<東京怪談ノベル(シングル)>


花夢

 ゆるり、と。
 男はその声に振り向いた。
 視線の先にはベッド。シーツに包まった少女が、男の名を微かに呼んだからだった。
 彼は赤色を持つ瞳をゆっくりと細め、のんびりとした足取りで窓際の一角、そのベッドへと近づく。
 緩やかに頬を撫でる風は、窓のカーテンを柔らかく揺らしていた。そうして。少女が緩慢な動作で男の目を見たのは、彼がベッド脇に立った瞬間だった。
 少女の持つ黒髪が、サラとシーツに舞った。
「オーマ先生?」
 告げられた言葉には戸惑いも迷いもなかった。
「あん? どうしたよ」
 だからオーマも普通に、いつものように医者として返したけれど。
 彼の視線が捉えた少女の顔色はとてもじゃないが良いとは言えないもので。青い――というよりも、不健康に白く透き通ったようなその肌に、僅かに歪んだ己の眉を、そこは知らないフリをしてヒョイと戻した。
 はて、どうしてココにこんな少女がいるのか。
 まだ10歳にも満たないように見える少女の姿に、彼は全く覚えがなかった。
 大体において入院患者なんぞ、この部屋にゃ一人だって居ねぇはずだったが――
「先生、私ダメなんだって」
 しっかりと前を見据えた少女の目は――否、少女と言うにはあまりにも大人びているその瞳には、どこか面白くなさそうな顔をしたオーマが映っている。
 ダメ、というのは、病院内では『死』を意味する言葉だ。
「コラ、辛気臭いこと言ってんじゃねぇよ。病は気からって言葉、知ってっか?」
 ぴ、と立てた人差し指。ちちち、と気取るように横に振ってみせる。
「耳かっぽじってよォおく聞けよ? 病は気からってーのはなァ」
「ダメなんだって」
 気取って立てていた人差し指が情けなく、ピコ、と曲がった。
「……つか、お前誰よ」
「誰でもない」
「名前ぐらいあんだろ」
「ない」
「……あのなぁ」
「ダメなんだって」
 一向に引かない少女に、溜息を一つ。オーマはベッドサイドへと腰掛けた。
 話している内容は穏便なものではなかったが、心地よい風が流れるこの病室内は奇妙に穏やかで、そのミスマッチさに思わず苦笑を漏らしてしまう。
 その光景さえもが、どこか滑稽だ。
「……どーした」
「先生は、封印できるって、聞いたの」
「は?」
「私、ウォズなの」
「――ウォ……なんだって?」
 聞きなれている単語がようやく少女の口から出たというのに、彼はそれを一瞬聞き逃した。それはあまりにも唐突で予想外で、理解するのにはほんの少しだけ準備が必要だったから。
「ウォズなの。だから、私を封印してください」
 けれど、今度こそハッキリとオーマの耳に届いた。
「なんだって?」
 さっきと同じ返答は、ついさっきとはまったく別の意味で少女に返された。






 少女が窓から入ってきたのだろうということは予想がついた。逆に言えば、それだけしか予想がつかなかった。
 今にも意識を失いそうなこの酷い顔色をした少女が、なぜ当然のような表情で居座っているのか。
 自分の『死』を尋ねておきながら、なぜそれがウォズであることに繋がるのか。
 それをどうして自分に伝えるのか。
 確かに自分は医者の傍らでヴァンサーだ。ヴァンサーだが、しかし彼女はどう見ても――

「街の人が言ってたの。大きくて偉そうで顔だけで人をイカク…ってなに? 威嚇できるけど、人懐っこいお医者さんがいるって」
「おーおー、そらどーも。つか、人懐っこいって。人懐っこいってな……」
 微妙に誉められているのか貶されているのかわからない言葉にカクリとうな垂れ、曖昧な返事。そんで? と続きを促した。
「私この前、この街に来たの。そしたら、そのお医者さんはウォズを封印できるって聞いて。だから」
「封印してもらいに来たってか?」
「うん」
 オーマは思わず、がしがしと己の頭を掻き毟った。どうにも要領を得ない。何度尋ねても、最後には『封印してほしい』に戻ってしまう。
 しかしながら、それよりも――というと少女に酷く失礼かもしれないが、気にかかるのは彼女の顔色だ。どうもさっきより血の気が引いているような気がする。喋るその言葉も、どこか息苦しそうに思う。
「嬢ちゃんよ。お前本当にウォズか?」
「どうして」
「どうしてもこうしても――」
「ウォズだよ。だから」
「って言われてもなぁ……とりあえずその話は後……つーか、ちっと休憩して体調を」
「ウォズなの!」
「!」
 彼女の決意にも似た声が、急にオーマの言葉を遮った。ベッドに横になっていた彼女の体は、まるで何かに後ろから蹴りでもされたかのように飛び起きた。真っ白い小さな手が、オーマの襟元を掴んだ。強く。その顔色からは予想も出来ないほどに強く。少女の体にあるまじき力で。
「――ウォズなの」
 大きな瞳から、ぼたり、と少女の手に――ガリガリに痩せた手に零れ落ちた雫は、そのまま手首を流れていく。
「ウォズなの」

 だから、ふういん、して。

 擦れた声がオーマの鼓膜を切なく震わせた。
 ――あぁ。
 あぁ、なるほどな。そういうわけか。だからお前は。
「――そうだな。お前はウォズだ」

 だから、ふういん、しなきゃならん。

 その姿からは想像すらできない、医者としての慈しむような声が部屋の空気を震わせた。
 そうして、少女の顔がまるで花の様に柔らかく緩んで、その瞬間、オーマはただ口端でだけ笑ったのだけど。
「封印して、くれる? 痛くないよね?」
「痛くねぇよ、俺の腕を信じろ」
 頷いて、少女をベッドへと寝かせた。その黒髪を、オーマはゆるりと撫でた。
「――本当はね、ココに来る前に花を見たかったの」
「花?」
「前に住んでいた所にあった花。おかあさんと、見たの」
「どんな花だ?」
「白くって、ぽわぽわしてて、小さくって。でも沢山あったら、綺麗なの。私ね、かえるところは、そこなの」
「帰るところ?」
「うん」
 ――『還る』ところ。
 少女がどういった意味で『かえる』という言葉を使ったのかはオーマには理解できなかったが、それでも少なくとも彼には『還る』と言ったように聞こえた。
 花。
 花のある、白い花のある、その土地へ。還る。少女は、還る――
 オーマは身長に相応しいその掌を緩やかに、空気を掴むように伸ばした。少女の眼前にその掌はあった。
「花、な。俺ぁ、生憎その花がどんなのかまで知らねぇが……」
 オーマの掌から、ハラリと白い花びらが落ちた。
 ハラリ、ハラリ、ハラリ。
 次々と落ちては窓から吹き込む緩やかな風が部屋中へと花びらを躍らせた。
 もっとだ。もっと、沢山。花を、具現化して。
「綺麗……先生、まるで、私、おうちにいるみたい」
 もっと花を具現化して、この少女を少しでも喜ばせて。
「……オイ?」
「――」
 それが。
「オイ」
「――」
 それが――
「…………還ったか」
 ――それが『医者』としての務めだ。

 オーマは少女の顔を見つめた。
 呼吸を忘れた少女は、柔らかく幸せそうな表情を残したまま、花の世界へと永久に旅立っていた。






 数十分後、少女の母親という女性が病院を訪ねてきた。
 焦燥しきったその表情が全てを物語っていて、オーマは彼女を少女の元へと案内をして。涙を零す母親から、ようやくきちんとした事情を聞きだした。それは彼が思っていたのと大差はなかったけれども。
 少女は大病を患っていた。
 今にも消える命の灯を少女は敏感に感じ取って、どうにも恐怖にかられて引っ越したばかりの家から逃げ出したらしい。死を、恐れた。だから。
 だから、自分はウォズだと言い張った。
 そこにオーマの噂を、聞いた。
『死』など望むところではなかったのだ。『封印』ですむならばそれがいいと思ったのだ。本当はただの人間で、ウォズなどではないとしても。それを十二分に知っていたとしても。
 それでもウォズだと言い張って、『死』なんてものからは、そんな言葉からは離れたかったのだ。
 いくら医者であっても、それがどんなに腕のいい医者であっても、どうにもならないことがあるとオーマは知っている。
 そして、少女がウォズでなかったことぐらい、とっくに知っていた。
 あの時点で彼に出来たことは、白い花を少女に捧げることくらいで。それが彼にとっての、『医者』にとっての精一杯で。
 人の『生』と『死』を司る、などと仰々しいことは決して言わないが、こういうことに立ち会う度にオーマは思う。
 医者としても、ヴァンサーとしても。結局、やってることは一緒なのではないかと。
 その生に触れて、その死に触れて、そして見届ける。
 それはきっと、医者であってもヴァンサーであっても変わらないことなのだ――


 オーマはそれなりに一日の仕事をこなすと、家路へと急ぐことにした。
 愛妻の料理も、まぁ今夜くらいはなんとか……なんとか、そのあたりは無理やりに考えないようにはしたが。
 かえる場所は、あるのだから。
 あの少女も、幸せに還っていけただろうか。少しは、還る場所を思って旅立てたのだろうか。 
 眠りに落ちた瞬間の少女の顔を瞼の裏に映して、オーマは少しだけ笑う。幸せそうだった顔を思って、あの行為はきっと無駄ではなかったと思った。


 ――少女がいた病室には、白い花びらがほんの数枚だけ、その存在を残していた。




- 了 -