう噂ですからね。こんなひ弱そうな僕じゃあっという間に瞬殺されるのが見え見えでしょう? まあ同行者兼ガードって感じですかね。ああ、礼金はきちんとここに」

 つとテーブルの下へと青年が手を伸ばしたかと思えば、テーブルの上に重々しい音を立てて袋が置かれた。
 オーマは差し出された袋の紐を解き中を見ると、すぐに元のように縛り直して椅子へと深く腰掛ける。

「……坊主、お前どっかの貴族とかっていうオチか? 何だこの金塊の山は」
「経費とか色々混ぜたらこの程度かなって思ったんですが、何か間違いましたか僕」
「いや間違ったっつーかとんでもねぇっつーか、ケタが違うだろケタが。相場ぐらい勉強してこねえとボッたくられても文句は言えねえんだぞ、この世の中じゃ」
「そうなんですか、こんなもんだって思ったんだけどなあ。やっぱり人の感覚ってもんは分かり辛い上にややこしいですねぇ。それもまた味だけど」
「何?」
「ああこっちの話です。それで結局行って頂けるのかなーと返事が欲しかったりなんだりするんですが、いかがです?」

 青年のあくまで平然とした問いに、オーマはどうもこうも、と首を横に振る。 

「返事を欲しがる前に、まずお前さんの目的とやらを喋ってもらわんとどうにもならんだろうが。そんな場所へ行って何をしようってんだ? 一体」
「うーん、まあこの世界の創世に関して興味を抱き続けている身にとっては、行ってみたいというのは当たり前だと思うんですが」
「お前さん、学者か何かか」
「似たようなもののようなそうでないような、まあそんな感じです。でもこの世界の創世に関して学び続けているっていうのは本当だったりするんで、そこだけは疑わないで下さい」

 木製の頑丈なテーブルに肘をつき頬をあずけながら、青年はオーマへとじっと視線を向けた。

「こういうまだ全然人の手が及んでいない分野の研究っていうのは、とても楽しいものでしてねぇ。まだ完全な成果が出されていない以上、いくらでも想像できたりする。例えば人はどこから来たのか、守護聖獣たちの存在意義は? これからこの世界は何処へ行くのか。まあ色々と考える材料には事欠かない。ですが最後に行き着く先はまだ見ぬ未来ではなく、どうしても過去になる。未だ誰も知らず明かされていないこの世界のはじまりはいつからなのか? それを想像するだけでも楽しいですけど、けれど想像しているだけではただの夢想家だ。だから僕は事実を追い求めているんですよ。この世界の創世の瞬間とまではいかないまでも、それに近しい時を知りたい。ならば」

 糸のように目を細めて青年は笑い、「まだ見ぬ土地にその手がかりが待っているかもしれないと思うのも、しょうがないとはいえませんかね」と言った。
 オーマは顎を撫でながら考え込んだ。青年の言葉にいくらか触発される部分とそうでない部分が、オーマの中で密かにせめぎ合う。
 改めて青年を見れば、彼は変わらず笑顔のままオーマを見ていた。何か含みがあるかと表情をうかがうが、そこにはただの笑みしか存在せず、ある意味で非常に人間らしくない。笑みを浮かべているというのに、そこには愛想も喜びも策略すらも見る者に感じさせはしなかった。人としての何かが欠けている、オーマは胸の中でそうひとりごちる。

 青年の導きのままに未踏の地に同行すれば、明らかに何かが待っているのだろう。危険の匂いすら漂わせて。
 だが。
 
「……出発は、いつだ?」

 オーマの問いかけに青年はおや、と頬杖をつくのを止めた。

「早ければ早いほどいいですよ。僕の方の都合なんか特にないんで、なんなら今からだって全然大丈夫ですけれども」
「なら行くぞ。今から行けば夕方ぐらいまでにゃユニコーン地域のはしっこぐらいまでは辿り着けるだろ」
「あれま、引き受けてくれるんですか? 名乗ってすらない僕を信用しますか」

 後を追ってくる青年の言葉に、頭を屈めて店から出たオーマは中天にさしかかった太陽を見上げ返した。

「別にそんなこたどうでもいい事だ。お前さんの名前なんぞなくても、俺がその依頼を受けようと思った時点で契約は成立した事になるしな」
「へぇえ…………」
「何だ」
「いえ、こっちから持ちかけておきながら聞くのも変ですがねぇ、何で引き受けたのかなあと」
「この世界のはじまりの断片でも知っておいて損はねぇだろ。それに俺はこの世界や俺自身がどうやって創られたのかってとこに興味があるだけさ」
「来てもらえるのなら何でもいいですけどね、それじゃ行きましょうか。……ああ、そうだ」
 
 思い出したかのように青年は道の先を示して言った。

「まずご飯でも食べて行きましょう。人は腹が減ってはなんとやら、らしいですし」






 荒野の入り口。
 乾いた風が吹きすさぶ向こうに落ちる夕陽を眺めて、オーマは先を歩く青年の背へと視線を戻した。

 あれから入った店で何故か昼間からフルコースを頼もうとした青年を無理やり連れ出し、歩きながら食べられる簡単な弁当を買って歩くこと数時間。景色が緑から茶色へと変わり、人の姿はおろか動物の姿すらまばらになってきている。
 地図と歩いた距離、そしてこの景色とを比較すれば既に二人はユニコーン地域を脱しており、未踏の地に足を踏み入れていた。

「しっかし、何もねぇ所だな」

 オーマのぼやきももっともだった。前人未到の地という響きとは裏腹に、眼前に広がる光景はただどこまでも続く荒野ばかりであり、オーマの視力をもってしても果てが見えない。

「まぁ人が何も手を入れていないという意味では当たり前の光景ってやつですかねぇ、緑もない代わりに建物もない」
「でもなぁ、学者たちがあまり調べたがらねぇっていう話を聞いた事があるが、これじゃ調べる気も失せるわな。まだ遺跡でもありゃ別なんだろうが、こうも果てまで何も見えねえとなると……」
「そうでもないですよ、行こうとした者もいた。でも世界の創世ってやつを知るには、ちょっとばかり資格その他が足りなかったようで。知的好奇心もほどほどにってやつですかね、あの時は大変だった……偶然入ってきた者たちが世界に触れようとしてしまったんですから。僕たちも人は全然嫌いじゃないですけど、あまりに求めすぎるのはよくないと思ったりしましたよ。ああ、まったくまったく」

 青年が足を止め、振り返る。
 枯れた風に吹かれた赤い髪がうねる様が何故か不気味なものに見え、オーマは口を引き結んだ。

「資格って言いましたけど、僕らそんなに大した基準をもうけているわけでもないんです。ただ本当に世界に触れたいと思うのであれば、既にその人の中には資格が発生していたりするんですから。でもそこに利益を求めるものが生まれればもう駄目、資格はありません。世界っていうものはそういうものじゃあない」

 風が消えた。いや、夕陽も消えている。
 乱れた髪を手ぐしで直しながら、青年は何でもない口調で続けた。

「ただ在り方を求めるもの、それさえあればいいんです。そしてオーマさん、貴方はそれともうひとつ大事なものを持っている。僕は貴方のような人を探していた」

 ただ広がる荒野の中、オーマは青年の言葉を聞きながら息を詰める。
 青年の周りの空気が歪んでいた。そしてそれは青年そのものを巻き込んでいく。ぐにゃぐにゃと螺旋を描くかのように変体する青年の姿の中で、赤の髪と蒼の瞳だけが最後までオーマの印象に残った。
 歪み続けながら、もう見えなくなってしまった口で青年は言った。

「頼みごとが、あるんです。もう一千年近く探していたので断られると困るんですがね、また旅を続けるには時間がなさすぎる」

 螺旋は青年の影を完全に消し、いっそ無邪気と言っていいほどに廻り続けている。

「オーマ・シュヴァルツ、創世を求めし純粋なる探求者。求める資格のある貴方にやって欲しい事は――――」

 巡る螺旋の動きが止まり、青年の声もまた途切れた。
 そして。



『――――創世の戦いの再現だ、とでも言うのかな』



 咆哮が、響き渡る。 
 






 
 七つ首が天を、地を、そして遙か彼方の海を見る。開かれた口からのぞく舌はあくまで赤く、こぼれた唾液は蒼の鱗へ落ちて散った。また咆哮。大気を震わせるそれに鼓膜が弾けそうになるのを防護しながら、オーマは巨大なそれを見上げた。
 そこにいたのは、竜だった。

 脈打つ赤と蒼に彩られたそれはひとしきり七つの首を動かしていたが、首の一つがオーマの姿を視界に捉えたと同時に大地へと伸びる。
 瞬きする間に眼前に竜の口が迫り、オーマは息を呑んだ。喰われる。その可能性が現実になろうとしたが、閉ざされた竜の口からは骨が砕かれる音も血が吹き出る様子もない。しかし竜の首はそれに残念がるどころか、蒸気のような鼻息を噴き出して歓喜を現した。たった今地に降り立ったものが、歓喜の原因だった。
  
 地に足をつけたそれは、銀色の翼をたたみ真っ直ぐに蒼の竜を睨んだ。瞳は真紅。だがそこには美しさよりも獰猛な輝きが宿っている。人が羨望の眼差しをそそぐにはあまりにそれは危険すぎるものを瞳としているそれは、銀色の獅子の姿をしていた。
 しかし獅子の、目にすれば逃れられない力をたたえた視線をそそがれてもなお、竜は楽しげに口を開いてみせるだけだった。

『ああ、それでいい。私と戦うのにはあの姿では不十分だったと思うから』

 言葉は口腔からではなく、精神そのものから響いてくる。
 その青年だったものの『声』に、銀色の獅子はひとつ吼えて応えた。

『……てめぇ、その姿は――――ティアマットか!! なんだって守護聖獣のうちの一匹が守護者もいねぇってのに実体化してやがる!!』

 ティアマット。この世界を守護する聖獣の名を呼び、獅子の姿をとったオーマは叫んだ。
 守護聖獣という存在は、守護するべき人間が側にいなければ実体化はしない。それも実体化した姿は同じ聖獣であったとしても、守護者の能力その他によって様々なものへと変化する。
 だというのにこの聖獣の姿は常軌を逸していると言っても過言ではなかった。天をつく体長と動きひとつだけで荒野が啼く程の力を有する聖獣の召喚など、できる術者がいるとは到底考えられるものではない。
 オーマの動揺を察したのか、竜は幾つかの首をもたげる。

『守護者は必要ないんだよ。私はティアマットから別たれた一部だ、現界するのにもさほど力は必要ないし、人を介して現れるような手順も要らない。……さてオーマ、時間がない事はさっき言ったね? そろそろ始めよう』
『一体何を始めるってんだ? 創世の戦いとか言ってたが、これがそうだとでも言うのか』
『まさか』

 あっさりと否定し、ティアマットは蒸気を吐いた。それはまるで溜め息のようだった。

『規模がまず違う。それに私はあくまで魔竜の一部でしかないのだし、貴方もまたそうだろう。どれだけ力を持っていたとしても、世界の一部にしか過ぎない』
『なら、戦う事にどんな意味がある。まさか戯れで俺を選んだわけでもないだろう』

 獅子の言葉を受け、竜の眼が歪む。

『戯れなどと。そんな風に遊んでいる暇はないよ、ずっとずっと探し続けてきてようやく見つけたのだから。さあ、オーマ』

 七つ首が反り返り、大気が吸い込まれていく。

『始めよう』

 そう精神が伝えるのとほぼ同時に七つ首全てから青の閃光が走った。銀色の羽根を散らして飛び、獅子が舞い上がる。それを追うようにしてティアマットの翼もまたはためいた。
 首が三つ、前へ出る。宙に描かれる紋様は崩壊の円。力の放出はまた青に彩られ、獅子の白銀の体毛を焼いた。
 上がる苦悶の鳴き声にも構わずに竜は落ちていく獅子を追い、再度崩壊の円を発動させようと三つ首を前に出す。

 だが落ちるばかりと思っていた獅子は宙で身体を反転させた。

『!!』

 下に向かって無防備に伸びた首のひとつに獅子の牙がめり込み、胴を離れて地に落ちる。荒野に血が染みていく様を見て何故か笑ったように見えた二つ目の首には爪が下ろされ、獅子の毛を赤く汚した。
 千切られかけた二つ目の首をだらしなくぶら下げながら獅子を蹴って距離を取ると、竜は血を噴き出させて、それでもなお悠然と大地に立つ。

『成る程、これはなかなかだ』
『……随分余裕じゃねえか、悪いがこの姿じゃ手加減はきかねぇぞ』
『だろうね。でもそうでなくては意味がない』

 沈黙を守っていた四つ首が展開した。力が首の狭間に満ち、雷の球体が生まれる。

『私が貴方に頼みたい事というのは、こういうことなのだから』
『――――――――!!』
 
 爆ぜる音を伴い放たれる雷球。体毛を削る勢いをもって迫り来るそれを獅子はかわすが、それも二つ目まで。三つ目の雷はたてがみを灼き、獅子は痛みに咆哮して地に崩れ落ちた。

『死なないで欲しい。と願いたいところだけれど、そうもいかない。頼んでいるのに試すなんて失礼もいいところだというのも分かっている。でも私はそうしなければならないんだ。だから、オーマ。頼むから死なないで。私を殺す気で来てくれなければ、きっと貴方は死んでしまう』

 激痛が襲い来る中、獅子はその言葉に笑ってみせようとしたが、弧を描く筈の口から吐き出されたのは笑みではなくただの血液だけだった。
 今の雷球を食らっただけでも相手が本気だというのを示すには十分であり、己の命を守る為にはそれこそ本気でかからなければならないという事を実感させられ、獅子は歯を食いしばりながら立ち上がる。

 きつく前を、竜を見据え吼えたける。殺らなければ殺られるという死と生を天秤にかけた戦いを求められてもなお、オーマという名の獅子は殺戮の雄叫びをあげようとはしなかった。
 それは彼の矜持の証でもあった。噛み砕く牙を、そして引き裂くだけの爪を持ちながらそれを振るわないのは、二度とという誰にも告げない誓いがあるからだ。

 二度と、この手で命を。
  
 獅子が跳び、竜が首をもたげる。
 再びどちらともいえない血しぶきが宙に舞い、ただ地面に染み込んだ。






 三日三晩。オーマが数えたのはそこまでだった。
 いや、数えるという作業をする暇もなくなったというのが正しいだろう。そうオーマは思う。もう何度目の新しい日を迎えたのだろうか。風もなく昼夜さえないこの隔絶されている世界では昇る太陽で時間を計る事すらままならないが、それすらももうどうでもいい話だった。

 銀色の獅子は既に二つの色にまみれている。血の赤と土の茶色は幾重にも怪我を重ね大地を転がった証だ。
 ティアマットも同様に、蒼の鱗の隙間から絶え間なく血液を流れ落としている。しかし戦いの初めとの大きな違いは、既に七つ首ではないという事だった。もがれた首は合わせて五つ、そのどれもが未だに向かい合う二人の周囲に所狭しと転がっていた。
 
 獅子が息を大きく吸い込む。が、それを黙って見ているような魔竜ではない。破れかけた翼を駆使し飛び上がると急降下。息を吸う為に喉元を曝け出した瞬間を狙う。
 だがそれは罠だった。獅子は呼吸を止めると、自身の喉笛に噛み付こうとした竜の首のうちのひとつを銀の翼にて叩き落とし、前脚でそれを踏みつけ最後の頭を引き寄せた。首のひとつが負荷に耐え切れず千切れていく激痛を味わいながらも、魔竜は欠けた牙を獅子の頭部へと突き立てる。だが猛る獅子は自らの傷など構わずに頭部を噛まれたまま、最後の首へと食らいついた。
 竜の目が、見開かれる。

『……………………』

 草一本すら生えない、生き物の絶えた荒野。
 そこに土煙をたてて落ちたのは、いまや一つ首となってしまった魔竜だった。

『……ふ、ふふ。ああ、良かった。貴方は、やっぱり私の見込んだとおりの、ひとだ。そうだ、それでこそ私が見つけた――――』

 自らの千切れた首に囲まれながら仰のく竜を獅子は呆然と見ていたが、やがてぶるりと身体を震わせるともうそこには銀の獅子の姿はなく、荒野に立っていたのは血まみれの青年だった。
 獅子と同じく赤の瞳と銀色の毛髪をした青年は、夢から醒めたような顔をしながら震える足で竜に近づくと、傍らに座り込む。
 そんな青年、オーマの様子を見ていた竜は、笑うように目を細めた。

『どうしてそんな顔をする? 私が貴方に頼んだ事はこれで果たされるんだ。貴方は私との契約を守ったんだよ』
「うるせぇっ!! ごちゃごちゃ言ってねえでちったぁ黙ってろっ!!」

 銀髪のオーマは自らがつけた首の傷に手をかざし、魔術で生成した命の水を傷口へと注ぎ込んでいく。しかしもがれた六つの首からの出血に加え、数日間にわたる戦いによって竜の体力も残り少ない事は誰よりもオーマが知っていたが、それでも彼は傷口に生命を注ぐのを止めようとはしなかった。
 額から汗が、そして血が流れて視界を塞ぐのを乱暴に拭い捨て、疲弊の為に霞む瞳を開きただ魔術を駆使し続けるオーマを、竜は静かに見つめている。

「大体魔竜のくせして何でこんなにあっさりやられちまうんだ!? 守護聖獣の一匹ならちっとは根性見せやがれってんだ!!」
『……言っただろう、私は魔竜の一部だと。まあ場所が場所なのでね、私が倒れれば本体も影響を受ける。心臓を放り出して一千年か、思えば長かったのか短かったのか……人の姿をしていたから、随分長かったような気がする』
「おい、待て。心臓って……お前まさか魔竜の心臓そのもの……」
『そうだよ』 

 肯定の言葉と共に、竜は穏やかに語り始めた。『時間が来る前に、話しておこうか。私の行動の理由を』

『――――私や、他の聖獣たちには意思と記憶はあっても、世界のはじまりは誰も知らないんだ。気がつけばここにいて、世界を守っていた。それが自分の成すべき事だと何故か知っていた。疑問も何も抱かなかったよ。
 でもね、そんな私たちにも寿命というものがある。数千年、いや万年を生きようともどうしたってそれはやってくる。私もそんな例に漏れず、二千年前ぐらいから弱体化の傾向が見られるようになってきたんだ。けれどこの世界を支える守護聖獣が欠ける事はあってはならない。だから私たちは座を欠けさせない為にも一度死を迎えて、新しく自分と全く同じものを生み出さなければならないんだ。
 しかし厄介なのはここからだ。寿命が来たからといっても私たちはそのまま死ねるわけじゃない、自分を殺すに相応しい相手を探してそれに殺してもらわなくてはならないんだ。今、この世界に生きる者によって、そして未だ私たちの力が及ばない地で朽ち果てること。それが私たちの死の条件なんだ。私たちは荒野に血を染み込ませることで枯れた大地を芽吹かせる役割を持つ。最後の一仕事、とでも言うのかな。
 とにかくそういう理由から、私はいよいよ寿命が近づいてきた一千年前に心臓をこの世界に放って、ずっと探し続けてきたんだ。でもなかなかそんな相手は見つからなかった。決して選り好みをしていたわけじゃないが、探求者としての資格を持ち、なおかつ私を打ち倒せるだけの力を持った者はそう簡単に見つかるものじゃなくてね、苦労したよ。寿命間近で貴方を見つけられたのは運が良かったとしか言いようがない。殺すことをよしとはしない貴方にこんな事をさせるのは酷い話だと分かっていたけれど』
 
 でも、と竜は血の溜まった口を開いた。笑ったつもりだったのだろうか、オーマには分からなかった。

『でも私は、貴方を選んで良かったと思っているんだ』

 ごぽり、と竜が吐いた赤い液体にまみれながら、オーマは傷口に触れさせていた手のひらから竜の体温がなくなっていくのに気付き、戦慄する。

「待てよ……まだ、まだ死ぬな」 
『いいんだよ、オーマ。一度死んでも新たな私がすぐに生まれ、ティアマットの座に戻るだろう。世界はそうして回っている』
「んなこた関係ねぇんだよ!!」

 オーマの全身から血が滴っていく。数日にわたっての戦闘と傷の深さに身体が悲鳴をあげていたが、けれどオーマは銀髪を振り乱しながらも決して治癒の手を緩めようとはしない。
 
「また生まれるっつっても、今度生まれるお前もお前だってわけじゃねえだろ。思い出や記憶がなくなるのが怖かったり悲しくなったりしねぇのかよ。死は死なんだよ。一度だって何度だって、死は死でしかねぇんだよ!! 全部なくなっちまうんだ、それをもっと悲しみやがれこのバカ竜が!!」

 迸った叫びには悲しみと苦しさと、様々なものが詰まって弾けそうな思いがあった。
 魔竜は大きく蒸気の息を吐き出しながら、治癒を続けるオーマの身体を指のない前脚で遠ざける。ほとんど力の残っていないオーマの身体は、意思とは反して竜の傷口から離されていった。

『ありがとう。でも、これでいいんだ』

 血が荒野に染み込んでいく。千切られた首から胴体から、そして最後に残った首の傷口から溢れ出たそれを吸っていく乾いた地面を見るまでもなく、オーマは知っていた。
 もう自分が手を尽くしたところで手遅れなのだと今まで様々な患者を診てきた男の頭が冷静な判断を下すが、けれどオーマは竜の前脚から逃れる為にもがいた。頭で理解していても、認めてはならない事があるのだ。
 オーマは渾身の力を込めて前脚を蹴り自分との間に隙間を開けると、それを踏み台にして竜の側へと降り立つ。

 一連の行動を見ていた竜が、白く濁りかけている目を細めて笑った。
 血は変わらず溢れている。

『これでいい。私の血、命によって、また世界の一部は息を吹き返す。枯れた荒野は緑を得て、人はまた前へと進むだろう。その行く末を見られないことだけが残念だが――――』

 ティアマットの身体が、ゆっくりと薄れていく。
 オーマは黙って首の傷跡に歩み寄ると、再び治癒術を発動させた。命の水の狭間にそれとは別の雫が落ち、消え行く竜の身体へとただ命を伝えていく。

 そして竜は、微笑んだ。


『私たちさえもはじまりを知らない世界。けれど何よりいとしい世界。――――さようなら。私の生きた、私の愛した世界よ』




 



 風の絶えた世界に新しい風が吹き、呆然と立ち尽くしていたオーマの鼻を青臭い匂いでくすぐった。
 銀色の髪を柔らかな空気が撫で、誘われるようにオーマは辺りを見回す。

 緑の野。
 見渡す限りどこもかしこも草が生い茂り、木の若芽が顔を出し、花を咲かせている。乾いた風が土ぼこりをただ運ぶだけだった荒野はもうここにはなく、あるのはただ絵に描いたような平穏な野の光景だった。

 水音がした。オーマが下を向けば、足元に小川が流れている。透明な川底に沈むようにして深い蒼の鱗が数枚あったが、水の流れに導かれるように一枚、また一枚と流れていく。
 オーマは冷たい水の中に手を差し入れ、流れに乗った鱗の一枚をすくいあげた。
 大きな手のひらの中、水にひたされた蒼の鱗は陽光に照らされて幾重にも反射し、不思議な色を放っていた。きらきらと、まるで喜びを表すかのように。
 
「……これが、お前の生きた証、か」

 輝きを逃さないかのようにきつく鱗ごと手を握り締めると、オーマはそっと踵を返す。
 身体の傷は既に癒えていた。最後に浴びた竜の血液が身体をも癒したのだろう、その事実にオーマは胸の中に静かな、そして乾いた風が吹くのを感じた。これはもう決して止みはしないだろう。殺し、そしてその相手に助けられてしまった事実。
 それをオーマは、忘れない。



 
 名すらなかったこの緑の野に人が溢れ帰り、笑顔が満ちるのは、もう少しだけ先のはなし。







 END.