<東京怪談ノベル(シングル)>
□少女と鏡と平和な朝と□
少女は考えていた。眼下の光景をじっと見つめながら考えていた。
「…………いいなあ」
最初に抱いていたのは蔑みだった。どうして彼らはそんな風にしていられるのかと下を見ながら鼻で笑い飛ばしていた。
けれど時が経つうちに、次第に少女は眼下の光景を気にし始めた。最初はそんな自分を下の光景と共に蔑みの対象にしていたが、じきにそんな事も気にならなくなるほど熱中して下を見るようになった。少女は『観察』と称して下を眺め始めた。どうせ彼女には他にするべき事も見当たらなかったからだ。
それに費やす時は一日から二日、二日から三日四日と徐々に長くなり、今ではもうどのくらい下を見続けているのか、少女自身でさえ思い出せない。
長すぎる時の狭間、いつ果てるとも知れない時。破ったのは無意識に口に出した先程の呟きだった。
「うん、とってもいい。あたしもああいうの、欲しいなあ。近くにあればもっとよく見えるよね」
「そうだ、もっと近くで見たい。もってこようか、でもどうやって? そうだ、うつわを作ろう。もってくるのならまずそれを入れるためのうつわがいるだろうし。うん、それがいい」
「うつわ、できたよ。ようし、ならこの中にいれるものをもってこなけりゃいけない。もってこよう、うん、そうしよう」
そうして少女はひとつの器を作り、中に次々と自分がいいと思ったものを無造作に入れ始めた。
しかし、しばらくして器の中をわくわくしながら覗き込んだ彼女は落胆する。
「おかしいなぁ、どうしてなんだろう。そっくりそのまま、同じようにつくったのに」
少女が首をひねりながら、呟く。
「いったい何がたりないのかなあ。どうしたらいいんだろう?」
「よーうおはようさん、そこの腹黒原石かつちょっと出っ腹なりかけ青年」
突然どこからか低い声に呼びかけられて、青年騎士は警備の交代に行こうと詰め所を出たところで足を止め、辺りをきょろきょろと見回した。
着慣れない鎧をがちゃがちゃ言わせながら右手を見れば、遠くから大柄な男が歩いてくるのが青年の目に入る。どうやら声をかけたのはこの男であるらしい。男が歩くたびに、その首から幾つも下げられたアクセサリーが派手な音を鳴らしている。胸元が大きく開かれた服の隙間から見えるのは黒い紋様。
これだけならば青年はすぐに不審人物として男に槍を向けただろう。しかし青年はただぽかんと口を開けたまま、ただ男が近寄ってくるのを待っていた。
知り合いというわけではなく、親しい友人ではもちろんない。だというのに突っ立ったままでいたのは男の表情が何故か非常に嬉しそうであり、不思議と警戒心を抱かせないものだったからだった。
ぼうっとしているうちに男は間近に立ち、見下ろされた青年はぼんやりと首を上向かせる。男の身長は平均的な青年のそれよりも遙かに高かった。
「あの、僕に何か?」
すると男は何故か得たりとばかりに白い歯を見せて笑い、腰の後ろをごそごそとあさって何やら冊子のようなものを取り出した。
「ふっふっふそこの将来有望そうでかつ今から訓練すりゃあどんな腹黒にも思いのままになりそーなお前さん、ちょっくらこのオーマ・シュヴァルツに顔貸してくれねえか?」
「――――は?」
「なぁに、手間は取らせねえ。ただ一緒にこの『これでどんなジェントルメンも腹を斬れば真っ黒!! フローラルでスパニッシュなかぐわしい香りを放つ貴殿に贈る〜誰にだって素質はあります・腹黒同盟入会案内(王室公認←ココ重要)〜』を読んでくれりゃあいいからよ。な、どうだ?」
「は、腹黒同盟って何ですかそれ?! 僕これから警備の任務があるのでそんな事している暇はありませんよっ!! 警備用の盾も取りに行かなきゃいけないし」
ずいと顔を寄せて迫られ、ようやく青年騎士は夢から覚めたように首を横に振るが、そんな事で引き下がるようなオーマではなかった。
「なーに言ってやがんだ、男たるもの一度や二度や十度のサボリを怖がっていちゃあグレイトな親父にゃあなれねぇぜ? つーわけでよし決まりだ。そんじゃ、あそこの木陰でみっちりたっぷりと腹黒同盟の何たるかを説明……」
「何をしているか、そこ!!」
突如響き渡った野太い声と共に問答無用の勢いでナイフが飛んでくるのに気付き、オーマは傍らの騎士の首を掴んで引き倒す。いい音をたてて木の幹に突き刺さったナイフの柄に彫ってあった守護聖獣『タロス』の紋様を見て、オーマは小さく笑った。物事を注意する為だけにこれだけの威力を持つ一撃を相手によこす者は、オーマはひとりしか知らない。
二人が身体を起こせば、遠くで図体の大きな騎士がこちらを見ているのが分かった。いや、見ているという穏便なものではなく、いっそ睨んでいると言ってもいい位に力のある視線だった。
男は重い足音と甲冑の擦れる金属音を鳴らして近寄って来ると、ずいと二人を見下ろす。オーマも身の丈二メートルを越える偉丈夫と呼ぶに相応しい体躯の持ち主だが、この甲冑の男はそのオーマすら見下ろせる程の身長をしていた。
きっと甲冑も衣服も何もかもが特注なのだろう。一般騎士には見られない重厚な素材で作られたその鎧は無骨で、飾り気もほとんどない。
騎士は外見そのままの重く低い声で、騎士に言った。
「貴様は警備班の者だな? その鎧の状態からして新人のようだが、このような所で油を売っているとはよっぽど己の仕事を軽んじているとみえるな」
「すっ、すみませんレーヴェさん!! でも、この人がいきなりわけの分からない事を言ってきて……」
レーヴェと呼ばれた騎士が青ざめた騎士から視線を移せば、あくまで陽気に手を挙げ挨拶までしているオーマが視界に入った。その姿にレーヴェと呼ばれた騎士は眉を寄せる。
岩のようにいかつい顔をしているからか、顔をしかめる様がまるで岩にひびが入ったかのようだと騎士は内心思ったが、面と向かってそれを言えば「そんな下らない事を考えている暇があるのなら、もっと剣の腕を磨け。そうだな、今から鍛錬だ」と言われボロボロになるまで解放してもらえないという事態に陥るのが目に見えるようだったので、若い騎士は大人しく口を閉ざしている事にした。巌の騎士レーヴェに逆らうべからずというのは、もはや騎士だけではなく一般兵にまで浸透している認識だった。
そんな事を考え青ざめている騎士をよそに、レーヴェは不機嫌そうに鼻息を荒くする。
「また貴様か、オーマ・シュヴァルツ。今日も『勧誘』とやらをしに来たのか」
「いい加減フルネームで呼ぶなって。特にあんたとは顔見知りなんだしよ、もっとこうフレンドリーにオーマって呼んでくれちゃっていいんだぜ?」
「ふれんどりーだか何だかは知らんが、とにかくうちの騎士を放せ。見張りというものは軽く見られがちだが、しかし重要な仕事なのだぞ」
「おう、いいぜ。次のターゲットが自分から来てくれたんでな、探す手間が省けたってもんだ」
「……何?」
青年騎士の頭を兜の上からぱんぱんと叩きながら、オーマは満足そうに丸めたパンフレットを青年の鎧の隙間へと押し込めていく。
「前途洋々な若者よ、忙しいとこ手間取らせて悪かったな。そんじゃこれ同盟パンフだから気が向かなくても舐めるように熟読してくれよ、男と男の暑苦しくも麗しーい友情ここに成立ってやつだ」
戸惑ったままの青年騎士の尻を叩き去っていく青年にひらひらと手を振ると、オーマはさてとばかりにレーヴェへと向き直った。
「そんじゃここ最近恒例となったお前さんの勧誘に取りかかるかね。よおレーヴェ、今日こそはパンフ読んでもらうぜ? 聞いて驚け今回は千三百六十五回目の改訂版だ」
「……そのようなものに興味などないと何度言えば分かるのだ貴様は。いい加減出て行け、警備の邪魔だ」
「つれねぇなあ全く。お前さんのその顔といい鎧といいそのデカさといい中身といい是非とも腹黒同盟に加入願いたい逸材だってのによ、残念なのはその頭の固さだな。もーちっとやわらかーくすりゃあもっと楽しい人生待ってるぜ」
「私の幸福は騎士としてここに在る事、それのみだ。今更貴様などにどうこう言われる筋合いなどなかろう」
「まぁそりゃそうなんだがな。俺としちゃもっと広い範囲の幸せってやつか? そういうのを知っていても損はしねぇと思うぜ。じゃあ今日も今日とて早速パンフ朗読を……ん?」
腰の後ろから取り出した二冊目のパンフレットを意気揚々と開こうとしていた手を止め、オーマはゆっくりと首をめぐらせた。呆れたように息をついていたレーヴェもまた、オーマと同じ方向を見る。
二人の視線は同じ場所に止まった。つい先程青年騎士が去っていった、城内へ続く勝手口。その向こうから慣れた異質な気配が微かに漏れてくるのに、オーマは鼻を鳴らす。
「朝っぱらから臭ぇな……おい、レーヴェよ」
「うむ」
目を合わせず言葉だけを交わし、二人は同時に走り出す。勝手口を守っていた騎士は、腰が引けながらも勇敢に二人を止めるべく槍を横に突き出し行く手を塞ぐが、オーマとレーヴェ、重量級の二人にとっては一般兵の槍など小枝がぶら下がる程度の障害でしかなかった。
「悪ぃな、ちと急いでんだ!!」
「咎めは後で受けよう、だが今はそこを通せ!!」
一陣の風が過ぎ去った後、勝手口に残されたのは腰を抜かした騎士と傍らに刺さった槍の穂先だけだったが、二人はそんな光景を顧みる事もなく狭い石の廊下を駆け抜けていく。ここの勝手口は騎士専用らしく、朝の鍛錬も終わったこの時間帯にはすれ違う兵や騎士の姿もほとんどなかった。
明かりとりの窓から射し込む太陽の光に照らされながら狭い廊下を声もなく駆け抜けていれば悲鳴を耳がとらえ、先を駆けていたオーマは舌打ちをして速度を上げた。
慣れた匂いが導くままに階段を昇り扉を開けば、そこは薄暗い武器庫だった。騎士の武器を一斉に管理しているのか、広い部屋の中に剣や槍や矛、そして盾や鎧が置かれている。悲鳴は武器庫の奥、盾がまとめられているらしい区画からだった。オーマが勧誘しようとした青年騎士の声だ。
「たっ……たす、たすけ、うぁあああっいやだやだやだ引っ張るなよぉおおお!! だ、だれ、だだだ誰かああああ」
「!!」
武器を跳ね飛ばし最短距離で声のする場へ辿り着いたオーマの前にあったものは血だまりでもウォズでもなく、鏡のように美しく磨かれた大きな盾と、そこに今まさに足から吸い込まれようとしている青年騎士の姿だった。
儀礼用なのか、人ひとりが容易く隠れてしまう程の大きさを誇る盾の表面はまるで水のようにたわみ、青年は底なし沼に沈むように盾の中へと引きずり込まれつつある。既に下半身は呑まれ、上半身だけとなった青年は涙と鼻水を流しながら必死に近くの槍に掴まっていたが、恐怖のせいか腕が震えて今にも槍から手を放してしまいそうな状態だった。
「ったく、ウォズも朝っぱらからろくでもねぇ事しやがるぜ!! せっかくの早朝布教活動がパーじゃねえか」
言いながら青年の片手を掴み足を踏ん張るが、しかしオーマの膂力をもってしても青年の身体はゆっくりと、けれど着実に盾の向こうへと吸い込まれていく。
その時、体重の分速度で劣っていたレーヴェも到着し、眼前の光景を見るやいなやすぐさまもう一方の手を掴み引っ張り上げるが、それでもなお向こうの引っ張る力が強いのか騎士の身体は既に肩近くまで引き込まれてしまっていた。
「なんという力だ!! 私と貴様の二人がかりでも駄目だというのか。それに、これはもしや……!!」
レーヴェが呻き、青年の肩が沈んだ。オーマもまた額に汗を滲ませながら舌打ちをする。
もしこの盾自体がウォズだったのならば銃弾を一発撃ち込んで封印をすればいいだけだが、ウォズの気配は確かに感じるもののこの盾自体はウォズではなく、もちろん盾に宿っているわけでもなかった。気配はするというのに、始末をつけるべき本体の姿が全く見えてこない。
いっそ盾を破壊してしまおうかという考えがオーマの中に過ぎるが、しかし盾の向こう側がここではないどこかへと繋がっているのだとすれば、強引に空間の繋がりを断ち切れば青年の身体もまっぷたつという事にもなりかねない。まず青年を引きずり出さなければどうしようもないのだ。
「くそっ!!」
オーマたちの足の力に耐え切れず、石の床が砕けた。
青年は腕が引っ張られる痛みと恐怖で泣き続け、そして。
「あ――――――――…」
間延びした声だけを残して青年の存在が消え、オーマとレーヴェは力の反動で尻餅をついた。
彼らの前には何事もなかったかのように盾が鎮座している。オーマはよく磨かれたその面を蹴り飛ばすと、傍らで肩を上下させているレーヴェへと向き直った。
「……なあ」
「何だ、オーマ・シュヴァルツ」
「だからフルネームは止めろって……まあいい、今はんな事論じてる場合じゃねえ。レーヴェよ、お前さっき『これはもしや』とか何とか言ってたよな。何か心当たりでもあるのか」
「あると言えば、ある」
しかしそう言った後レーヴェはすぐに立ち上がり、武器庫をあとにしようとした。
「おいちょっと待てよ、知ってるんなら話ぐらい聞かせてくれてもいいだろうが。まがりなりにもお前んとこの同僚が消えちまったってのに」
「……いつ人が来るか分からん場所でする話ではないから、こうして移動しているのだ。話が聞きたいのならば貴様は黙ってついてくるがいい」
廊下を歩きながらのレーヴェの言葉に、オーマは黙って頷き後に続く。
しばらく廊下を歩き続け外に出るとレーヴェはそのまま城の門をくぐり、オーマを促して広場へと向かう。
「人は溢れてはいるが、だからこそ聞かれぬ話もあろう。歩きながら説明する」
「おう。で、あれは一体何なんだ? 何か知っている口ぶりだったが」
「私も正確なところは知らんのだが……貴様はここ最近起きている連続失踪事件を知っているか?」
「そりゃ知ってるぜ。女子供は夜は出歩かないようにってうちにも回覧板が来たが、ありゃ実は朝に集中してるらしいから意味ねぇだろとか突っ込んだ覚えがある」
「そうだ。失踪事件は朝に集中しており、加えて失踪する場所も非常にまちまちなのだ。とある男は朝、洗面台に向かっていたところで忽然と姿を消し、またとある少女は雨上がりの朝、水たまりで遊んでいた所を最後にそれきりだ。性質の悪い誘拐の可能性もあるとして、我が城の騎士たちの中でも捜索班が作られたほどでな」
天使の広場にさしかかり、人が増えてくる。市場へ向かう者、行商、学校へ駆ける子供たち、朝の散歩を楽しむ老婆など行き交う者は数多くまた種族も様々な為、長身の二人もそれほどまでには浮いていない。
雑多な声が聞こえてくる中、オーマは手近な売店の店主に数枚の硬貨を払い、鳥肉をパンに挟んだ簡単な朝食を受け取ると、傍らのレーヴェへと手渡して先を促した。
「おい、これは何だ」
「朝なんだから取りあえずメシでも食おうぜ、腹が減っては戦は出来ぬって言うだろ。それにこうやって朝メシでも食ってりゃそんなに目立たねぇしよ」
「……今は手持ちがないが、借りは後日必ず返す」
「別に構わねぇってのこんくらい。で、さっきの続きは?」
「うむ。……貴様は口が固いか」
「黙っていなきゃならねぇ事とそうでない事の区別ぐらいつくさ、特に今回みたいな事件がらみだとな。俺は人の命をネタにはしねえよ」
レーヴェが足を止め、噴水近くの階段に腰を下ろしオーマを見る。
探るような視線を送られても全く動じないオーマの様子に「……いいだろう、座れ」と促し、オーマが隣に腰かけるとレーヴェは少しずつ話し始めた。
城の捜索班が調べたところによれば、先程の青年騎士のように引き込まれそうになったが、危うくその難を逃れた女性がいたらしい。
すぐさま捜索班が飛んでいって話を聞いたところ、女性はやはり朝、姿見の前で髪をとかしていて身体を引きずり込まれそうになったのだという。
彼女の夫が異常に気付いて妻の腕を引いたが、どんどん身体は吸い込まれていく。力では駄目だと思った夫は、もう既に腕一本だけを残してあちら側に行ってしまった妻へと呼びかけた。二人は魔法使いだったので、互いに自分が持てる最高位の魔法を放ちそれで鏡に穴を穿とうとしたのだ。
その場合、妻の腕が無事だという保証はなかったが、妻はすぐに決意し魔法を放とうとした。
しかし、ここで邪魔が入った。
彼女をあちら側に引き込もうとしていた『力』が二人のやろうとしている事に気付き、襲ってきたのだという。
もう駄目かと思った矢先、彼女を護る為に守護獣が実体化しその『力』は撃退され、どうにか彼女はこちらの世界に引き戻された。幸い腕も無事だったが、その女性は恐ろしさのあまり数日経った今でも鏡が見られないらしい。
「鏡?」
オーマの呟きに、レーヴェは「そうだ」と頷いた。
「先程の騎士が呑み込まれていったのは鏡ではないが、鏡のように磨かれたものだった。そして洗面台で消えた男の前には当然のように鏡があっただろう。少女の場合も同様だ、水鏡、という言葉がある位だ。風さえなければ十分に姿を映していたはず」
「成る程なぁ……。朝は特に皆が鏡を見やすい時間帯だ、そこをついたって訳か。なあ、ところで引っ張り込まれそうになったその女は他に何か言ってなかったか? 向こう側の様子とかよ」
「急かさずとも今から言おうと思っていた。その女性の話によれば向こう側は暗かった上に、気が動転していたのでよくは分からなかったらしいが、この天使の像が見えたのだそうだ」
太い指がさす方には、この広場の中心で優雅に翼を開いている純白の像があった。
それにつられるようにしてオーマはまじまじと天使の像を見るが、特にウォズの匂いも気配もないのに肩を竦める。
「……別におかしな気配なんか感じねぇぞ? それにここは俺も最低一回は通るし、何かしらの兆候があれば俺が見逃す筈はねぇ」
「待て、まだ続きがある。捜索班は女性をここに連れてきて、どこからの光景だったのかを確かめようとしたそうだが、女性がこの広場のどこから見ても、向こう側で見た天使の像と同じ角度からは見えなかったらしい」
「そりゃまたおかしな話だな、天使の像ってのはここにしかない筈だ。他にもこれだけの彫刻を彫れる奴は俺の知る限りではいねえし」
「ああ、そうだ。それだけならば、混乱した女性が天使の像に似た何かと見間違えただけと思うだろう。だが――――」
レーヴェの言葉を継ぐように、オーマはパンを飲み込み口を開いた。
「まだおかしな点があるよな。もし彼女が連れ去られそうになったのがどこかの異世界だったとしたなら、いくら腕だけでもソーンに残っていたとはいえ、身体が向こう側にいるのなら聖獣の加護も届かない筈だ。聖獣を呼ぶのは心だからな、思い描き考える場――――つまり頭脳と心臓がある場にしかその者の聖獣は呼び出せない筈だ。夫の聖獣が危機を救ったんならまだ分かるが、嫁の方の聖獣が出たんなら、どうして異世界の筈なのにその嫁は聖獣の加護が受けられたのかって話になる。そう考えると鏡の向こうはソーン内のどこかに繋がっているだけって事になっちまうが……」
「天使の像との関連もまだ分からぬ上に、その女性が引き込まれた場所は暗かった。つまり夜だという事だ。それに引き換えこちらは朝……」
「分からねえな。俺が相手にすべき奴の匂いはするんだが、どうも全体像が見えて来やがらねぇ。あっち側に俺が行ければ話は早いが、お前さんの話を聞くと連れ去られた奴らは年も性別もバラバラな上に、出現場所も完全にランダムらしいから次に出現する場の特定も難しい。だからって皆に『鏡に布をかぶせましょう!!』なんて大声でわめくわけにもいかねえし」
「だから私たちも事の詳細を公表してはいないのだ。いつ誘拐されるか分からないと民衆の不安を無駄に煽るのは、王の本意ではないからな。今も引き続き捜索班が動いてはいるが、目立った成果は上がってはいないようだ。さて」
立ち上がり律儀にゴミ箱に朝食の袋を捨て、レーヴェはオーマに背を向ける。
「私が話せるのはここまでだ、これ以上は何もない。貴様も我が身が可愛ければ、せいぜい家の中の鏡に布をかぶせてまわるがいい」
「ご忠告ありがとさん。お前さんもよく磨かれた盾にゃ注意するんだな」
大柄な身体が人波の向こうに消えていくのをひらひらと手を振りながら見送ると、オーマは天使の像を見上げながらひとりごちる。
「……もうひとつの天使の像、ねぇ……」
薄い唇から漏れた呟きは、騒がしい朝の空気に溶けていった。
今日はまだ始まったばかりだった。
翌朝、オーマはいつもと同じように家を出たが、ただ少し違っていたのは今日は腰の後ろにさしていたパンフレットがなかった事だった。
朝の空気を吸い込みながら馴染みの店主と挨拶を交わしたり知り合いをからかいつつ歩いていくと、やがて天使の広場へと差し掛かる。昨日と同じく起き出したばかりの者や、既に起きて商売を始めている者などでごったがえしている中を歩けば、天使の像の間近に来た。
いつもよりゆっくりと像を迂回しながら歩き、像が視界から外れたところでオーマはふう、と息をついて空を見上げた。
「やっぱり何も感じねぇなあ。だからといって俺のカンが鈍っているわけもなし」
人ごみの中、器用に長身を滑らせながら歩き続けると、不意に人波が途絶える。白亜の壁が目立つようになってきていた。
「オーマ殿、おはようございます。今日も勧誘ですか?」
「よ、おはようさん。いんや今日はまた別の用事だ。お前らも仕事頑張れよー」
「はいっ」
城門を守る騎士に軽く挨拶を返し、中へと入り込む。誰も不審に思うものなどはいなかった。彼はこの城にとってはかなりの常連だったからだ。
しばらく中庭を歩いていけば、遠くの方に見知った影を見つけオーマは大きく手を振る。
「よーおレーヴェ、おはようさん」
「む」
朝の鍛錬の帰りなのか、汗を拭いて鎧を身にまとっている途中のレーヴェに呼びかける。
レーヴェは頷く事で挨拶の代わりにすると、重厚な全身鎧を身につけ終わり立ち上がった。
「今日もまた勧誘か、オーマ・シュヴァルツ。暇な男だ」
「残念ながら今日はそうじゃねえんだよ、見回りさ」
「見回りだと?」
「ああ。昨日のお前さんの話を聞いてからどーも気になっちまってしょうがなくなってよ、どうせ今日は予定もないしせっかくだからこの城でも見回ってみるつもりだ。だからレーヴェ、お前も付き合えよ」
「それは私が騎士と知っての言葉か。……私にはこの城を守護するという任がある。貴様の暇つぶしのような行動に付き合うだけの理由なぞない」
「分かってねえな、これだって十分に城を守る為の行動だって――――」
言いかけ、オーマの台詞は遮られた。
絹を裂くようなというのがまさに相応しい声――――悲鳴によって。
「ほれ、噂をすれば何とやらだ!!」
呼びかけそのままオーマは走り出す。鎧の軋む音がした、レーヴェもまた走り出したのだろう。
悲鳴の出所は貴賓室だった。豪奢な扉を構わず蹴り開けて飛び込めば、大きな姿見の前で侍女が半狂乱になりながらもがいている。スカートが鏡の向こうに徐々に吸い込まれていくのを見てオーマは来客用の家具を飛び越え、侍女の身体をわし掴むと、具現化したナイフでスカートを切り落とした。切られたスカートは一息に鏡の向こうへと呑まれていった。
「走れっ!!」
スカートを半分以上切り落とされた侍女は泣きながら、それでもオーマの叫びに弾き飛ばされるようにして走り去っていった。侍女の気配が消えたのを確認し、オーマは鼻をひくつかせて人が悪いと称される笑みを浮かべながら、姿見の中へと身を投げ出す。
そこに現れたのは遅れてやってきたレーヴェだった。彼の目には今度はオーマが犠牲者になっているように見えたのだろう、鎧の音を響かせてオーマの腕を掴み踏ん張るが、オーマ自身があちらへ行く事を望み力を込めており、あちら側の引っ張る『力』まで加算されてはさすがのレーヴェも引きとめきれるものではない。
豪奢な飾りに彩られた姿見の中へと長身と巨躯がそれぞれ完全に引き込まれてしまうまでに、数分とかからなかった。
投げ出された場所を見て、オーマは目を丸くした。
「……こりゃあ…………」
その場所の空には星が瞬き、月もまた輝いていた。夜だった、それは誰の目にも明らかだ。けれどソーンに、いや、聖都エルザードを知る者にとっては、目の前に広がる光景は違和感をそのまま形にしたようなものだった。
暗がりに広がるのは、天使の広場だった。オーマと巻き込まれるようにして現れたレーヴェは階段の上に立ち、ただ眼前の街を見下ろしている。
広場の名にもなっている天使の像。いつもは向かって西を向き天を仰いでいる巨大な石像が、真東を向いていた。
「暗い上に逆向きの天使の像、か。成る程、件の姉ちゃんの言ってた事に嘘はなかったってのがこれで証明されたってわけだ。しっかし見事に何もかも逆向きか……まあそうだな、これが鏡の向こうの世界として作られたんなら、全部逆なのも当然の話だろう。何故夜なのかはまだ分からんが」
「うむ……私には全てがよく分からんが、ただひとつだけ分かる事がある。――――この街はいささか静か過ぎて、気味が悪い。左右が違うだけの同じ街だというのに、人の活気がないだけで街というものはこれほどまでに不気味になるのだな。それに、妙に息苦しい」
片手で頭を抱えながらのレーヴェの言葉に、オーマは陽気に笑ってみせる。
「その感想にはおおむね同意するな、まあ確かに息苦しい。それにしてもお前さん、あっちで待ってりゃ良かったのにどうしてまたついてきちまったんだ?」
「貴様が鏡に取り込まれそうに見えたのだ。そんな場面に遭遇したら、どんな者であれ助けるのが騎士としてのつとめだろうが」
「まあいいさ、事故だったとはいえお前さんがいりゃ心強いってなもんだ。さてレーヴェ、ここからは救助活動といこうや。お前さんの記憶によれば今までに失踪した奴は何人だ?」
「ん? ああ……確か十五人ほどだったか」
「オーケーオーケー、そんなら二手に別れようぜ。お前さんは広場から西、俺が東を探して失踪者を集めよう。失踪者は見つけ次第天使の広場へ集めてくれ」
「待て、オーマ・シュヴァルツ」
ひとり話を進めるオーマへと、レーヴェが訝しむように口を挟んだ。
「集めるのは構わんが、貴様にはここから脱出する算段でもあるというのか?」
「当然。俺はその為にここに来たんだぜ」
既に東の方へと歩き始めていたオーマは、足を止め振り返る。
そこにはただ絶対の自信が宿っているのを見てレーヴェが納得したように頷いたその刹那、空気が変わった。
「……来たか」
一気に氷点下にまで落とし込まれたような空気の中、オーマの声に応えるかのように足音が響き渡る。それは決して焦らずに、けれど真っ直ぐにオーマたちの下へと歩いてきていた。
最後にコツ、という音を鳴らしてその存在は止まると、オーマをゆっくりと見上げた。
肩で切り揃えられた髪と大きな瞳は黒く、一般的な衣装を身にまとっているそれは少女のかたちをしていた。
「いらっしゃい、笑顔をもつひと」
長いスカートを広げて無表情のまま会釈し、少女は何かを読み上げるように続ける。
「ここはとても平和なまちだから、あなたたちはもうこれからずっと笑顔でいられるよ。ここは魔物もつくってないし、食べ物もいるんだったら言ってくれればいつでもだしてあげるよ。他にも何かほしいものがあるのなら、わたしたちがだしてあげるから。だからここではずっと笑顔でいてほしいの。わたしに笑顔をみせてほしいの」
ね? と小首をかしげて言う様は娘らしく可愛らしいものだったが、しかしそんな仕草を見てもなお二人は表情を崩そうとはしなかった。少女は終始、無表情のままだったからだ。
男二人は顔を見合わせると、オーマが一歩前に出る。威圧感が身体から吹き出るのにレーヴェですら息を呑んだが、しかしオーマのまさに目の前に立っている少女はそれに全く動じた様子はなかった。
「……お嬢ちゃんよ。悪いが俺たちはこんな寂しい場所で笑顔でいられるほど感覚は麻痺してないんでな、悪いが早々に脱出させてもらうぜ。それに欲しいものがあるんなら自分で手に入れるさ」
「ああ、そうだ。少女よ、お前が今回の首謀者なのならば潔く悔い改めるのだな。私たちは残念ながら、お前たちのように罪もない者を連れ去るような者に乞う事などありはしない」
大の男二人に見下ろされながら少女はしばらく黙って聞いていたが、不思議そうに首をひねる。
「ほしいものや食べものはいつでもあげるし、あなたたちが言うのならきらいな存在はこの世界からはきだしてあげる。それなのにどうしてそんなことを言うの? まだ、何かたりないものがあるというの?」
わからない。わからない。どうしてだめなんだろう。なにがいけないんだろう。
独り言のように少女は呟きながら、来た時と同じ道を走り去っていく。だがレーヴェがそれを追おうと足を踏み出したところで、地面が揺れた。
いや、揺れたのは地面だけではなかった。
「ぬ――――!! これは……」
この世界を象徴するかのような暗い空もまた揺れ歪み、星の光もまるで出来の悪い機械のように忙しなく点滅していた。エルザードを模した建造物は、石で出来ている外見とは裏腹にぐにゃぐにゃと歪んでいる。
その歪みに合わせるように、空から子供の声が轟く。わからない、わからない。どうしてなの、なんでなの。ただ幼い疑問が世界に反響するが、誰ひとりとして答える者がいない為に唱和は更に大きくなっていった。
「へっ、見せかけだけ似せた作り物の街ってわけか。それも子供が作った箱庭とはな、どうりで簡単に崩れるわけだ!!」
「のんびりしている場合ではないぞオーマ・シュヴァルツ!! まだ一般市民が取り残されている筈だ、先程貴様が言ったように二手に別れるぞ!!」
「おうよ、そんじゃまた後でなレーヴェ。死ぬなよ」
「ふん、この私にそんな事を言うか。貴様こそだらしない死に様を我が前に晒したならばその骸の首をはねて言ってやろう。『よく見るがいい、これこそがだらしない男の象徴だ』とな!!」
憎まれ口を叩きながら二人は別れ、レーヴェは西へ、オーマは東へと駆ける。
揺れ動く虚像の街の中をひとつの影が疾走する。
先程レーヴェと合流してから、オーマは一度駆けた道を再度走っていた。まだ見つけていない者がいないかを最後に確認する為だった。
二手に別れた後、連れ去られてきた住民たちは意外と容易く彼らの前に姿を現した。この世界で何が起こるか分からない為に年長者が指揮をとり、できうる限りの者を集めていたのだという。彼らを導き天使の広場へと集めると、レーヴェが見張りに残り、足の速いオーマが最後の確認に出たのだった。
レーヴェの記憶によれば連れ去られてきたのは十五人ほどという事だったが、しかしあの後また連れ去られた者がいないとは限らなかったからだ。
「誰かいるかー? いねえのか? いねえなら返事しやがれこの野郎ー。……よし、ここはオーケーか」
手近な店や民家の扉を片っ端から開いては訊ね、訊ねては開きを繰り返す。
そんなオーマの道を遮るかのように、小さな影が現れた。それは黒髪の少女だった。
「……なんで?」
静かな言葉の中に僅かな感情を見つけ、オーマは立ち止まる。
「なんでみんな笑わないの? どうして? せっかく夢のようなせかいをつくったのに、ここにきたみんなは泣くか怖がるかそんなのばっかり。わたし、そんなの見たかったわけじゃないよ。見たかったのに、とても見たかったのに。なのになんでみんなはそうしてくれなかったの。どうして……」
言葉の最後は少女自身の嗚咽によって不明瞭になった。子供らしい大きな双眸から止め処なく涙を流し泣きじゃくるその様はただの子供そのもので、普通の大人であるのならついしゃがみ込んで慰めてしまうような、そんな哀れさまでも漂わせていた。
だが、オーマは色々な意味で普通の大人ではなかった。
「あのなぁ」
目線を合わせる為にしゃがみこみ、そしてオーマは少女の涙で濡れた頬を摘んで横にぐいっと引っ張った。柔らかな頬は容易く伸び、引っ張られた拍子に口を半開きにした少女は呆然とした顔で目の前の大人を見る。
そこにあったのは静かな怒り。
「ウォズの嬢ちゃん、分からないんならまず自分で答えを探さなくちゃあ駄目だぜ。人に訊ねて教えてもらうばかりじゃ、いつまでたっても成長なんかしやしねえんだ。だからそんな形をしているんだろ、お前さんも、そしてこの世界のどこかにいるだろう『みんな』ってやつも。自分で答えを探さない故に精神が幼子のままのウォズよ」
「……しってたの」
「そりゃまあ、俺だって腐ってもヴァンサーだからな」
「ならわたしたちをさっさと殺せばいいのに、どうしてそうしないの」
「さあな、そんな事は自分自身の頭で考えな。さて――――」
少女を小脇に抱えて、オーマは立ち上がる。
当の少女は何が起こったのか分からないというように何度も瞬きを繰り返していたが、やがて自分がどんな状態になっているのかに気付くと、不思議そうにオーマを見上げてきた。
「なにをしてるの? わたしをつかまえたって、なにも出てきやしないのよ?」
「言っただろ、訊ねる前に考えろ。何でも人に答えを求めようとすんな。……さてと、もうこの区画にゃ誰もいねえみたいだな。そんじゃ行くとするか」
「仲間のところへいくのね。そこでわたしをやつざきにするつもり?」
「誰がんな悪趣味な事なんざするか、馬鹿野郎。俺ぁ子供にゃセクハラと虐待とお年玉はやらねぇって決めてんだよ。いいから俺についてきな、嬢ちゃん。お前みたいな悪い子にゃ少々教育ってやつが必要だろ」
「教育? そんなものいらない。わたしたちがほしかったものは、ただひとつだけだもの。それさえいつもそばで見られればよかったんだもの」
じたばたと暴れる自分を抱え走るオーマへとぶつけるように、少女はわめいた。
「笑ってくれればそれでよかったの、わたしが見たかったのはただそれだけだったの!! もっとちかくで見たくて、だからこんな場所までつくったのに、つれてきたみんなはぜんぜん笑ってなんてくれないし……!! ひつようなものもよういしたし、こわい魔物もこっちじゃつくらなかったのに、どうして?!」
揺れ動き続ける偽りの世界の中をそれでも危なげなく走りながら、オーマは首を横に振る。
「いくらそう望んでいても、それを相手に伝えるだけの努力ってやつをお前さんはしていなかったのさ。お前さん、俺たちに最初に会った時もにこりともしないで望みのものはやるという事しか言わなかった上に、誰かを連れてくる時は嫌がるのを無理やりときた。そんなんじゃ誰も訝しく思いこそすれ、笑顔を見せようなんて思わねえだろうよ。何かしてほしいって思うんなら、まず自分からそれをしてやろうじゃねえかぐらいの意気込みがなけりゃあ、決して人には伝わらねえ。
……嬢ちゃんよ、試しに今笑ってみりゃあいい。もしお前さんの笑顔を見せてくれたなら、俺も笑う。約束するぜ」
「…………ほんとう?」
「嘘偽り誇大広告一切無し。こんな時にゃ嘘は言わねぇよ、絶対に」
そう言い切った男の顔と疾風のように過ぎ去る地面とを眉を寄せながら交互に眺めていた少女は、やがて大きくひとり頷くと、ゆっくりとオーマの袖を引いた。
少女を見下ろしたオーマはその表情を見てすぐに、子供のような満面の笑みを浮かべる。
「そうだそうだ、やりゃあできるじゃねえかウォズの嬢ちゃんよ」
だが、それが引き金だった。
少女が安堵の溜め息をもらした時、オーマの足元から――――
地面が、消える。
「なっ…………!!」
投げ出された浮遊感の直後にオーマを襲ったのは、何かに強く引き寄せられる感覚だった。周りを取り囲むのはただ青、青、青。空だけがただ広がり、そこには人工物は一切存在してはいない。
遠くではレーヴェをはじめ、連れ去られてきていた者たちが同じく宙に投げ出されているのが見え、オーマは唇を噛む。
「なんてこった!! ここは……そうか、だから聖獣の加護が受けられたってわけだ!!」
下から猛烈に吹き付ける風に髪の毛を全部後ろにもっていかれながらオーマは叫ぶ。眼下に広がるのは広大なソーンの世界に他ならなかったが、ソーン随一と称される聖都エルザードもあの巨大な天使の像も何もかもがちっぽけにしか見えない。
「そうよ、このせかいはエルザードの真上につくったの!! 鏡をばいたいにしてひとを引き込むためには、真逆にせかいを置かなくちゃならなかったから……!! でもさっき気が緩んじゃったから、せかいが維持できなくなっちゃった!! どうしよう、どうしよう……!! あなたはわたしに、わたしだけの笑顔を見せてくれたはじめてのひとなのに、これじゃ死んじゃう。みんな、みんな死んじゃうよ……!!」
「阿呆、自分のせいだって分かってんならそう簡単に死ぬなんてこた言うんじゃねえ!! 腕の一本や二本折れたっていいから生きる道を探して、きちっとみんなにごめんなさいすんのが女としての生きる道だろうが!! 嬢ちゃんよ、今からお前を皆が落ちている方に投げる。お前もウォズなら身体を変えられるだろう、何か皆を助けられそうなもんになってくれ。そうだな、でかい布なんかいい。とにかく皆をひとつっところに集めてくれ、後は俺がなんとかする」
「それじゃあ、あなたはどうするの? いくらヴァンサーだからって、このたかさから落ちたんじゃ……」
泣きじゃくる少女の頭をひと撫でして、オーマは言った。
「大丈夫だ、俺は死なねぇ。――――お前さんにきっちりごめんなさいさせるまでは、なっ!!」
吹き上げる風の奔流の中、少女の身体が弾丸のように飛ばされる。
その瞬間少女はいっぱいにその小さな手を差し出したが、それをただ笑顔で見送るオーマの迷いのない瞳に開いた手のひらを握り固めた。会ったばかりで間もない少女を、男の目はただ信じていたからだった。
少女は宙を舞いながら、自分の胸の中に温もりが宿っている事に気付く。それは鏡越しに人々の生活を見ていた時と同じような気持ちだったが、少し違っている。遠くでただ見ていたあの頃と違っていたのは、自分だけに感情を向けられたという確かな喜びが存在している事だった。
身体を風に弄ばれながら少女は天に向かって両手を開き、身体の構造を変えていった。
まだ、彼の名前も聞いてはいない。
死なせは、しない。
「よっしゃ嬢ちゃん、よくやった!!」
銃を撃つ時のような強烈な音を響かせ広がった純白の布に皆が受け止められていくのを見て、オーマはくしゃりと笑った。
しかしまだ事態は解決したわけではなかった。オーマ自身は生身のまま落下し続けており、あちらは布で受け止められたとはいえ落下速度が緩んではいない。このままでは共に地面に激突するのが落ちだろう。
だが、オーマの目にはひとかけらの悲壮感すらも滲んではいない。
「さてと、嬢ちゃんにふんばらせて俺がそうしないわけにゃいかねえわな」
オーマの身体がうっすらと白く輝きを持ち始める。
青みがかった髪は塗り替えられたように銀に変化し、瞳は真紅へ。年を経て身体に刻まれたものはいつしか取り払われ、若々しい青年の身体が甦る。
「見せてやるよ嬢ちゃん、――――お前に最初に笑顔をやった男ってのが、どんなにカッコイイ奴なのかをよ!!」
空の青に巨大な雲が過ぎる。いや、雲ではなかった。空を縦に裂くように伸びる雲などはありはしない。
銀色をしたそれは太陽を反射し、眩しく白い輝きを放ちはためいた。
それは翼だった。銀の一対をはためかせるのは、同じく銀のたてがみを持つ獅子。
空を鮮烈に裂く白銀の塊が落ちていく白く巨大な布の真下に入り込み、広大な背で布越しに人々を支える。背中越しに伝わる温もりを感じ、獅子は大きな口を歪め不器用に笑う。これは少女の温もりだ。
触れた部分から精神をつたい、幼い声が響く。少女の声はもう泣いてはおらず、ただオーマを信じる叫びだけを飛ばしていた。
『皆、振り落とされたくなけりゃしっかりどっかに掴まってろよ!!』
そう上に向かって精神を飛ばすやいなやオーマという名の獅子の翼が勢い良くはためき始め、落下速度が緩む。
けれどこれではまだ駄目だった。更に翼がはためき、速度がまた落ちる。もう一度、もう一度。それこそ何度も繰り返して翼がはためく度に、落下速度は確実に緩んでいった。
だが、無理な羽ばたきは獅子の身体を容赦なく痛めつけた。痺れるような痛みを感じながら、それでもオーマはひたすらに続ける。何度も、何度も。
そうして、とうとう翼の感覚がなくなりかけたその時。
足が地面に触れ、いつしか目を閉じていたオーマはゆっくりと双眸を開いた。エルザードの城壁のちょうど外側、誰もない草原に銀の獅子は降り立っていた。背中からは歓声が上がり、布と化した少女からは感謝の言葉が響く。
いち早く降り立ったレーヴェという名の巨人は、オーマの顔の前に立つと剣を掲げ、礼をした。
「……ただの軟派な男であると思っていたが、どうやらそうでもないらしい。騎士として民衆を守ってもらった事に、感謝する」
『素直に「ありがとう」って言った方が分かりやすいぜ、レーヴェよ』
「ふん、言っていろ」
明くる日、オーマはいつものように城門を潜る。
今日も今日とて勧誘の為と、パンフレットはベルトの後ろに無造作に突っ込んであった。
「おはようございます、オーマさん。……あれ、珍しいですね。お連れさんですか」
「よう、おはようさん……って、連れ? 俺ぁそんなもんつれて来た覚えは」
「オーマ」
くいくい、とコートの裾を引かれ振り返ると同時に、オーマはあちゃーと天を仰ぐ。
「……嬢ちゃんよ、お前どっからついてきてたんだ」
「家からよ。オーマがでかけていくのが見えたから、わたしもついていくことにしたの」
オーマの足元に立っていたのは、先日の騒ぎを起こした少女だった。
結局全員が無事に地上に降り立った後、連れ去られた市民たちに顔が知られているレーヴェが事情を説明し、各自家に戻るように促した。困らせていた魔物は討ったとレーヴェが言いオーマが精神安定の香草を嗅がせれば、人々は安心したようにそれぞれの家路を辿っていった。
ウォズは封印を覚悟したかのように少女の姿に戻りオーマのもとに歩み寄ったが、しかしオーマがそれを拒否し、今に至っている。
何故封印しないのかと訊ねてくる少女に、オーマは言った。
『決まってる、お前さんがまだ子供だからさ。どうだい、うちの近所に話し相手を欲しがってる奴がいるから、そいつの相手をしてやってくれねぇか? なあに、お前さんがウォズだろうと何だろうと俺の仲間は対して気にしやしねえから大丈夫だ。見ているだけじゃ分からねぇ事も、色々な奴と話していくうちに見えてくるもんだしな』
それで円満解決となった筈だったのだが、問題は多少残っていた。
「嬢ちゃん、俺の知り合いの話し相手になってやってくれって言っただろーが。黙って出てきたらあいつだって心配するぞ」
「ううん、ちがうわ。オーマのおともだちが『きょうはそとであそんできな』って言ったから外へでたの。そうしたらちょうどオーマが通ったから」
「だからついてきた、と。…………ま、ついてきちまったもんはしゃーねえか。ほれ行くぞ」
「うんっ」
城門の騎士は歩き去っていくふたりのその様子を微笑ましく見送った。
「何だ、また来たのかオーマ・シュヴァルツ。貴様も懲りん奴だな」
「言ってろ。俺は諦めが悪いんでな、お前にこのパンフを手に取らせるまでは何度だって通いつめてやる構えだぜ」
「そうか、ならこれで文句はあるまい」
中庭でまたも偶然遭遇したレーヴェはオーマが突きつけた極彩色のパンフレットをあっさり奪い取ると「任務があるのでな、失礼する」と言って、ぽかんとするオーマを尻目に踵を返した。
しかしすぐに我に返ったオーマはすぐにレーヴェへと走り寄り、いかつい手からパンフレットを奪い返す。
「……何の真似だ。受け取ればそれで良かったのだろうが」
「勧誘ってのはそういうもんじゃねえんだよっ!! もっとこうなんつーか相手をメロリンキューっとその気にさせてからおごそかーに差し出すっていうのが勧誘の王道だろうが!! つーわけでパンフ内容説明からやり直しだレーヴェ」
「そーよそーよ、やりなおしー」
「ええい、いい加減付き合いきれるかこの軟派者が!!」
レーヴェにとっての平和な朝の訪れというのは、まだまだ遠いようだった。
END.
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