<東京怪談ノベル(シングル)>


真夜中の冒険

 エルファリアは多忙の人だ。
 聖都エルザードを治める精霊王の娘――王女として、都の人々を正しく導くだけでなく、郊外に建つ別荘の主として住みついた様々な住人たちを諍いなく治める。そして、時には探求者として彼らと共に冒険へと旅立つことも……
 美しく聡明だと評判の娘は、この国で1番の働き者でもあった。

 何かと慌ただしい年の瀬の風は、ゆるゆるとくつろぐ王女の別荘にゆとう夢の精霊たちの心にもそぞろの種を撒いたらしい。
 ここ数日、レピア・浮桜(−・ふおう)は、王女とのすれ違いの日々に気を揉んでいる。
 いつもなら自室でのんびりくつろいでいる時間帯に部屋にいないのはもちろん。早々と就寝してしまっていたりと、言葉を交わす機会もない。
 王女が公務に追われるのはいつものことで。真面目なエルファリアのことだから、適当にお茶を濁して済ませるような芸当もできないのだろう。――それは、王族という身分を持つ者が果たさなければいけない義務なのだということを、レピアは最近知った。
 最高級の絹に身を包み、意匠を凝らした装身具に飾られて。飢えることも、雨露に悩まされることもない。誰もが憧れ羨む生活を享受し、それでも、妬みや恨みを買わずにいる為には、それだけの役目を果たさなければ――…
 堅苦しいな…と、思うけれども。そういったことに文句も言わず、笑顔で公務をこなしていくエルファリアを少しだけ尊敬していたりもする。
 芸の為ならともかく、全く興味のない……また、この先、実になりそうもない客の自慢話に辛抱強く耳を傾けるなど、堪え性のないレピアにはちょっとできそうもない。
 それこそ、時間の無駄遣いというものだ。
 彼女の時間は、レピアのように無限にあるわけではないのに。
 薄暗い居間のソファに深々と身を沈め、レピアは高い天井からぶら下がるシャンデリアを睨めつける。――この別荘でレピアの存在(正体?)を知っているのは、エルファリアただひとり。彼女がいないとこの部屋には明かりだって灯らない。
 過去のちょっとした不幸な行き違いと誤解によって解けない呪いに縛られる身となったレピアにとって、エルファリア全ての事情を知る唯一の人であり、隔てなく語り合える貴重な友だった。
 その稀有な時間を取り戻すには――
 そして、顔には決して表さないだろうけれども疲れているに違いない親友を労い、元気付けてやる為に、自分に何が出来るのだろうか……
 滑らかな絹張りの肘掛に乗せた手を眺め、レピアは小さな吐息を落す。
 夜のうちこそ呪縛から解き放たれているものの、朝日が昇れば呪いはまたこの手を動かぬ石に変えるのだ。
 たとえ、部屋に戻ったエルファリアが石像に気付いて足を止めても。ひとこと、ふたこと声をかけてくれたとしても……忌まわしき眠りに囚われたレピアには、王女の言葉に応えることはできない。その優しい声さえ、石像の耳には届かないのだから。
「……因果なものだねぇ…」
 呪いが疎ましいのはいつものことだが――
 誰かを思いやり慈しむことの許されぬこの身がもどかしく、呪わしく思われるのは初めてだった。


■□


 木枯らしに吹き寄せられた枯葉が、陽の落ちた街路に虚ろな音を響かせる。
 しっかりと下された鎧戸の隙間から零れる淡い光の中で、白々と揺れる冷気は訪れた精霊の足跡にも思われて。
 夏の間は人いきれでことさら暑く活気づいていたアルマ通りも、どこか寂しげな印象を隠せない。――歓楽街と名の知られたベルファ通りであればまた客筋も違い、ひとときの享楽を求めて集まった酔客たちで賑わっているのだろうけれど。
 暮れなずむ街を歩く人々は、皆、寒そうに外套の襟を立て、早足で家路へ急いでいるようだ。通りの両脇に軒を連ねる商店も店終いの時間を早めていると見え、売り子や店主が忙しそうに立ち働いているのが見える。
 白山羊亭を取り巻く温かな喧騒だけが音もなく降り積もる冬の静謐の中、ひときわ暖かな光に包まれていた。
「いらしゃいませー」
 冬備えの分厚い扉を押して店内に足を踏み入れた客は、華やかな歓迎の声にふと足を止めて首をかしげる。
 艶を含んだその声に、聞き覚があるような、ないような‥‥
「ほら、そんなところで立ってないで。とっとと席にお座りよ。ほら、あそこのテーブルが開いてるよ」
 女給にしては、少なからずぞんざいで乱暴な。意外な歓迎に男は目を丸くして、とんとんと手にしたお盆で肩を叩いている妙齢の女給に目を向けた。――この国には珍しい紺青の髪をした、なかなかの美人である。王宮のメイドのような衣装に包まれた身体のラインも、女給にしておくにはもったいないほど魅力的だ。
 それにしても、この女給――
 どこかで見たことがあるような、ないような‥‥
 ぱちぱちと瞬いて彼女を見つめる客の視線に気付いて、女給はあっけらかんとした笑みを浮かべる。
「なあに? あたしの顔がどうかした?」
「……い、いや…」
 慌てて逸らした視線は、所在なく馴染みの客で埋まった店内に当てのない救いを求め。――白山羊亭を訪れた吟遊詩人や演奏家が自慢の芸を披露するために設けられたスペースに立つ人影に吸い寄せられた。
 すんなりとのびやかな肢体を露出度の高い官能的な異国の衣装で包んだ妙齢の踊り子。聖都の踊り子といえば、黒山羊亭のエスメラルダが名高いが……彼女の名前もまた、エルザードの夜の巷に囁かれるようになって久しい。
「ほお、今夜はレピア嬢がご来店――」
 噂の踊り子の妙技を堪能できるとは、ついている。
 そう言いさした言葉が途中で途切れ……
 異国の踊り子、レピア・浮桜は布地の少ない衣装に映える肉感的で魅力的な身体と珍しい紺青の髪の持ち主であったと記憶していた。だが、彼の目の前に立っている踊り子の、流行の形に結い上げた髪はやさしい金髪。身体つきもどちらかといえば、ほっそりと上品で清楚だが、同時に少し近づきがたい気品のようなものを備えている。
「……う…む…」
 悪くはないのだが、何かが違う。
 違和感の因が判らぬまま神妙な顔で首を捻った男の背中で、女給は焦れたようにパンパンと手を叩いた。
「ほら、早く。座ってちょうだい。アンタが座ってくれなきゃ、始められないじゃないの」
 振り返った男の視界に、まっさきに飛び込んできたのは……
 艶やかで、鮮やかな、紺青の髪――
「……あんた…」
 それ以上は、言葉にできず。追い立てられるように空いた席に座った男の前にすかさずエールの大ジョッキと野ウサギのシチューを並べ、レピアは舞台に立った踊り子にウィンクを投げた。
「はーい、みんな注目して」
 客を惹きつけずには置かない明るい声が店に揺れる。聞く者を楽しい気分にさせずにはおかない華やかさは、鮮やかな陽の光にも似て……
 集まる視線に臆する風もなく、レピアは顔を上げた客を見回す。
「今夜は運がいいよ。――普段は謳わない踊り子の歌が聞けるんだからね!」
 その声を合図に、楽師が穏やかな旋律を紡ぎ始めた。
 ギターとパーカッションの耳に心地よい単調な調べを伴奏に、エルファリアが扮した踊り子は優雅な仕草で聴衆に会釈する。
 一夜限りの歌姫が紡ぐ妙なる美声は、どこまでも優しく透明で。
 凍てついた大地を溶かす春の女神の微笑。
 暖かな暖炉の前で夢路へ誘う眠りの精霊の甘い囁き。
 真夏の午後、草原の銀緑を裏返して駆け抜ける一陣の風。小川のせせらぎ――
 聞く者の心を束の間、心地よい陶酔へと導いた。
 冬将軍の心をも蕩かし得るのではないかと思われるほど優麗な王女の歌声は、酒場の片隅で酔客を相手に古びたダイスを転がして吉凶を当てる占い師の耳にも届き……
 目深に被ったローブの奥でぶつぶつと何かを呟やく折れ曲がった小さな身体が店から消えたことに気付いた者は居なかった。


■□


 冷たく冴えた天頂で、凍りついた星がきらめく。
 ミッドナイトブルーの空はどこまでも高く、澄んだ空気は伸ばせば手が届くのではないかと思えるほど。
「寒ぅ〜い!」
 肺に痛みを覚えるほど冷たい夜気を深く吸い込み、レピアはまどろむ街の真ん中ではしゃいだ悲鳴をあげた。
 深夜の冷気に、吐き出された歓声もたちどころに白く凍りつく。
「でも、気持ちい〜!!」
 外気は痺れるほど寒かったが、興奮に火照った身体には心地よい。――もちろん、酒の力もいくらかは…。
「ああ、楽しかった」
 貴方は?
 満ち足りた友の笑顔に、エルファリアもにっこりと優麗な顔を綻ばせた。
「ええ、とても」
 突然、踊り子の衣装を着せられ、街へ行こうと誘われたときはとても驚いたのだけれども。少しでもエルファリアをリラックスさせ楽しませようと心を砕いてくれたレピアの気持ちが嬉しかったから。
「……それにしても、貴方は何でもできるのね…」
 女給の格好をして次々に注文を投げてくる客を手際よく捌きながら、エルファリアの世話もしっかりと。鮮やかな身のこなしは、さすがというか……とても、未経験には思えなかった。
「そういえば、そうね。あれは、身体が勝手に動いたってカンジ。――あたし、メイドなんてやったことないと思うんだけど……」
 別荘で忙しく働いているメイドの姿を見ているうちに覚えたのかな?
 そんなことを言いいあって、顔を見合わせると自然に笑顔がこぼれる。深い眠りについた街の真ん中で、声を挙げてはしゃぐ快感。
 今、この時、この瞬間。別荘へと続く石畳の道は、紛れもなくふたりの世界だ。
 そんな満たされた安心感のせいだろうか。細い路地に淀んだ漆黒の闇のなかから皓々と冴えた月明かりの下に音もなく滑り出た黒い影に、気が付かなかったのは。
 吹き寄せられた粉雪が張り付つき白く凍てついた石畳に蹲ったその影は、小さな犬のようにも見えた。
 よれよれのくたびれたフードを深く被った小柄な人間だと気付いたのは、ずいぶん近づいてからのこと。背中の曲がったその姿は、物乞いのようにも思われて。
 汐が引くように、酔いがさめる。
 少し気まずい思いを味わいながら素知らぬふりで……エルファリアは、もしかしたら軽く会釈をしたのかもしれない……その前を通り過ぎようとした。その時――
 ふうわり、と。
 やわらかな風が頬を撫でて行過ぎた。――無情な雪の精霊の吐息ではなく、温かく甘美な魔力を帯びた魔法の風が。
「Sommeil serr?, Princesse.」
「――――ッ?!」
 吐息のような微かな声に呼ばれ、振り返ったレピアの前で――
 エルファリアが驚いたように眸を見開く。何が起こったのか、はっきりとは理解できなかったのかもしれない。
 足を止めてフードの人物を振り返り、それから、ゆっくりとレピアに視線を向ける。その緩慢な動作はいつのもエルファリアのものではなくて。――不思議そうに小首をかしげた。さらりと肩から流れた金色の髪。月の光に滑らかな光沢を見せる絹と毛皮の外套。少しずつ、そして、確実に。
 紡がれた魔法は、その理に従って王女を冒し……その姿を変えていく。
 やわらかな象牙色の肌を氷のように硬く冷やして。鮮やかな生彩を浮かべたふたつの瞳も、輝くだけの冷たい宝石に。
「そんな、エルファリアっ!!?」
 もの問たげにほんの少し顎を引いて。だが、微かに開かれた唇は言葉を紡ぐことなく。禍々しいほどの月光の下、レピアの前に立っているのは王女の姿をした水晶の彫像だった。
「………そんな……」
 呆然と絶句したレピアのすぐ傍らで。突然、耳障りな哄笑が弾ける。
 蹲った黒い影。いつの間にか人の姿に戻った魔法使いは、何がおかしいのかげらげらと笑い続けた。エルファリアの優しく幸せそうな笑い声とはまるで違う。捻じ曲がった下品な声だ。
「……あんた……あんたね、エルファリアに魔法をかけたのはっ!?」
 カッとして掴みかかったレピアの手をするりと躱し、魔法使いは軽やかにバックステップを踏む。ひるがえったローブの裾から延びた手足は、先ほどまでの萎びたみすぼらしい老人ではない。
「何者なの?! 今すぐ、エルファリアを元に戻しなさい!! さもないと――」
 追いかけたレピアの叫びに、魔法使いはふっと笑った。そして、ふわりとレピアの前に立つ。
「……さもないと?」
 どうするっていうの?
 ローブの奥の鮮やかな朱唇が嗤う。
「ただの踊り子にすぎないお前に、いったい何が出来るとゆーの?」
「…あんた……」
 目を細めたレピアの前で、魔法使いはゆっくりと腕をあげて顔を覆うローブを外す。月光の下、現われたのは漆黒の髪と白蝋のごとく白い肌をした美しい女だった。――琥珀玉のような金色の眸が、降り注ぐ月光に映えひどく禍々しい。
「いったい、どういうつもりなの? エルファリアがあんたに何をしたっていうのよ」
 怒りを抑えようと息を吐いたレピアの言葉に、魔女はわざとらしい仕草で肩をすくめる。
「良い声だったねぇ。ああ、本当に、うっとりするような良い声だった」
 だから、欲しくなったのさ、あの声が。
「……な…っ?!」
「アタシは美しいものが大好きでねぇ。――ねぇ、アタシは美しいだろう?」
 美しい顔、綺麗な眸、艶やかな髪、大理石のような白い肌。そして、美しい歌声も――
 うっとりと細められた金色の眸に、ぞっとするような冷たい愉悦が浮かんだ。確かに、月光の下に蒼く浮かんだその姿は喩えようもなく美しい。
「あの歌声は、アタシを飾るに相応しいと思わないかい?」
「バカなこと言うんじゃないわよ! エルファリアの声は、誰のものでもない。エルファリアのものよ!! だいたい、声が目的なら彫像にする必要はないでしょう!!」
 エルファリアの声だから。エルファリアが想いのこめられた歌だからこそ、客は感動したのだ。――他の誰でもない。エルファリアでなければ。
「今すぐ、戻しなさい!」
「それは、ダメよ。あの声をアタシのものにする為には、まず水晶に姿を変えて、それから……」
「そんなことさせないわっ!!」
 エルファリアを夜の街に連れ出したのは、レピアだ。
 良かれと思ったことが、こんな性質の悪い魔女を呼び寄せてしまうとは。後悔しても、し足りない。――もし、エルファリアが死んでしまったら……
 聖獣王だけでなく、エルザードの全ての住民が嘆くだろう。――否、今度こそ。咎人の烙印は、レピアから夢も希望も奪い尽くして灼き滅ぼすに違いない。
 夢中で伸ばした指先が魔女のローブを掴む。刹那、
 腕に冷たい気配を感じた。カッと熱いものが腕を走りぬけ、月光の下に鮮血が飛沫く。
 魔女の放った見えざる刃。
 考えている暇はなかった。気配に反応して身体が動くに任せ、紙一重でそれを躱しながら、レピアはそれでも魔女に向かって腕を伸ばす。

 ――エルファリア
 たったひとりの。
 長い長い放浪の末に、ようやく得た大切な親友……

 彼女の為なら――
 そう。きっと、命だって惜しくない――


■□


 誰かに名前を呼ばれた気がした。
 暗闇にのびる細い道をひとり歩いていたエルファリアは、ふと立ち止まって首をかしげる。
 伸ばした手の指先も見えぬ深い闇。不思議と怖いとは思わなかったけれど。――夢だと理解して夢を見ている、そんな感じだ。
「……エルファリア…」
 誰の声だろう。
 どこかで聞いた覚えがあるのだけれど。いつもは、もっと……そう。もっと親しげに呼びかけてくるその声は、何故だかとても焦っているようだ。
「エルファリア。ねえ、しっかりしてよ、エルファリア」
 ほら。やっぱり夢だ。
 そう思うと、何やら少しおかしくなった。――彼女は何をあんなに、慌てているのだろう。これは夢の中なのに。
 彼女。
 彼女は……友達だ。
 友達と呼べる人は沢山いる。彼女の他にも……例えば、別荘の管理をしてくれるメイド。彼女は、もう幼馴染といっていいくらいの付き合いで。
 ああ、でも……
 この声は、あの子じゃないわね。
「エルファリア。お願いだから、目を開けてよ」
 はいはい。
 今起きるから、そんな悲しそうな声を出さないでくださいね。――今日は何をしないといけなかったかしら?
 園遊会? 舞踏会……有名な作曲家の演奏会だったかしら? 毎日、忙しくてイヤになっちゃう。
 レピアともゆっくりお話していないし――

 ああそうだ、思い出した。
 この声は、レピアね――

「エルファリアっ!!」
 ゆっくりと開かれた瞼の下から現われた貴石のような眸がレピアを見上げる。
 なんどか瞬き、レピアを見つけるとエルファリアは、にこりと笑った。――楽しい夢から目が覚めたばかりのように。
「レピア」
「エルファリア、大丈夫?!」
 涙を溜めて抱きついてきた友達の背中を優しく撫でて、エルファリアは少し困惑したように小首をかしげる。
「レピアったら、どうしてしまったの?」
「どうしたって……エルファリア、あんた何も覚えてないの?」
 不思議そうなその声に、レピアは顔をあげまじまじと王女を見つめた。その顔を見つめ返して、エルファリアはふと気が付いて心配そうな声をあげる。
「何もって……あら、レピア、あなた怪我をしているわ……」
 どうしたの?
 真摯な色を浮かべて気遣う友の表情に言葉を失くし、それから、なんだかおかしくなった。
 あんなに必死に戦ったのに。魔女は取り逃がしてしまったけれど、それだって、一刻も早くエルファリアを元の姿に戻してあげたかったら。それなのに、当のエルファリアは、目覚めた途端、レピアの怪我に気づいて心を痛めているなんて。
「……ごめんね…」
「え?」
 小さく落とされたレピアの言葉に、エルファリアはやっぱり不思議そうな顔をした。
「なんでもない、歩きながら話すわ」
 エルファリアのことだ、どんな話を聞いたってきっと笑顔でこう言うに違いない。
「助けてくれてありがとう」
 びっくりしたけど、スリルがあってとても楽しかったわ、と。
 エルファリアはそういう娘なのだから。
 ――そして、レピアはそういうエルファリアだからこそ大好きなのだ。

=おわり=