<東京怪談ノベル(シングル)>
月光
【月光】
ソーンには、全ての世界から人が集う。
何もかもを吸い込み、抱え込む、奈落のような場所であるかもしれないと、ふと、思う。
彷徨う先に出口は無く。
闇雲に突き進んだところで、開けるのは、果ても見えない未開の大地。
帰りたくても、帰れない。
旅人を続けるうちに、人は、故郷ではないこの土地に、同化する。友が出来、家族が出来、そしてやがては年をとる。捨てられないものが増えすぎた時に、果たして出口を見つけても、戻ることが叶うだろうか?
「……無理、かな」
遠く、遠夜が、天を仰ぐ。
月は青く、冴え冴えとした色が、あの懐かしい故郷のそれと、重なった。
「どうして、今、ここにいるのだろう……」
全てのソーンの住人が、恐らくは一度は口にする疑問。
神でさえも、答えられない。
何故、と心の片隅に、溶けない氷塊を感じながら、遠夜は、居ても立ってもいられず、仮の住処を飛び出した。
きっと、答えが欲しかったわけではない。
ただ……。
何処をどう歩いたか、いつの間にか、遠夜は見慣れぬ繁華街に迷い込んでいた。
何かの祭りが近いのだろうか。人は妙に浮き足立ち、感じる熱気はいつにも増して、煩わしいほど。
耳の尖ったあの綺麗な少女は、エルフだろうか? ふさふさの尻尾を当然のように生やして歩く、獣人の青年。偽者ではない兎の耳を垂らした子供に、背中に羽を持つ女性。
ここは、まさに、御伽噺の国なのだ。
全ての非現実が、抗いがたい現実として、遠夜の目の前に君臨する。
「……えっ?」
びくり、と、遠夜が、身をすくめる。
聞き間違い?
いや……今、確かに。
「月光……」
雑踏の喧騒とは別の次元で、音が響く。高く、低く、重苦しさすら伴って、懐かしい音楽が広がる。
彼が元いた世界の名曲。ドイツの誇る偉大な音楽家が残したそれは……紛れもなく、「月光」。
「誰が……」
誰かが弾いている。巷のざわめきにも囚われず、悠然と、メロディを奏で続ける。
通りから少し入った路地裏の、小さな店から、月の音が零れ出ていた。迷いもなく、遠夜が、扉を開ける。外の鬱陶しい灯火の明かりに慣れた目に、店内の闇は、いささか濃かった。
こじんまりとした空間。座り心地の良さそうなソファに、テーブルの上で、ほとんど主張しない蝋燭のほのかな光。カウンターもある。ずらりと並べられたグラスと酒瓶が、棚の飾りだ。
そこは、酒場。
どこかの女将が経営するような、大規模な冒険者の酒場ではない。吹けば飛んでしまうに違いない、小さな小さな店だった。
「いらっしゃい」
ピアニストが、言った。
他に客はいない。月光が止んだ。ピアニストが、立ち上がる。彼が店の主人なのだろう。そのまま、と、遠夜は呟いた。
「そのまま……弾いてください」
こんな場所で耳にするとは、夢にも思わなかった、地球の音楽。
ピアニストもまた、遠夜と同じく、彷徨い人なのだろう。
「帰りたいかい?」
ピアニストが、尋ねる。
月光を奏でながら。
「帰る……ことが、いつか、出来たら」
それは、望み。
それは、願い。
いつだって、忘れたことはない。簡単なように見えて、けれど、今は、遥かに遠い……。
「神室川学園に、居たんです」
闇の中では、ピアニストが、何処の国籍かもわからない。学校の名を言ったところで、きっと、通じもしないのだろう。仕方のないことだとは、わかっている。
だが、まるで堰を切ったように、言葉が流れ出る。今日初めて会った、顔すらも定かに見えない他人だからこそ、安心して、ぶつけることが出来るのだ。
今日だけの、知人。
今夜だけの、友人。
「ワンダーフォーゲル部の副部長でした。そして……退魔師。陰陽師。日本で、高校生をしていたんです。当たり前の……何処にでもいる……」
陰陽師が、平凡?
自分で言って、苦笑する。傍から見たら、非凡なのかもしれない。だけど、彼の生活は、本当に平凡だったのだ。確かに非現実は、向こうにもあった。それは認める。それは本当だけれど……。
今、ここにいる自分は、その全てを否定してしまう。
高校生でも、陰陽師でもない自分。目立たぬように黒い鎧を身に着け、長剣を引っ提げた。符は懐深くに隠し、呪詛の言葉は、決して、人前では紡がない。
本当の自分ではない、偽者に塗り固められた、毎日。
足場から崩れてゆくような、この、どうしようもないほどの、不安感。
「約束も、あったのに」
借りたままのCD。人懐っこい後輩が、ぜひ聴いて下さいと、貸してくれたものだ。今はもう、それを返す術もない。
なぜ、あの時、ありがとうと受け取ってしまったのだろう? こんな事になるとわかっていたら、頑として拒んだ。陰陽師としてかなりの修行を積んだはずなのに、自分の未来も伺い知れない。
「それに……」
ふと、浮かぶ。一番会いたい人の顔が。
他の誰とも取り替えはきかない。
大切な人だった。大好きな人だった。いや、過去形にする気は全くない。今なお変わらず、遠夜の中にいてくれる。いつか必ず会いに行くと誓ったからこそ、圧倒的な孤独の重圧にも押し潰されずに、前を向いていられるのだ。
「逢いたい……」
今、何をしているだろう?
日曜日に出かける約束をしていた。すっぽかした自分のことを、想っていてくれるだろうか。あれからどれほどの時間が流れたかもわからない。
一日は、時に長く、時に短く、不規則に、不安定に、彼の内を駆け抜けてゆく。
ソーンと地球の時間軸が同じであるという保障はどこにもなく、帰っても、もう誰もいない可能性とて、皆無ではない。
「手紙を、書いてみては如何ですか?」
その言葉に、遠夜は、咄嗟に答えを返せない。
「手紙?」
届くあてもないのに?
「貴方は、この地で、たくさんのものに出会うはずです。その全てを、一番大切な方に、伝えてあげたいとは思いませんか?」
届くあてもないのに?
「届かないと思えば……きっと、届きません。けれど、信じれば、叶います。夢とは、そういうもの。絆とは、私たちが考えているよりも、もっと、ずっと、強いものであるはずなのです」
このピアニストも、ただひたすらに戻る日を夢見て、誰かに手紙をしたためているのだろうか。
途切れることなく繰り返される、月光。
終わりのない螺旋のメロディ。
「会えると、良いですね」
自分よりも、先に。
遠夜は考える。きっと、このピアニストの方が、長い時間を彷徨っている。したためた手紙は、どれくらいの厚さになっているだろう?
「俺も……」
書いてみようか。届くあてもない手紙を。
この異郷の地で経験した出来事を、いつか、彼女に伝えるために。
改めてペンを取り、頭を捻って文章を考える。携帯のメールを送るのとは、訳が違う。手紙は、何時までも残る。そこに数多の記憶を閉じ込めて、歴史を渡るのだ。
「さようなら」
月光を紡ぐピアニストに別れを告げて、遠夜は、店を後にした。
後ろ手に閉めた扉の向こうで、月の光を模した曲は、消えることなく、流れ続けていた。
【帰還】
数日後、遠夜は、再び店を訪れた。
昼は営業をやっていないはずなのに、何故か、ドアが開いていた。
恐る恐る、中を覗き込む。無人だった。ピアニストの姿はない。
「何処に……」
開けっ放しの窓から吹き込む風が、ひらりと、一枚の紙を遠夜の元に連れてきた。
あまりにも短い文面。
ただ、一言。
「帰ります」
帰ったのだろうか?
戻ったのだろうか?
彼の故郷に。彼を待ち続ける誰かのもとに。
その手段など窺い知れない。いや、そもそも、帰ったかどうかも、定かではない。
「でも……」
信じれば叶うと言ったあの人を、真似るわけではない。ただ、素直に、未だ彼女を想い続ける。遠い、遠い、異郷の国で、忘れることなく、全てのことを、君だけに伝えよう。
遠夜は、静かに、扉を閉めた。
月光は、もう、聞こえなかった。
|
|