＜東京怪談ノベル（シングル）＞
砂の音
美しい砂丘。
風に転がされた砂のざわめく音が聞こえる。
何処までも広がる砂の海。
それが私を育んだ『砂の果て』。
懐かしい‥‥‥砂の音。
柔らかな朝の日差しがカーテンの隙間から差し込み、リーラ・ケルミスを照らしていた。
ゆっくりと浮上する意識。
リーラは眩しそうに目を細め、カーテンを開けようと手を伸ばした。
その瞬間、リーラは身体のあちこちが痛むのに気付く。
そちらに目を向けると体中に深くはないものの傷を負っていた。
昨夜はやっと請け負っていた一つの冒険が終わり、宿まで辿り着いてそのまま倒れ込むように眠ってしまったのだった。
普段ならばこんなことは無いのだが、怪我をしていたのを依頼人と別れるまで隠し続けていたのが祟ったのかもしれない。
靴を脱いだ所までは朧気に思い出せるが、それ以降はさっぱりだった。
軽い溜息を吐きつつ、リーラは起きあがる。
傷は痛むがこれくらいの傷を治すのはリーラにとって朝飯前だ。
リーラは治療師だった。
冒険者と一緒に数々の冒険へと出かけ、そして傷ついた者を癒す。
リーラの種族は平穏と安定を好むものだったが、リーラはそれを由としなかった。
平穏よりも好奇心の方が勝った。
だから住み慣れた土地を離れ旅を続け、多くの傷ついた誰かを癒し続けていた。
リーラは傷ついた部分に手を当て、その部分に力を集める。
ぽうっ、と暖かな光が溢れ傷口はみるみるうちに塞がっていく。
癒しの力は切り裂かれた肌を元の白い滑らかな肌へと変えた。
一晩眠って疲労は大分取れたようだった。
体中にあった無数の傷をそうして癒し終えると、リーラはほっと溜息を吐く。
そうして街を照らす朝日を眺めながら、先ほど見ていた夢を思い出していた。
ずっと心の中にある風景。
幼い頃、夜中にこっそりと窓から覗いた風景。
月夜に照らされた美しい世界。
月明かりを湛えた砂の海。
リーラの住んでいた砂の果て。
皆、穏やかで気の良い人々が集まっていた場所。
ざざざざっ、と風に流され砂が音を立てる音を聞いていると、とても心地よくて安心した。
それは砂の民にとっての子守歌のようで。
砂漠と共に生きる民は砂の怖さもそして優しさも知っていた。
砂との共存はそこで生活している者にとっては当たり前で。
けれどリーラはそこを離れ、もっとたくさんの人との関わり合いを望んだのだった。
治療師として、傷ついた誰かを癒し続けるのがリーラの幸せ。
幼い頃に両親を失っていたリーラを縛る者はなかった。
それからリーラはたくさんの街や村を渡り歩き、たくさんの冒険に同行した。
もちろん治療師として。
ほとんどの冒険には戦闘が付きものだった。傷を負った時に、治療師が居るのと居ないのとでは、成功の確率が大分変わってくる。
リーラの仕事は尽きなかった。
行く先々でリーラは仕事を請け負い、そして生きてきた。
皆の笑顔を見ているのが好きだった。
人々の笑顔を糧にリーラは旅を続ける。
そこまで考えて、リーラは軽く伸びをしてベッドから降りると着替えを始めた。
また次の依頼を探そうと。
依頼を請け負えば、誰かの笑顔が見れる。
自分の能力を必要としてくれる人が居ることはとても幸せな事だった。
そしてリーラは身支度を調えると宿を後にした。
リーラがやってきたのは白山羊亭。
ここにはたくさんの依頼が毎日飛び込んでくる。店の壁に貼られた依頼書の数々は初めて訪れた時、リーラを驚かせた。
昨日終えた依頼もここで見つけたものだった。
扉を開けると、ウェイトレスのルディアの明るい声が飛んでくる。
「いらっしゃいませ〜！」
にっこりとルディアに微笑んでリーラは依頼書の前へと向かう。銀色の髪が風に揺れた。
まだ早い時間だからなのか店内には客が少ない。
ルディアはリーラへと声を掛けてきた。
「こんにちは。今日は依頼を探しに？」
「はい。昨日依頼を終えたので新しい依頼をと‥‥」
「そうなんですね。お疲れ様でした。‥‥えっとどういった依頼をお探しですか？」
小首を傾げながらルディアがリーラに尋ねると、リーラは自分が治療師であることを告げた。
するとルディアは、パンッ、と軽く両手を合わせて笑顔を浮かべる。
「それだったら今日良い依頼が入ってきましたよ。これです、どうですか？」
ルディアがリーラに見せたのは明後日からの冒険に同行する治療師を募集しているものだった。
「とても良い依頼ですね。そちら、私が応募してもよろしいですか？」
「えぇ、もちろんです。それじゃ、先にこれを‥‥あぁ、そうでした。この依頼主さん後で買い物帰りに寄るって言ってましたから‥‥」
少し待っていて貰っても良いですか？、とルディアは申し訳なさそうに告げた。
「はい、分かりました」
優しい笑みを浮かべてリーラはルディアに頷いてみせる。
ほっとした表情を浮かべたルディアはパタパタと厨房の方へと走っていく。
そして戻ってくると、これサービスです、と腰掛けたリーラの前に琥珀色の飲み物を置いた。
「でも‥‥」
「いいんですよ。飲んでみてください。これ最新作なんです。味見ってことで」
悪戯な表情を浮かべるルディアにつられてリーラは微笑んだ。
「いただきます」
「はい、どうぞ」
こくん、と一口飲んでリーラは、おいしい、と告げる。
「よかったー。ちょっと不安だったんですよ」
喜ぶルディアの視線がリーラの持ち物から少し飛び出していた笛に移った。
「あれ？ 笛を吹かれるんですか？」
「はい。多少は。砂のような音を出すことが出来ます」
「砂？」
「はい。砂の流れるような音」
「？」
なんだかよく分からなかったがルディアはリーラが結構な腕前であるということになんとなく気付いていた。いつもたくさんの冒険者達を相手にしているルディアは思った以上に目が利く。
確かに謙遜してリーラはそう言っていたが、実はかなりの腕前だった。
ルディアはリーラに言う。
「あの‥‥吹いてもらえたら嬉しいなぁって言ったら困ります？」
はっ、と目を開いたリーラだったが、いいえ、と首を振った。
「それでは先ほどの飲み物のお礼に一曲」
「嬉しい。お願いしますっ」
軽く一礼してリーラは笛を唇に当てる。
そしてリーラが息を吹き込むと笛は、普段の白山羊亭とは別の空間に来たのではないかと思わせるほどに幻想的で美しい音色を奏でた。
まばらに居た客達もリーラの笛の音にうっとりとした表情を見せる。
リーラの笛の音には癒しの効果があった。
それは身体だけではなく心の傷さえも癒していくような暖かな音色。
心の奥まで染み込んでそしてゆっくりと浸透していく。
乾いた砂漠に水が、すっ、と染み込んでいくように。
リーラは此処にいる全ての人が健やかであるよう願い笛を奏でる。
今までたくさんの人々を癒し、助け、リーラは旅を続けてきた。
その想いも笛の音には乗せられている。
荒れ果てた心に安らぎを。
傷ついた身体に癒しを。
音が止むと、あちこちから一瞬遅れて拍手がなった。
ルディアもはたと気付いて拍手を送る。
「びっくりしました。なんか此処が別のところになっちゃったみたいで。なんだか身体が軽いような気もするし‥‥本当に素敵でした」
「ありがとうございます」
店のあちこちに浮かんでいたのは笑顔。
それを見てリーラもまた幸せそうな笑みを浮かべると、青い瞳をそっと細めた。
今でもリーラの心の中には生まれ故郷の砂の果てがある。
心に懐かしい砂の音が響いている。
そして今、目の前にはたくさんの笑顔。
リーラはそれら全てを大切にしたい、と心から思った。
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