<東京怪談ノベル(シングル)>
□生誕・白日□
「僕、今日が誕生日なんだ」
冷気の満ちる中、屋根にしゃがみ込んでいた少年が口を開いた。
月が出る時間だというのに、聖都はいつになく明るい。それは空の果てからしんしんと、それこそ音もなく降り続けている幾つもの白い冬の使者のせいだった。
雪と呼ばれるそれは街の明かりを反射して、紺色の空を薄く照らす。
厚く雪の積もった集団住居の屋根。そこに少年はいた。
人々が首をすくめ、足早に走り去りたいと思うような気温であるというのに、少年は春に着るような服を一枚、ぺらりと身に着けているきりだった。けれどまるで寒さを感じていないかのように、紡ぎだす言葉には震えはない。
「生まれて、初めて降り立ったのが白い世界だった。他の事はどうでもいいからあんまり覚えてなんていないけど、これだけはよく覚えてる。とても綺麗だったんだ。だから僕はその日を誕生日にした」
懐かしそうに目を細めながら遠くを見て、それからゆっくりと少年は視線を下へ落とした。
そこには男が立っていた。
周囲を忙しく歩いていく者から軽く頭ひとつ分ほどはみ出す長身の男は、コートのポケットに手を入れながら少年を見上げている。広場の真ん中でそうしている様は目立つものだったが、人々は一度ちらりと視線をやっただけで足早に歩き去っていく。一年の終わりが近いからかどの者もその準備に忙しく、ぼんやりと何かを見上げている男の視線の先になど注意を払ってはいられないらしい。
しかし、もし物好きな誰かが視線を追ったとしても、きっとすぐにおかしな顔をして去ってしまうのには違いなかった。
若葉の緑をした色の服をまとう少年の姿は、男以外に見える筈もなかったからだ。
男の名はオーマ・シュヴァルツ。
ヴァンサーと呼ばれる長身の男は降り続ける雪の中、ただ静かに少年を見上げている。
「人の暦というのを覚えて、その日が来るのをいつも楽しく待っていたんだ。それが、今日。僕にとってとても大事な記念日だ」
少年の声は小さいにもかかわらず、一言一句が確かにオーマの耳に飛び込んでくる。
けれどそれを不思議とも思わないような顔をしながら、オーマは軽く苦笑して見せた。
「話は分かったぜ。だが坊主よ、お前さんにとってそんなに大事な日なら、どうしてヴァンサーである俺を呼ぶような真似をしたんだ? まさか誕生日に封印されてぇってワケでもないだろうに」
白い息を煙草の煙のように吐き出しながら、オーマが問いかける。
少年と違い、周りの人間にはっきり姿が見えているオーマが叫ぶと、周りを歩いていた者の幾人かは怪訝そうに視線をよこしたが、オーマはそんな視線に全く動じる事はなかった。彼にとって話すべき相手がいるのなら、それがどんな者であれ前を向いて語りかけるのは常識に過ぎなかったからだ。
すると屋根の上で、少年が微かに笑う。彼の口からは白い息は、出なかった。
「さすがに自分の命を縮めるような真似はしないよ、これでもそれなりに永く生きているのだし。それにそっちが僕を見つけたのは偶然だ。僕は別にヴァンサーを呼んでいたわけじゃない。この声が聞こえて姿が見え、僕を僕として認識できる程度の力を持ってたまたま通りがかったのが貴方だっただけ」
「しっかしでも何でまた俺に話しかけようなんて思ったんだ? やり過ごす事もできただろうに」
「そうだね……」
再度の問いに、少年は膝を抱えて空を見上げる。
「もうそんなに時間がなかったから、かな。あと数時間もすれば僕にとって大事な日は昨日になってしまうから、誰にも知られないまま終わるそれが名残惜しくて貴方に声をかけたのかもしれない。――――こういうのって、いつのまにか人の社会とやらに染まってしまったって言うのかな」
薄い色の瞳の中にただ白色が過ぎり、現れては消え現れては消える様を少年は呆然とした顔で眺める。まるで今こんな事を話している自分がいるのが信じられないとでもいうかのように。
「人が誕生日を迎えた時はいつも親や兄弟や祖父や祖母、それか友達やら何やらに祝われるよね」
「ま、大体はそういうもんだな」
「でも、僕にはそんな者はいない。祝ってもらうにしても僕の姿が見えるような高位の存在でなけりゃお話にもならないし、だからといってそういう存在と友情を育めるわけもない。遭遇すれば大抵は争いだ、どちらがより高位な存在なのかってね。昔は僕も、そんな風に年月を過ごしていたよ。相手を殺しいたぶる事で満たされる何かがあったのも事実だ。けどそれで満たされないものもまた、生まれていたらしい」
少年は少しだけ笑った。何かを諦めたような笑みにオーマがぴくりと眉を動かすが、少年はそれに気付かないまま話し続ける。
「誕生日にはいつもこうやって、ひとりで空を見ていたよ。誕生日と決めたあの日に降り立った、白い世界と同じようなところを探してさ。最初のうちはそれだけで良かった、白く綺麗な世界を独り占めしているだけで満足していたんだ。けれど、世界を回って見てきた誕生日の光景を思い出すようになってから、こう胸にぽっかりと穴が開いたようになった」
そうして、少年はゆっくりとオーマへと顔を向ける。
「最初のうちはどうしてそんな気持ちになるのか分からなかったんだけれど、最近になってようやく分かったんだ。……人はいつも誕生日を祝われる時にあんまり幸せそうな顔をするものだから、僕もつい引きずられたみたいだ。いいなあってさ」
困った話だよ。
ごく小さなその呟きに、オーマは大きく息をついて返した。
「どこが困った話なんだよ。お前さんただ単に誰かに祝って欲しいだけなんだろ? ……ちょっと待ってな」
「え?」
言うやいなやオーマの姿は少年の視界から消え失せる。
そのあまりの唐突さに、少年はらしくもなくオーマが消失したと思い立ち上がって下を見た。積もった雪の上に乱雑に残る幾つもの足跡のひとつが集団住居へと伸びていたのに気付いた時、背後に穏やかな気配が満ちるのを感じて振り向けば、先程まで見下ろしていた男が息も荒げずに少年と同じ屋根の上に立っている。
「さすがはヴァンサー、と言うべきなのかな。どうする? 一戦交えるのならそれはそれでいいけれど」
「誰がこんなクソ寒ぃ日に戦いなんかやるってんだ馬鹿野郎。ほれ、いつまでもこんな所いないで行くぞ。早くしねえと店が閉まっちまうだろうが」
くしゃみをしながらオーマは何でもないように少年の手を取り歩き出した。屋根の上にはオーマ一人分の足跡だけが残る。
外に取り付けられた階段を降りる金属音もまた、一人分。
「大体祝って欲しいんなら長々と話なんかしてないで率直に言やいいだろうが、まったく」
「……天敵に素直な事言うウォズなんて」
いない。と続けようとした少年の言葉は、あっさりとオーマの声によって押し退けられた。
「別にそんなウォズが一人や二人いたっていいだろ。それにウォズだって寂しくなる時や何かを恋しく思う時があったっていいんだぜ?」
「…………そうかな」
あまりに自信たっぷりに言われてつい少年がそう言えば、オーマは静かに、けれどはっきりと「そうだ」と頷いてまた階段を下りていく。
口の中で何やらもごもごとこれからの事を考えている男の背中を見つめながら、ウォズの少年はそっと息をついた。少年の息に初めて白い色がついた瞬間だった。
まずオーマは「このままじゃ俺が空気掴んで歩いてるようなちっとばかし危ない奴に見られちまうからな」と言って、適当な古着屋へと入った。
冒険者を相手にしているせいか服のつくりのしっかりしたものが多く並び、またここ聖都には多くの種族も集っている為、赤ん坊から巨人族のものまでサイズもかなり豊富だった。
少年を待たせて適当な服を見繕い、買って出たそばからオーマは少年へと買ったばかりの服を着せ始めた。大きめの帽子と防寒着、それと靴を少年に着せると、オーマはにやりと笑って今度は少年を連れて別の店の扉を潜る。店の主が人の良い顔を向けてきたのに驚いて少年が顔を上げてオーマを見れば、彼は笑って「ほれ、もう他の奴にも見えてるだろ」と言い、少年を商品が並んでいる棚へと押しやった。
何をすればいいのか分からないらしい少年が振り向くと、オーマは苦笑して手をひらひらと振る。
「お前さんも色々な奴の誕生日見てきたんなら知ってんだろ? プレゼントってやつだ、何でもいいから一つ選べよ。あーそうそう、何個もとか値の張るもんは一発却下だからな」
「でも、僕」
「なんだなんだ。もうこの際だ、遠慮はいらねぇぞ」
「僕、人の世界のものって……よく分からないんだけど」
オーマは困ったように言う少年を見てきょとんとしたが、すぐに納得したように帽子の上から少年の頭を撫で回す。
「あー……ま、そうだよな。そんじゃ俺が何か適当に見繕ってやるよ。ただしあまり高いもんは期待するなよ」
適当と言いながらあーでもないこーでもないと時間をかけてオーマは選んでいたが、やがて緑の石がいくつかはめ込まれた腕輪を手にすると、しげしげと見つめた後に納得したようにうん、と首を縦に振った。
「ふむ、緑か。お前の服や目の色にぴったりだな。おい親父、これ。ああ、贈り物ってやつだからきちんとそれ用に包んでくれや」
「おやオーマさん、一念発起してとうとう浮気かい?」
「だーれが浮気なんて恐ろしい……いやいやいやそんな阿呆な真似するかってんだよクソ親父めっ!! いいから早くやってくれ」
「あいよ。ちょっと待ってておくれ」
からからと笑いながら店の主人は箱を組み立てると、腕輪を入れて紙で包み丁寧にオーマへと手渡そうとしたが、オーマは思い出したように首を振って傍らにいた少年の手を引いた。
「あーそうだ。悪いが親父よ、買い物のついでと言っちゃなんだがちょっくらこいつを見ててくれねえか。俺ぁこれからちっと用があるんだ」
「なんだいやぶからぼうに。まあ見ているだけなら別にいいけど、もうすぐ店じまいだからそれまでしかあずかれないよ」
「ちゃんとそれまでには戻ってくるさ。……悪いな、ちょっと待っててくれ。必ず戻ってくるからな」
「あ……」
少年が何かを言おうとした途端に、オーマは乱暴に扉を開けると雪の舞う外へと駆け出していった。店主はもうそんなオーマに慣れているのか苦笑しただけで、静かに少年へと椅子をすすめる。少年もまたおとなしくそれに従い、椅子に腰掛けて窓の外を眺めた。
もうオーマの姿は背中すらも見えない。
「………………」
戻ってこなかったら。そんな事を考えて、少年は防寒着の下で自嘲する。
けれどその雰囲気が伝わったのか、はたまた少年が俯いたのが気にかかっただけなのかどちらかは分からなかったが、店主が安心させるように穏やかに笑った。
「大丈夫だよ。あの男は君を騙してここに置いていくような奴じゃあないさ」
店主の言う通り、閉店間際ではあったがオーマはきちんと戻ってきた。礼を言ってオーマは改めて少年を連れ出し、雪の降る街をさくさくと歩き出す。
「どこに行ってきたんだ。それに、これからどこへ行くんだ」
道すがらの少年の問いには肩を竦めて「ついてからのお楽しみだ」とだけ言い、どんどん、どんどん歩いていく。少年もまたその後に続いていく。二人が通った道の後ろには、二人分の足跡が混ざりながら残っていた。
やがて、オーマは路地へと入っていく。慣れているのだろう、特に臆することもなく足を進めた先には、立派、とは言いがたい家が一件建っていた。木の看板はかなり古びていて、おまけに今は雪が降り積もっているものだから文字を判読する事さえ不可能だった。
その家の前に立つと、オーマは何度か独特のリズムで引き戸を叩き始めた。するとすぐに戸の向こう側から何やら騒がしい「お前ちょっとそっちちゃんと持てよ!!」だの「あーもうちょっと後ろ」だのという声と共に独特のリズムのノックが返ってきて、オーマは納得したように唇の端を上げて少年を前へと押し出した。
「……一体、何なんだ?」
首を上げて訊ねるが、しかしオーマは答えようとはせずにただ笑いながら引き戸の取っ手を指差した。どうやら開けてみろ、という事らしい。
少年は取っ手に手をかけて、そして、躊躇った。これがヴァンサーである男の罠とも限らなかったからだ。
絶えず人の声が聞こえてくるこの扉の向こう側には、まず確実に多くの人間がいるだろう。それが男の仲間のヴァンサーではないという保証はない。少年はウォズとしてそれなりの力があると自負しており、もしこの扉の向こうにヴァンサーが並んでいたとしても負けないだけの自信はあるが、もし罠だったとしたならと考えて少年の心は暗鬱としたものになった。今までどんな罠や攻撃にあっても、こんな気持ちを抱いた事などはなかった。
しかし躊躇う少年の手の上から、大きな手ががっしりと取っ手を掴む。
「大丈夫だ、俺を信じな」
男の声はあくまで低く、そして優しい響きを帯びており、少年は微かに震える。見透かされたような言葉だった。
「この先にはお前さんにとって、きっと楽しい事が待ってる筈さ」
引き戸が徐々に開いていく。オーマが添えた手のひらの力ではなく、少年自身の力によって。
そして戸を潜った瞬間、少年は眩い光と音に包まれたかと思えば強烈な力で中へと引っ張り込まれてしまった。
「よーう、お前が今日誕生日って奴か!! おめでとうよ」
「あら、どんな子かと思えばまだ子供じゃないか。オーマが連れてくるって聞いたもんだから、てっきりいつものような強い酒用意しちゃったよ。ええとジュースジュースっと」
「どのような方かは存じませんが、お、おめでとうございます。やっぱり誕生日っていうのはこうやって皆で楽しまないとですよねえ!!」
「おうい酒だ、酒だ!! 今日はめでてぇ日っぽいから飲むぞ!!」
「お前はいっつもそんな調子だろうがよっ。ほらほら、こっちにおいで。急いで作ったからあんまり多くは用意できなかったけど、料理の味は保証するよ」
「ちょっと待ってよ、料理よりはまずケーキでしょうやっぱり。あの、誰か蝋燭持ってませんかー?」
ばたばたどたばたやいのやいの。
騒がしさと賑やかさの奔流の中、少年はあっという間にもみくちゃにされていた。
先程の光はどうやら魔法で出したものらしく、入り口付近に立っていたひ弱そうな男が今度は光をぽわぽわと出しながら少年を見て笑っている。音は何やら異世界から流入した物質によるものらしく、小さな円錐形が何個か床に転がっていた。
「これは……」
呆然とした少年の呟きに、いつのまにか中に入っていたオーマは豪快に笑いながら肩を叩いて答える。
「よう少年、やっぱり驚きやがったみてぇだな。いやー、駆けずり回って用意した甲斐があるってもんだ」
「駆けずりって、さっきの店で出て行ったのはまさかこの為に?」
「ま、そういうこった。俺にゃヒマな知り合いが多いもんでな、誕生日祝いをしたいって声かけたらまあ盛り上がっちまってこの様よ。お、ありがとさん」
酒の注がれたグラスを受け取ると、オーマは一息に飲み干して隣の少年を見た。この中ではオーマにしか見えない少年は、ひどく驚いたように目を丸くしている。
「……僕が何者なのかも知らないのに、どうして」
「そんな事は関係ねえよ。お前がウォズだろうが何だろうが、めでたい日には変わりねえだろ? ここにいる奴らはお前が誰なのかは知らねえが、誕生日がそいつにとってどれだけ大事なものかっていうのは皆知ってる、だからさ。――――ああ、そういやこれを渡すのがまだだった」
「え」
少年がオーマを仰ぎ見れば、彼は大きな手に不似合いな小箱を乗せていた。鮮やかな緑色のリボンで括られたそれをそっと差し出す。
「誕生日、おめでとうさん」
手のひらへと落とされた小箱をただじっと見つめている少年の頭を撫でると、オーマは窓の外、白い世界を見ながら続ける。
「もしお前さんがひとりは寂しいと思う日があったなら、その腕輪を見てここを思い出せばいい。俺はいつでもここでお前を待っていてやるよ、ウォズの少年」
ぽたり、と緑色のリボンにあたたかな雫が落ちて、跳ねた。
いつのまにか求めていたものを、少年が確かに手にした瞬間だった。
END.
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