<東京怪談ノベル(シングル)>


想いの果てに

 その日、オーマは柄にもなく沈んでいた。
 朝っぱらから妻の手料理、なんていうものを無理矢理(半ば力尽くで)食べさせられたからだ。何とか持ち前の強靭な忍耐力というやつで持ちこたえて、それでも病院を開けたのは一時間遅れという有様だった。
 診察室の窓から見える清々しい空も、今のオーマには何の意味も成さない。
 近頃はウォズの進入が随分と深刻化していて、しかもそれらを倒せるのはヴァンサーである者だけなのだからオーマはしょっちゅう駆り出されている。ウォズの封印プラス医者としての仕事、他にバイトと自身が総帥である同盟の管理&布教、そして妻の手料理との闘い。
 お陰で毎日がてんやわんやの大騒ぎだ。

「泣けてくるねぇ……」

 特にウォズに関してはヴァンサーでなければ相手にならないということは勿論、一体何に具現化するのか判らないという恐怖は、魔物しか知らないソーンの人間にとっては随分と堪えるものがあるらしい。その所為でオーマの病院は最近は医者ではなくカウンセリングとして繁盛してしまっているほどだ。曰く、「最近家の中で視線を感じる気がするんですが、何処かにウォズが潜んでいるのではないでしょうか…」等々。噂ばかりが先行している中ではそれも致し方ないし力になってやりたいとは思うが、まず一言めは「此処は病院だ!」になってしまっているオーマだった。
 先程もそんな患者(?)を相手して帰したばかりだ。しかも話を聞く限りでは単なる気の所為としか思えないものだったというのに、その患者はとぼとぼと肩を落として帰って行った。
 患者の途切れ目に一人深い溜息を吐いてしまったとしても、俺は何も悪くないと誰に対してか判らぬ弁解もしてしまいたくなるというものだ。
 けれど次にがやがやという騒ぎと共に入って来た患者には、オーマもやる気を出さないわけにはいかなかった。
 担ぎ込まれたのは、白い服を真っ赤に染め上げた少女だった。此処へ来るまでに少し時間が経ってしまった所為か、その血は黒く変色しかけている。

「おい、どうした!」
「ああ、先生。このコがこんな格好で街をフラフラしてたんだ。看てやってくんねぇか」

 騒いでいる張本人である男が、オーマの姿を認めてあわあわと説明する。その男はオーマの常連患者だ。
 少女はと云えば、抱えられたままぴくりとも表情を動かさず腕の中でじっとしていた。

「とりあえず診療室のベッドへ。そっと運んでやれよ。何処怪我してんのかも判んねぇんだし」
「お、おう!」

 少女を寝かしてやると一安心したのか、男は「後は宜しく」と云って待合室へ出て行った。オーマも軽く礼を云って、さてどうしたもんかと少女を見遣る。
 ―――痛がっている様子はない。それは危険信号でもある場合があるが、少女の顔色はそれほど悪くない。

(返り血……?)

 訝しみながらも、オーマはとりあえず袖を捲った。元は白かったと思われる袖が、今は一面紅く染まっている。

「……すっぱり切れてるな」
「平気よ、大丈夫」
「ンなわけねぇだろ。とりあえず止血だ。他に何処怪我したんだ?」
「後は、背中だけ。血は飛び散ったのを浴びただけだから……」

 少女の声音は頼りなさげな表情からは想像もつかないほどはっきりとしていた。
 やはり返り血か、と思った時点であまり良くない予感はしたが、とにかく目の前の怪我人の治療が最優先だ。オーマは薬箱をひっくり返す勢いで側へ寄せた。

「そうか。じゃあ仰向けになれるか?」
「うん」

 そう云って、やはり大して痛がりもせずに身体を捻った、その背中の傷跡が。
 ――― 一目見ただけでも判る。それはあまりにも、普通とは云えない状態だった。

「爪痕……?」
「………」

 独白のようなオーマの科白に、少女は今度は反応しなかった。それ以降はオーマもひたすら無言で、治療に専念した。



  ■□■



「―――さてお嬢さん、聞かせて欲しいんだが」
「………」
「その傷は、何処で?」

 消毒液をつけても何の反応を返さなかった少女だったが、しかし、その質問には顔を歪めた。
 ほんの僅かの表情ながらにそのあまりの悲痛な表情に、オーマの方が逆に言葉を失ってしまう。

「あー…悪かった。詮索はしない」

 其処でほっとされたら、オーマも大人しく少女を帰すしかなかっただろうと思う。
 けれど少女は確かにその瞬間、何かを云い出そうとして、そして途中でつっかえたようにまた俯いてしまったから。
 ―――娘と同じ年頃の少女だ。これは少し放って置けない。

「―――おまえ、ウォズって知ってるか?」

 案の定、唐突なはずのその質問に、少女はびくっと身体を震わせた。

「……知ってるんだな。おまえのその傷はどう見ても、普通に受けたものじゃない。かと云って、おまえは冒険などしなさそうな感じだから魔物じゃない。そうなると、俺がウォズだと思うのも早合点ではないはずだ」
「………」
「それに、おまえ自身はそんなに出血していない。なのに服は血だらけだ。こりゃ何かあったと思うしかねぇだろ」
「………」
「俺はヴァンサーっつってな、ウォズを倒すことが出来るんだ。良かったら話してくんねぇか?」
「……ウォズ、かどうかは判らないんだけど……」
「うん?」
「………」

 漸く話し出してくれそうな少女だったが、また黙り込んでしまった。唇の端をきゅっと結んでいる。よほど喋りたくないのか、若しくは喋れないのか……

「よし、おまえの家まで送ってってやろう」
「え?」
「どうせ患者も今は居ないし。その怪我と服じゃ、一人じゃ帰りにくいだろ」

 精一杯のオーマの妥協案に、漸く少女は安心したように頷いた。



  ■□■



 少女はひとつ、条件を出した。
 本来なら特に条件を出すような場面ではないだろうと思うオーマだったが、その内容が内容だっただけに思わず頷いてしまう。
 負ぶってくかというオーマにけれど首を振った少女に、とりあえず途中自宅で娘の上着を一枚拝借し、かけてやった。
 悠然と道を闊歩するオーマの斜め後ろを、少女はとぼとぼとついてきた。時折分れ道に到ると、オーマが「どっちだ?」と聞き、少女が指を指す。その繰り返しで辿り着いた先は、黒山羊亭のあるベルファ通りに近い裏路地だった。……あまり治安は宜しくない。けれど少女を連れてきた男も黒山羊亭へ向かう途中で少女を見つけたというのだから、此処で間違いではないだろう。
 少女は一件の寂れた店先で唐突に足を止めた。あまりに崩れかけているので、看板も何が書いてあるのか見えなかった。

「此処がおまえの家か?」
「うん。……中に、ウォズかも知れないお母さんが居るの」
「え……?」

 少女は疑問符を飛ばすオーマに構わずに戸を開けた。
 オーマは仕方なく後を付いて行く―――が、それほど奥でもない場所に蹲る紅いものを認めて、思わず足を止める。

「……ッ! ウォズ!」

 判る。数々のウォズを見て、そして封印してきたオーマにだからこそ判る、それはウォズに間違いなかった。
 けれど、少女の悲痛な制止の声によって咄嗟に攻撃を押し止めた。

「お願い、止めて……!」
「おまえ……」

 少女の表情が、初めて大きく変わった。けれどそれはとてもとても哀しい変化だった。

「判んない、お母さんは死んじゃったはずなの。けどいつもこの店のこの椅子に坐ってたお母さんが居ないなんて信じられなくて、いつもいつも、前みたいに此処に坐ってたら良いのにって思ってた」
「………」
「だからある日お母さんがまた坐ってるのを見たときも、幻視なんじゃないかって、それかあたしの願いが通じたんじゃないかと思って、けど近付いたら夢が覚めちゃう気がしてそのままにしといたの」
「……それで?」
「だけど時々は話し掛けてくれるようになって、しかもご飯を側に置くとなくなってるの。それでおかしいって流石に思って。でも相談するひとも居ないし、ずっとこのままでも厭だと思ったから思い切って近付いてみたの」
「そしたら襲ってきたのか……」
「うん。ウォズの噂を聞いたことがあるんだけど、想いが具現化したものなんでしょう? だったらあたしが消さなくちゃって、思って……」
「もしかしてずっと、襲ってきてもそのままで居たのか? 古い傷もあったみたいだが……」
「だってどうしたら良いのか、ホント判んなくて。もしかしたら本当にお母さんかも知れなくて、お腹が空いてるのなって」
「おまえなぁ……」
「……やっぱり、ウォズなの?」
「ああ、そうだ。でもこんなに瀕死なのはどういうことだ? ウォズはヴァンサ−の攻撃しか効かないはずなんだけどな」
「判んない。お母さんがあたしを襲ってくるのが哀しくて、咄嗟に近くにあったナイフで身を庇ってたの。振り回しはしたけど、別に刺したりはしてないはずで、けど気付いたらこうやって傷だらけで倒れてて、」
「それで怖くなって家飛び出してフラフラしてたのか?」
「うん……」
「しかも俺に救急箱持って来いって、コイツの手当てさせようとしてたのか?」
「だって……お母さんなんだもん……」
「おまえ……」

 ウォズはヴァンサーの攻撃によってしか倒せないが、心在りし魔法や強き人の想いによる攻撃は受けるのだと云う。
 オーマから見ればウォズで、けれど少女から見れば母親だ。母親を想う少女の心が、こうしてウォズに傷を負わせたというのだろうか。
 遣り切れない。特に娘サモンと同じ年頃だからこそ、余計に遣り切れない。

「……通常は、封印すべきなんだが……」
「や、やめて!」
「殺すんじゃないぞ? 封印するだけだ。それに実害があるだろうが」
「けど、時々話し掛けてくれるの。そのときはすっごい優しいの」
「つってもなぁ……」
「お願い。こんな弱ってれば襲わないだろうから、手当てだけしてあげて」
「……判ったよ」

 人間の姿をしたウォズだから、手当ても止血と傷口の手当てをすれば十分だ。オーマは少女に根負けする形で、溜息を吐きつつも一応愛用の銃器に手を掛けながらそろそろと近付いた。

「……お前はヴァンサーか……」
「何だ、意識はあんのか。俺は封印してやりたいんだが、この子が止めるんで仕方ねぇ。手当てしてやる」
「この子が……」

 オーマが近付くにつれて顔を上げたウォズは、随分と理性はあるようだった。
 オーマの科白に、大袈裟なほど驚いている。

「……随分親らしい顔するんだな」
「私は確かにウォズだが、この子の親でもあるのだから当然だ」
「まあ攻撃性のないウォズも居るには居るが。おまえは実際には襲ってるし、どうなんだよ」
「この子は段々疑いを持ってきたとは云え、はじめのうちは本当に私を母親だと思って遠くから優しく接してくれた。それが本当に嬉しくて、私は異世界では暴れまわっていたが、この世界へ来て優しさに触れてからはこの子の親になろうと思った。この子夢を壊したくなかった。けれど近付かれると駄目なんだ。前の記憶が蘇って、歯止めが効かなくなってしまう」
「……成程」
「私が自分から近付こうとしたときは割と平気で、随分そう出来る時間も多くなったんだが……我にかえってから、この子と自分についている傷に愕然とする」
「………」
「やはり、相容れないものなのだろうか。きっとこれが具現化の代償なのだろう。ヴァンサー、お前を待っていたんだ。この子を殺してしまう前に、封印してくれ」
「……オイ、聞いたか?」

 じっとウォズを見ていたオーマだったが、最後の請いには反応せずに背後でそっと佇む少女の方へと顔を向けた。
 少女は放心していたけれど、はッとその意味に気付くとすぐにうんうんと頷いた。

「要はおまえから近付かなければ良いらしい。相手から近付いてくれるのを待て。きっと飯を定期的にやってりゃ平気だよ」
「判った! ご飯だね!」
「オイ……」

 勝手に話を進めるオーマと、瞳を耀かせた少女に慌てたのはウォズの方だった。

「私の話を聞いていなかったのか!」
「聞いてたよ。近付かれると駄目だけど、最近は理性を保っていられる時間も増えたって云ってたじゃねーか。ならこれからも増えて行くんじゃねーの?」
「え……」
「それにこいつ、今はおまえしか話し相手いないみたいだしな。母親と混同するのはまずいと俺も思うけど、親代わりとして良いんじゃねーのか」
「ヴァンサーが何を云ってるんだ……」
「さぁな。俺は、おまえがこの子の母親と同じだっつー姿で、この家に現れた意味を考えてみたいだけさ」
「………」
「なあ、おまえ」

 黙りこんだウォズに、とりあえずの手当てをしてやりながら、オーマは打って変わって年頃の少女らしい表情を見せる少女を見遣った。

「もし今度襲ってくるようなことがあったら、めいっぱい裏切りを恨みながら反撃してやれ。そんで、すぐさま俺のトコへ来い。今度こそ封印してやる」
「うん、でもきっとそれはないよ。いつか一緒に遊びに行ってやるんだから!」
「そうか……俺にはおまえと同じくらいの娘が居る。良い話相手くらいにはなるかもな」
「うん! ありがとう」

 少女の満面の笑みを見て、気にはなるけれどきっとこれで良いのだろうと思った。
 ウォズはと云えば、呆気ない展開に放心しながらも口許には笑みが彩られていて。口調の所為もあってウォズとしてしか対応しなかったオーマだが、其処に生前の母親の笑顔を見た気がした。
 中には、静かに生を営むウォズも居るらしい。
 これも様々な文化の混在するソーンならではの家族の在り方として、いつか人々の目にも穏やかに映し出されることだろう。
 持ってきた薬箱をそのまま預けて、オーマはその家を出た。
 先程までは寂れていると思っていたはずの家が、しかし、今は何処か明るさと温もりを持っているような気がした。



 朝のくさくさした気分などすっかり忘れ去って、随分と晴れやかな気分でオーマは自分の家へと向かった。
 何だか無性に自分の家族の顔を見たくなった。けれど何かを忘れている。そう思いながら帰路についたオーマだったが、オーマが娘ほどの年頃の美少女と一緒に居たという噂を聞きつけた妻と、お気に入りの上着が一着消えていることに気付いた娘が玄関先で仁王立ちする姿に戦慄を覚え、折角の穏やかな気持ちをまた元通りへとさせられたのだった。



 END.







■□■ライター通信
 発注ありがとうございます。ライターの那岐イツキです。
 大変お待たせして申し訳ありませんでした!
 ウォズとヴァンサーの詳細な設定を活かしきれているのか些か不安ではありますが…
 ウォズに対し、救い導きたいという想いに深く感銘を受けまして、こういう形にさせていただきました。少しでもお楽しみいただけましたら幸いです。
 コメントもありがとうございました。大変励みになります。
 これからのご活躍を楽しみにしております。それでは。