<東京怪談ノベル(シングル)>
遠い日の温もり
いつものように目覚めたのは茜色に染まる部屋の中。
私は起きあがりその夕焼けを見て、生きているという安心感に包まれる。
窓から見えるその景色は変わりが無くて。
今は仮のものかもしれないが私を包む平穏がある。
けれどそれは昔もそうだったという訳ではなかった。
そんなことを思いながらいつの間にか口ずさんでいる歌。
「好きだった‥‥子守歌みたいで‥‥」
ベッドの中で膝を抱え窓の外を見遣りながら私は遠い昔に思いを馳せた。
孤児だった私はいつも一人きりだった。
何をするにも一人で、必死に生きていた。
広い街の片隅で。
誰もが私を蔑み邪魔者扱いをする。
自分だけが味方だった。
辛かったけれどそれにただ負けてしまうのも悔しくてただ生にしがみついていた。
だって私は生きていたから。
誰が認めなくても私は此処に存在していていたから。
その日も私はパンをちょっとだけ頂いて、店の主人が追いかけてきそうもない場所まで逃げてからパンを囓っていた。
その時、脇に立ったのは数人の大人。
私に、一緒に来い、と告げて手を差し伸べた。
街には誰も私に手を差し伸べてくる人は居なかった。
なんだか怪しげな雰囲気を持つ人々。子供の目にもそれは明らかだった。
だから一瞬その手を取るのを躊躇われたけど、私はその手を取った。
初めて触れた人の温もりはとても心地がよいものに感じられて、私は少しだけ嬉しかった。
そして私を拾ったのは暗殺者集団だということに気づいたのは拾われてすぐのことだった。
私を育ててくれたのは、私に手を差し伸べた女性だった。その人が教えてくれた。
暗殺者になるには身寄りのない者が一番適しているのだと。
周りのことに捕らわれることなく、相手に弱みを握らせることもないからと。
私もいずれ暗殺者になるのだと告げられた。
あの日私を拾ったのはそのためだと。
それを聞いた時、ほんの少しだけ心の温度が低くなったような気がした。
私がこの人達に必要だと思われているのは、私の生い立ち等だけで私自身が必要な訳ではないって気づいてしまったから。
そして一番欲しているのは、これから教えられるであろう誰かの命を奪う技術なのだと気づいてしまったから。
だけど私が取った手の温もりは本当だった。それは嘘じゃない。
それからは私は毎日過酷な訓練を強いられた。
肉体の限界にまで挑戦するような辛くて苦しい訓練が毎日私を待っていた。
私が気絶するまでそれは続けられた。
毎日毎日その繰り返し。
でもそれは辛いものだったけれど一つクリアする事に、少しずつ自分が強くなっていっていることが分かった。
自分自身が強くなること。
それは一人前の暗殺者としてのレベルが上がっていくことを意味していたけれど。
私は強くなりたかった。
生から逃げることをしなかったように、『今』から逃げたくはなかった。
今目の前にあることが『私の現実』ならばそれを突き進むことが私の生きる意味。
強くなることで少し前に進めるような気がした。
「っつぅ‥‥かはっ」
鳩尾に拳が入り、私はそのまま崩れ落ちた。
「まだ甘いわね。今の本当なら死んでたわよ」
痛みで息が出来なかった。
見上げることも出来ずに惨めに地面に這い蹲っていた。
「さっきみたいな時は間合いを見極めなくては。そのまま突っ込んでくるからこうなるのよ」
やっと息が出来るようになって、咽せながら息を吸う。
「早く息を整えなさい。もう一度いくわよ」
ただ頷くしかなかった。
「どうも剣とかは向いてないようね。こっちの方が良いかもしれない」
そう言ってその人は私に鋼糸を放り投げた。
息を整えながら私はその鋼糸を手にする。それは普通にあるただの鋼糸に見えた。
「それを自在に使えるようになったらあんたはもっと強くなる。いい? これはこうやって使うの」
見てなさい、とその人は私の目の前で幾重にも鋼糸を張り巡らせ美しい網を作り出した。
「綺麗‥‥」
「気づかれないように暗闇の中に張り巡らせるのよ」
そして次の瞬間にその鋼糸はその人の手の中にあった。
「でもこれを教えるのはまだ先。あんたは基礎をもっと勉強しなさい」
立って、と私を起きあがらせ先ほどの続きを繰り返す。
その人の繰り出す技の空圧で肌が切り裂かれる。
血が花びらのようにあちこちに舞った。
それでも攻撃の手は止まらない。
先ほど喰らった技は見切ることが出来たけれど、安心したからか次に容赦なく繰り出された攻撃には反応できず私はそのまま意識を失った。
どのくらい経ったのだろう。
ゆっくりと浮上する意識。
耳には微かに聞こえてくる柔らかな歌声。
子守歌を歌って貰った経験は無かったけれど、子守歌とはこんな柔らかいものなんじゃないかとそっと思った。
うっすらと瞳を開けてその人の様子を窺うと、とても優しい表情でその歌を口ずさんでいた。
とても厳しくて訓練の時は鬼のようだと思ったこともあった。
けれど今目の前にいるのはとても優しい表情をした一人の女性。
それにいつも気絶した後目覚めると、丁寧に傷の手当てがしてあった。
それと今みたいに柔らかな歌声が聞こえることが何度もあった。
優しく頭を撫でられた事もあったような気もする。
本当はこの人はとても優しい人なんじゃないかと、暫く経った頃から私はこっそりと思っていた。
私はその人の声に合わせるようにほんの少ししか分からなかったけれどその歌を口ずさむ。
そうしたら驚いた表情でその人が私を見た。
初めて見た表情。
「な‥‥何? 気付いてたの?」
「その歌……何の歌なの?」
「え‥‥?」
バツが悪そうにその人はポリポリと頭を掻いた。
気づかれてないと思っていたのかもしれない。
「なんで?」
「その歌好きだから。教えて貰いたいと思って」
「歌が好き?」
その言葉に頷くとその人は照れ隠しなのか渋々と教えてくれた。
その歌を口ずさむ度に心の温度が上がる。
優しい優しい歌だった。
初めの頃はただ厳しいだけだと思ってたその人は、実はとても優しい人で私を大事にしてくれた。
やっぱりあの時感じた手の温もりは嘘じゃなかった。
でも優しい時は長くは続かなかった。
私はあの夜のことを今でもしっかりと覚えている。
忘れられる訳がない。
その夜、その人は組織を脱走したのだ。
私もこの組織に対してその人が反発心を持っていたのに薄々気が付いていた。
だけどそれに気付かないフリをし続けた。
そうすれば少し一緒にいられる時間が増えるんじゃないかと勝手な期待をして。
優しい時間がもう少し長く続くんじゃないかと。
私にとって母親のような存在でもあり、師匠でもありとても大切な人だった。
だから私はその人が無事に逃げられるよう追っ手の妨害をしようとしようとした。
いくら強くてもこのままでは複数の追っ手に殺されてしまう。
そんなことは耐えられなかった。
けれどその人が妨害をしようとした私の手を押さえた。
その時の瞳、絶対に忘れない。
二人だけの時に見せた柔らかい眼差しだった。
私はそっと手を下ろした。
ギリギリときつく鋼糸を握りしめる。
このまま見殺しになんてしたくない。だけど困らせることもしたくない。
鋼糸で肌が切れて血が滴り落ちた。
だけどそんなことは気にならなかった。
息が出来なくなるくらいに苦しい。
力のない自分がとても悔しかった。
冷え切っていた心に温もりをくれた人。
それがとても嬉しかったのに、それをくれた人を護ることが私には出来ないそのことが悔しかった。
その人に追いついた追っ手達がその人をただの骸に変えたのはすぐのことだった。
切れた肌の痛みなどよりも胸の痛みの方が酷かった。
もう私の手を取ってくれる人は居ない。
暖かな温もりは何処にもない。
組織での私への風当たりはとても強くなっていたけれど、私はそれを耐え抜いた。
もっと強くなるまで、力を蓄えるまで。
あの人が逃げたがっていたこの組織を潰すことが出来るくらいの力をため込むまで。
そして私は十分すぎるくらい技を磨き、憎かった組織を壊滅させた。
これであの人も私も本当に何にも縛られることがない。
このことを知っているのは私だけ。
体に残った数々の疵痕も、心に付いた疵痕も。
全て自分の中にしまい込んで。
思わず溜息が漏れた。
昔のことを思い出してたらいつの間にか外は真っ暗だ。
夜空には刺さりそうな程にとがった三日月が浮かんでいる。
「……黒山羊亭、行こうかな」
そこには多分、いつものように腐れ縁の人物がいるはず。
ずっと一人きりだった私はあの人に拾われて温もりを知って、悲しみも知った。
また一人きりになった私だけど、今は一緒に居る人物がいる。
冷えた心も一緒にたわい無い話をしていればすぐに暖まる。
暖かな温もりは再び私と共にあった。
今でも私はあの歌を口ずさんでいる。
遠い日の温もりを思い出しながら。
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