<東京怪談ノベル(シングル)>


同族殺しのあなた

 深い闇の中を歩いていた。砂を踏む音が一定の間隔で耳朶を打つ。オーマ・シュヴァルツは軽く首を横に振った。
 これは夢だ、と頭の片隅でぼんやりと考える。いま俺がいるのはソーンだ。ロストソイルで死にかかった俺の故郷じゃねェ。
 何度この夢を繰り返せば気がすむ? ええ、オーマ・シュヴァルツさんよ。じぶんに問いかけても、もちろん答えなど返ってくるはずもないのだが、オーマは自問せずにはいられなかった。これは夢だ。結末を知っている夢。何度も繰り返し、忘れられない……残酷な夢。
 目を覚ませば、オーマが横たわっているのはふかふかのベッドで、隣では妻がすうすうと安らかな寝息をたてているに違いない。だが、そうわかっていても、オーマは枯れた大地を歩き続けるしかなかった。
 目の前にはどこまでも続く丘と砂漠が広がっている。かつては道であった砂地にしなびた木が幾本も立ち並び、骸骨のような不気味さを呈している。空は煙のような鼠色の雲が垂れ込めているが、決して雨は降らないことをオーマは知っていた。人は見当たらず、オーマはじぶんがどこに行こうとしているのかわからない。
 ――いや。
 オーマは軽く舌打ちをする。どこに行きゃあいいのか、わからないって? 違うな。凶獣の匂いが鼻腔を刺激する。そうさ、俺はウォズの隠れている場所へ歩いているんだ……。
 ウォズが近い。ウォズの位置と数を確認するために意識を集中する。オーマの鼻がぴくぴくし始める。常人にはわからない匂いだが、ウォズの体臭はほんの少しだけ、硫黄の香りがする。ヴァンサーソサエティによると、ウォズが地獄の火をくぐり、凶獣となったからだが、オーマはそんなことがあるはずないと、その理由付けをバカにしていた。
「一匹? 一匹か」
 それに随分と小さいようだ。これなら楽にすみそうだ!
 オーマは一気に跳躍した。ごつごつした岩を飛び越える。「ほら、大当たりってヤツだ!」
 その獣は岩陰にいた。
「俺ぁヴァンサーだ。で、お前はウォズだな?」
 具現化した巨大な銃を突きつける。撃つつもりはないが、ウォズは何をするかわからない。用心のためだ。
「違う、違う……」
 ウォズはしきりに首を横に振った。
 灰色の塊。そう表現するのがもっとも正しい気がする。小柄なウォズは人間の子供くらいの体型をしていた。灰色のフードを目深に被り、顔の表情は鼻より下しかわからないが、いまにも泣き出しそうに口をへの字に折り曲げていた。
「違うったってなあ。お孃ちゃん、ここはウォズが入っちゃいけないとこだぜ? 人工浮遊大陸って知ってるか? それがここ」
 オーマは人差し指で足元を指した。
「……で、お前さんの住んでたところはどこか知らんが、さっさと戻ったほうがいいと思うぜ?」
 根が世話焼きなオーマはウォズにアドバイスをしはじめてしまう。このオーマのウォズに親和的な態度がヴァンサーソサエティの異端と揶揄される所以でもあった。
 ――ソサエティの意見はわかるぜ。だけどよ、皆が楽しくやれるのが一番じゃねェのか? たとえウォズでもさ。
 オーマは話し続けた。目の前の小さなウォズを自らの手で封印しなくていいようにと願いながら。
「そんな小さなナリじゃ、襲撃もうまくいかねえんじゃねえのか? さっさと帰るこった。ほら、見送ってやっからよ」
 ウォズがオーマを見上げる。
「おじちゃん、あたし、人間だったの。ウォズじゃない。パパとママもいたの。ヒトなの。ウォズじゃない」
「ふむ」
 オーマは右手を顎にあてた。
「そりゃあ、どういうこった?」
「何日か前にママとパパが変な形になっちゃったの。それで、あたしのこと、襲ってきて……あたし、逃げた。逃げたのに」
 少女の手がフードを握り、一気に取り去った。
「こりゃあ……」オーマは息を呑んだ。「こりゃひどい」
 少女の頭部には緑色の有機体が貼りつき、醜くうごめいていた。一部は突起物から白い粘液を吐き出し、一部は赤黒く変色していて、並みの人間なら見ただけで卒倒しそうな光景だ。オーマは内心で舌打ちする。なぜ気づかなかったんだろう。少女は人間だったのだ。少なくとも、以前は。
「かわいそうに」オーマは心から言った。「痛かったろう? ウォズに取り付かれたんだな。でも、お前さんが強かったもんだから、体の半分は奪われたものの、意識は残ってる、と。その小っせェ体でよくも我慢できたもんだ」
 オーマの優しい声に、ウォズに食われずに残っている少女の左目から、ぼろぼろと涙が溢れ始めた。
「おじちゃん、あたしのこと、殺さないの?」
「ああ」
 オーマは頷いた。この少女からウォズを引き剥がしてやりたい――そうだ、ウォズに体を乗っ取られた人間の治療法がヴァンサーソサエティの記録にあるんじゃねェのか?
 きっとあるはずだ。あの膨大な書庫から記録を探すのは気が引けるが、この子のためにやらなければ。
 だが、その次のオーマの言葉を聞いた途端、少女の体が凍りついた。
「俺とヴァンサーソサエティに行こう」
 オーマが怪訝な顔で少女を見下ろす。「ん? どうしたんだ? 固まっちまって。悪ィが、医者の俺もあんま聞いたことない症状だからなあ、ソサエティで文献を探してェんだよ。でもきっと治してやるから。な?」
 少女はふるふると首を横に振った。興奮のためか、頭部のウォズがぐしゃりと盛り上がり、また凹む。
「やだ……やだ。そんな、ヴァンサーのひとたちがたくさんいるところに行きたくない」
 オーマは眉をひそめて少女の目線にあわせるようにしゃがみこんだ。
「行きたくないったって、行かなきゃどうもならねえんだよ。お嬢ちゃんもそんなコブつきで嫁さんに行きたくないだろ? まあ、これはこれで結構面白いとは思うが……」
「行きたくない。行きたくない。あそこのひとたち、あたしのことウォズっていうの。珍しい、実験材料だって。あたしのこと、殺そうとするんだもの……」
 オーマはかすかに頷いた。「そうか、嬢ちゃん、既にヴァンサーと会ったことがあるんだな」
 知識のない、一編の訓練しかされてない型どおりのヴァンサーは少女の主張など聞かず、ウォズとして封印しようとしたのだろう。
 馬鹿野郎が。名前訊いてたらとっちめてやるところだぜ。
 少女は嗚咽を漏らしながらこくんと頷いた。ウォズにもなりきれず、人間として生きることも許されず、少女はこの荒れ果てた大地に隠れるようにして細々と命を繋いでいたんだろう。
 確かに数百年前に都市が砂の中に埋没したここなら、人間などいないから、ウォズの数も相対的に少なくなる。ヴァンサーも滅多に訪れる事はない。
「だから、だから、あたし、ここにいる。ヴァンサーソサエティになんて行きたくない」
 頭の片隅で、もうひとりのオーマ・シュヴァルツが深いため息をつく。何度も繰り返した光景を、また再び俺は目にしなけりゃいけねェのか。何かの呪いみたいに。
 オーマはそれからなだめすかして少女を連れて行こうとした。だが、少女は過去の深い傷と怯えのために首を縱には振らなかった。そして、最後にひとこと、
「おじちゃん、あたし……あたし、人間が怖い」
 それで全てが終わった。
 少女は自らの首にさび付いたナイフを突きたて、命を絶ったのだ。
「待て!」
 だが、終わらなかった。
 そうだ、何を俺はぼんやりしてんだ? 夢だから、夢だからこそ、変えられるエンディングがあるだろうッ……?
 オーマは少女のナイフを持つ手を握りしめていた。首の動脈まであと数ミリというところで、少女の手が止まる。
「……おじちゃん……」
 少女のくりっとした栗色の瞳がオーマの緊張で汗だくになった顔を見上げた。オーマの右手から鮮血が指を伝って地面にぽたぽた落ちていく。
 ほら、見やがれ。今度こそ、俺ぁ間に合ったぜ。オーマはため息をつく。
「俺が絶対にお前を守ってやる。ウォズだろうと、人間だろうと。だから、死ぬな。絶対に」
 ほんとうは死んでしまった少女は、オーマの夢の中で最高の笑顔を浮かべていた。「うん!」

 目を覚ましたオーマが隣を見ると、妻がじぶんの顔を見つめていることに気づき、にんまりした。
「んっ……、何だ、俺様の美貌に惚れ直してんのか?」
「馬鹿ねえ」妻はくすくす笑いながらオーマの腹を円を描くように撫でた。
「なーんか、夢見てるのか、しかめつらしたり、突然にやにやしたりして、見てるのが面白かったのよ」
「そうか。ふぁあ、残念だな」オーマはベッドの中で伸びをする。「俺ぁ、古い夢、見てたんだぜ」
「そう。どんなの?」
「ウォズと共生の道を探るきっかけになった事件さ」
「ああ」と、オーマの妻は頷いた。「あの悲しい話ね」
「ああ。だがな、今度は助けられた。夢の中だったが――」
 あの少女は笑っていた。
 そう思って、オーマは幸せな余韻を胸に抱きながら、目を閉じた。朝の怠惰な眠りをもういちど味わうために。

ライターより
同族殺しのあなた、いかがだったでしょうか? サンプル文章をお気に召してくださった模様、指定無しとのことだったので、シリアス風味でお届けいたします。オーマはヴァンサーソサエティでも異端者とのこと、こんな過去があってもいいんじゃないかなと思いながら楽しく書かせていただきました。少しでも気にいってくださったら嬉しいです。【由無】