<東京怪談ノベル(シングル)>


□流転□






穏やかに流れていく日常が酷くいとおしい。



朝。起床と同時に鋭い鎌がオーマを襲った。反射的に飛び上がって避けてから顔を上げると、真っ二つになった寝台の向こうに分かりきった事だったが麗しの妻の顔があった。全身から立ち上る気迫。毒気を含んで尚艶やかな、壮絶な笑顔。また何かしてしまっただろうかと思考の端で考えておそらくは正に問答無用な状況なのだろうと気付く。恐怖に引きつるこめかみを押さえ、オーマはじり、と一歩後退した。今までどれだけの危機を前にしてもここまで臆した事はない。…この妻のこと以外では。
どうすればこの最大のピンチを乗り切れるか――― 思えば馬鹿な事を考えた。年単位で数える事が馬鹿らしくなる位の長い共生の中、一度たりとも彼女に勝てた試しなどないではないか。
戦闘は一瞬の隙が命取りだ。そして自分は、わざとではないがどうしても最愛の妻と娘相手には身体能力が鈍ってしまう。
尋常じゃない唸り声をあげて接近した鎌の柄の部分が、頬に綺麗にクリーンヒットした。
たった一撃で情けなくも寝室の床に沈んだオーマの耳に、次に番犬なんて言ったらこんなもんじゃすまさないよと、未だ不服そうな声音の警告が響く。
最後の力を振り絞って顔を上げると、霞む視界に、開け放たれたドアの向こうで友人がすまなそうに両手を合わせている姿が映った。


目頭の熱くなるような朝食後、バイトに精を出そうと薬草店を訪れると、既に開店している筈の店の前で子供達が数人困ったように辺りを見回していた。彼らはしばしきょろきょろと首を巡らせた後、オーマを見止めて、嬉しそうに駆け寄ってくる。大体が顔見知りの少年達だ。
おっちゃん、おはよう。変声期を迎えていない無邪気な声に、オーマの口元もやわらかく緩む。おう、おはようさん。挨拶をし返してどうかしたのかと問い掛けると、笑っていた子供達の顔に 僅かな影が落ちた。聞けば、一緒に遊んでいた友人が怪我をしてしまったという。
子供達の背後に目をやると、少し離れた場所で大柄な少年の肩を借りて、しょんぼりと立ち尽くしている栗色の髪の子供の姿があった。他の少年達に比べ身形の整っているその少年は見覚えのない子だったが、そういえばこの付近に、最近家族で移住してきた資産家がいると聞いた覚えがある。寂しそうに窓から外界を見てばかりのその家の子と一度遊んでみたいけれど、親が厳しくて中々外に出してもらえないらしいんだと 悔しげにこぼしていたのは、この子達のリーダー格である目の前の黒髪の少年だったと思い出した。
おそらくは協力し合い、抜け出してきたのだろう。そして、遊んでいる際に怪我をした。多少の怪我なら舐めて放っておくという少年達が青ざめるのも無理はない。こと責任感や仲間を思いやる気持ちに長けたこのグループならば尚更だ。
黒髪の少年は勝気な目を不安げに揺らし、オーマを見上げた。薬を買いに来たんだ。ぽつりと零し、軽快な金属音を鳴らして手のひらを開く。握られていたのは、オーマが知る一番安い薬の、半額以下の金だった。
この金でなんとしても薬を買ってやりたいが、相場に届かないのは分かっている。交渉をしようにも店主は怖くてとても話せない。その為、店員である顔見知りのオーマを待っていたらしい。
オーマは怪我をした少年の傍に寄り、傷口を診た。木にでも引っ掛けたのか、肘から手首にかけて浅い裂傷が走っているが、既に水で洗ったらしい清潔な傷は、医学の心得がある自分であっても もう、出来る事は薬を塗ってやるか魔法で癒してやるかしかないように見えた。
治療してやってもよかったが、少年達の店主に対する誤解は解いてやりたかった。薬草店の店主は強面かつ口下手な為余り知られていないが、実は人は好いのだ。
オーマは薄汚れたドアを開け放ち、店主を呼んだ。
呼ぶまでもなく狭い店の中に彼はいた。窓を開けているとはいえ外に比べればやはりいささか薄暗い店内のカウンター内から、のっそりと、オーマと並ぶ巨体が出てくる。
筋骨隆々とした肉体に輝くスキンヘッド、片目の刀傷も相俟って、やはり子供向けの容姿ではない。
怯えたように揃って後退る少年達の中で、黒髪の少年が一歩前へ出た。おっかなびっくり、友人が怪我をした事と薬が必要な事、けれど金がない事を告げ、少年は手を差し出す。
手のひらの上の汗ばんだ硬貨を見て、店主は無表情のままひくりと眉を揺らした。しかし少年は気丈にもこれで売ってくれと頼む。どもりながら、それでもここは退けないと口をへの字に曲げて、威圧感を感じる巨体を見上げた。
しばし見つめあった後、店主は黙って店の棚から一本、クリームの詰まった薬瓶を取り出した。この店で一番高価な、かつ効き目の高い塗り薬だ。知ってはいたがそれを伝えられる事を店主は望んでいなかっただろうから、オーマは黙ってみていた。
ありがとう! 喜びと、薬を買えないかもしれないという危惧への嬉しい裏切りに頬を紅潮させ、少年は大きな手を握り締めると手渡された薬瓶を抱き締め、子供らしいスピードで薬草屋を飛び出していった。
店主は自身の手にあれば一回りも二回りも小さく見える硬貨を黙って見つめていたが、貰ってやんなとオーマは苦笑しながら手を振った。律儀なあの少年の事だ、返してしまえばまた違う方法での恩返しに頭を悩ませてしまうかもしれない。考えが伝わったのかどうかは分からないが、店主は無表情のまま頷くと、店の奥の小さな金属の箱の中に、殊更大事そうに小銭を入れた。
ドアを開けると、黒髪の少年が友人の傷口に薬を塗ってやっていた。腕を取られている少年は申し訳なさそうに肩を落とし謝罪を口にしていたが、出てきたオーマと目が合うといよいよしょんぼりと項垂れてしまった。可哀想に、すいません、と言ったきり、必死に泣くのを堪えて自己への嫌悪に俯いている。
初めて飛び込んだ場所で怪我をし、まだ打ち解けていない、これから打ち解けようとしていた友人達を巻き込んでしまったのだ。さぞかし居心地は悪いだろう。少年達も彼の心の機微が分かるのか、なんと声をかけてやったらよいものかと困り果てたように眉根を寄せていた。
ここは―――出番だ。
お前さんたち、ちょいと口開けて並んでみな。なぁに悪いようにはしやしねぇよ。
突然のオーマの言葉に少年達は不思議そうに首を傾げた。しかし、おそらくは全員が感じていた暗いムードがどうにかなるかもしれない、と、きっちり横一列に整列しおずおずと口を開いた少年達に、動くなよ、と不器用なウインクをひとつ。
軽く握った右拳を差し出して、親指を僅かに折り曲げる。先ずは、右端の子供から。
狙いを定めると、オーマは握り込んだ球体を、親指で弾いた。速過ぎず遅過ぎず、静かなカーブを描いたそれは、見事狙った子供の口に入る。
オーマはそのまま照準を変えると、流れるような動作で見事全員の口に球体を放り込んでやった。
軽い衝撃に目を瞬かせた後、舌先に感じたものの正体に気付いたのか、微笑ましい歓声が湧いた。
オーマはそれを横目で見ながら、最後にあまった一粒を自分の口に放り込んだ。すぅっと爽やかな甘みが口内に広がる。以前仲間の女性から嫌がらせのようにもらった菓子が数個、ポケットの中に入っていたのだ。

親御さんには内緒だぜぇ?

どんな子供だって親にも言えない秘密のひとつやふたつはあるものだ。
口元に人差し指をつけると、子供達は顔を見合わせた後 歯を剥き出して笑い、オーマと同じ仕草をした。
弾ける様な笑顔が幼い面々に浮かんでいる。
可愛らしい秘密ごとを共有した気安さもあるのだろう。
その場ではしゃぐ誰の顔にも、もう暗い影はなかった。


夜。客の入りの少ない店でひとしきり働いて、労働の喜びを噛み締めて辿る帰り道。ウォズに出逢った。
可愛い女の子だった。金髪のおさげを揺らして、殺してはくれないかと困ったように微笑む小さな、――――手。
殺せる訳がない。例えひとがたであろうがなかろうが、ひとつの命に代わりはない。
今日は子供に縁がある一日だ。そう嘯き決して武器を手にしようとしないオーマを、彼女は泣き出しそうな瞳で見つめた。
貴方が、そのつもりなら。
本気を出してもらうしかない。彼女は悲しげにそう言って襲い掛かってきた。

何を思って彼らが死にたいと願い、消滅を望むのかは知らない。
知らないまま生きろと願い、押し付けることは、ある種とても傲慢なのかもしれない。けれど。

どんな命でも、殺しはしない。殺したくない。たとえ甘いと言われようが詰られ様が、それはオーマの信念だった。
力を伴わなければただの世迷言になってしまう。想いを伴わなければただの暴走だ。両立するからこそ信念に変わる。
譲れない考え。適えていける自身であるよう、両足を踏み締める事を己に強いれるオーマは、とても強い。
自分でも変わったと思う。
平穏を求める性質では無かった筈だ。少なくともあの―――ロストソイルの頃は。

『命さえ繋げば沢山の良い事がある』たとえ悲しみの方が、その何倍も多かったとしても、悠久にも等しい永い時間を生きたオーマだからこそ、絵空事にも等しいそれが嘘偽りない真実だと知っている。
生きる喜びを、知って欲しい。共存できれば尚いい。

どんな指先をしていたのか。巧みに操られる鞭で身を削られながらも、決して動きを止める以外の行動には出ようとしなかったオーマの前で、ウォズである彼女は最後には、ただ寂しいのだと泣き伏した。誰にも省みられず、同士にですら分かり合える者はいない。物心がついた頃には既にヴァンサーに追われていて、訳が分からないままに闘っていた。
もう嫌だと泣きじゃくる少女の頭を撫でてやって、気が済むまで、ただひたすらに面白おかしい話をしてやった。やがてそのふっくらした相貌に戸惑いながらも笑みを浮かべるようになった頃、少女はオーマの薄く切り裂かれた胸に指先を滑らせ一言、ごめんなさいと呟いた。



些か帰りが遅くなったが、そんなものはまぁご愛嬌だろう。窓から灯りも洩れている。豪快かつあの情の深い妻は待っていてくれていたようだった。
自宅の薄いドアに手をかけ、…何やら家の中が騒がしい事に気付く。
客が訪れているのだろうか。覚えのある数人の友人の声を聞き止め、その思惑に気付くと、オーマは思わず忍び笑いを漏らした。
そういえば朝も手を合わせて謝っていた事を思い出す。
どんな方法で機嫌を取ってくれるのか楽しみだ。


思い返し、思い描く。妻、娘、心を通わせた仲間達、世界の何処かで今も笑うまだ知らない、これから知るだろう命在る者の笑顔。

さあ、扉を開け。

溢れる笑顔。賑やかに生の歓びを謳う声。それこそ、自身が力を揮う理由になる。

オーマはゆっくりと、指先に力を込めた。
そして押し開けたドアの隙間から滑り出してきた歓声を。自分と違う者達といる事で変わり、そしてこれからも変わり続けていくだろう穏やかな変化を、

「――――おう、帰ったぜ」

今はただ。慈しんでゆく。