<東京怪談ノベル(シングル)>


 ―――――先生。おれさ、すきな子が出来たんだよ。
 そう言って少年が笑っていたのは、いつのことだったか。思い出せぬ程遠くもなく、鮮明に蘇る程近くもない。
 だが、只の思い出話にするには、あまりにも―――――


 空  を  う  つ  す  夢


「ふぁア―――――…っぷ。眠ィなぁ、くそ。」
 診察室の窓辺に寄りかかり、情けない程に大口を開けて欠伸をすると、目の前の枝にとまっていた小鳥が応ずるようにピィと鳴いた。灰色をした尾の先を指揮棒のように揺らしながら囀るさまが可愛らしかったので、オーマも真似をしてピィピィ囀ってみる。しかし身の丈2メートルを越えた大男が小鳥を真似てみても可愛らしさは微塵もないようで、後ろからは看護婦たちのくすくす笑いが洩れ聞えてきた。キモーイとか聞えたのもご愛嬌である。
「がァ、ねーむたーいぜえ、畜生め。」
 先刻と変わらぬ悪態を吐きながら、オーマは窓辺に突っ伏す。頬にぽかぽかと、注ぐ陽光があたたかい。
「如何したんですか、先生。こんな天気の良い日、いつもなら鬱陶しいくらい皆に愛を振りまいてるじゃない。」
 笑っていた看護婦の一人が、伏しているオーマの顔の横に飲みものを出して言った。さりげなく失礼なことも言われた気がしたが、反論する元気も今のオーマには無いようである。
「アー……、いや、何だか知らねえけど眠れなくて、な。」
「珍しい。先生にも眠れないときが有るのね、」
「おぉ、……俺のラブ親父パワーが休業中で、皆の衆には迷惑をかけるな。淋しいだろうが、今日は俺の憂いに満ちたこのセンチメンタルダンディな表情に時めくだけに留めておいてくれ。」
「それだけふざけられるんなら大丈夫ですね、眠たがっている暇は御座いませんことよ、オーマ大先生。昼までにこのカルテに目を通しておいて頂けます?」
 慇懃な口調でそう言われ、陽光に温まっていた窓辺に殺人的な量のカルテが置かれる。石化するオーマを尻目に、看護婦たちの楽しげな笑い声が響いた。どうやら、患者職員を交えてのティ・タイムの時間らしい。オーマは賑やかな院内から拗ねた子供のようにひとり外れ、膨大なカルテを読み始めることにした。
(だぁ、眠ィ―――――)
 間断の無い眠気に苛まれながら如何にか頑張っていると、不意に―――――

 ―――――先生。
 声が、きこえた。

「―――――あ?」
 振り返り、頭を巡らしても、周りには誰の影も無く。オーマは思わず立ち上がって、何度も周りを見回した。空耳などではけして無い。確かに耳に響いたのだから―――――
「…………誰だ、」
 呟いても応ずる声は無く、ただ風に揺られた梢がさらさらと音を立てるだけである。鶯色をした広葉樹の葉が一枚、ひらり、とカルテの上に舞い落ちた。木の葉を舞わせただけでは飽き足らぬ悪戯な風は、机の上に置いてあった医学書の頁をぱらぱらと捲り続ける。
 すると、分厚い医学書の中から、一枚の栞が覗いた。小さな青い押し花が貼り付けられた、華奢なデザインの栞。それをきっかけにして、オーマのなかの記憶の蓋が―――――抉じ開けられる。
 思い出すのは、空の青。
 あたたかい風の吹きつける、晩春のことだったように思う。

 ―――――先生。
 おれさ、すきな子が出来たんだよ。すっげぇ可愛いの。
 ……おれのこと、すきになってくんないかなぁ。

 こころの優しい、けれど孤独な少年だった。身寄りも無く友人知人も無く、その短い生涯は隙間無く孤独に塗り潰されていたらしい。そんな中でただひとつ、少年が拠り所としていたのが、ジプシィ―――――ひとつ処に留まることを厭い、久遠に亘って放浪を続ける民たちである。そこには少年と同じく、孤独で寄る辺無い人間たちがあつまっていた。少年はそのジプシィの一団を愛し、慈しみ、何よりの心の支えとしていたのだ。
「朝起きて、お早うって言える家族が欲しい。一緒に、いただきますって旨いものが食える友達が欲しい。また会おうねって、別れを惜しめる恋人が欲しい。ひとりは、ひとりになるのだけは、ものすっげぇ恐いんだ―――――」
 そう言って彼が、自分の弱さを恥じるようにはにかんでいたのを覚えている。
 オーマの居るこの街に彼らの一団がやってきたのは、果たして何時のことだったか。病気に罹った仲間を診て欲しいと言われ、出向いた先に居たのが彼だった。どうやら旅の道すがら性質の悪い野獣に襲われたらしく、熱がある上に、時間をかけての治療を要する深い傷を負っていた。
 仲間のジプシィたちは治療のための期間だけここに留まることにし、街の中で買い物をしたり観光をしたりして愉しんだ。そして少年が生まれ持った体力と治癒力でみるみる回復し、あと一歩と言うところまで来たとき、オーマに、この街で好きな子が出来た、と言ったのだった。
「先生。おれさ、すきな子が出来たんだよ。すっげぇ可愛いの。……おれのこと、すきになってくんないかなぁ。」
「ほう、お前もやるなぁ少年。誰かを愛するのは素晴らしく良いことだ!何処の子だ言ってみろ、うりうり」
 幾分茶化しながら言うと、少年は照れ笑いを浮かべながら、何処の子かは解らないけど、と言う。
「何時も街の真ん中の広場に、ひとりで居るんだ。いつもここにいるね、どうしたの、って声かけてみたらさ……、おれにね、笑いかけてくれたんだよ。」
 笑いかけてね、くれたんだよ。
 少年はもう一度そう言って、笑う。
 仲間以外と関わることなく生きてきた彼には、町娘が笑いかけてくれたという、ただそれだけのことが、この上無くたいせつな宝石なのだろう。無邪気に笑うその純粋さにオーマも嬉しさがこみ上げてきて、良かったな良かったな、と少年の頭を掻き回した。相思相愛になった暁には、おじちゃんにもその若さと甘酸っぱさの溢れるラブオーラをぜひ分けてくれよ少年。先生、ソーシソーアイって何。莫迦野郎め、それはラヴラヴvになるっつー意味だ。頑張ってゲットすんだぜ、ちょっとくらいはアドバイスしてやっから。

 そう言って笑っていた数日後に、少年は死んでしまった。
 事故死だった。

 街のあちこちを走る馬車に轢かれたらしい。頭を酷く打っており、運ばれてきたときには既に息絶えていた。少年を担ぎ込んできた者たちが言うには、豪く急いでいた、と―――――それは、少年が息絶えてなお手のひらに強く握り締めていたものを見ればすぐに解った。
 ちいさな、青い花だった。済んだ空の色にも似た、可愛らしい花だった。
 ……そうか。あの子に、渡してあげたかったんだな。
 ぽつりと呟いたオーマのことばを、理解した人間はいなかった。

 オーマは卓上の、今日の日付を見る。少年が死んだ日、それから丁度十度目の命日だった。
 ―――――先生。
 声が、きこえる。
 オーマが顔を上げて窓の外を見ると、あの少年と同じくらいの年齢の、ひとりの少女がそこに立っていた。臙脂色の瀟洒なドレスを身に纏い、背にかかる金髪が陽光にうつくしく映えている。少年の持っていた花に似た青をもつ硝子球のような瞳は、無表情にこちらを見つめていた。
「……先生。」
 少女はちいさな唇をうごかし、鶯のような伸びやかで綺麗な声をだした。
「あなたが、オーマ先生。」
「……あぁ、」
「ねぇ、先生はお医者さんなんでしょう。わたしを治して欲しいの、」
 少女は幾分たどたどしい口調で、堰を切ったように喋り出した。
「わたしね、あの子を待ってたの。待っててって言うから、待ってたの。それなのにずっと来なくて、でもわたしはあの子をいっぱい待ってたの。はじめは何処にいったのかなぁって思ってただけだったけど、ずっと待ってたらそのうち―――――」
 少女はいちど口を閉ざし、考え込むような素振りをした後、胸元に手を当てた。
「ここがね、なんか変な感じになってきたの。あの子といたときもどきどきして変だったけど、苦しくなかった。でも今は苦しくて、つらいの。……先生、これは、病気でしょう?痛いの、苦しいの……、もういやなの。」
 オーマは何も言わず、少女の頭を撫でた。オーマの半分ほどしかない、稚い少女。あの少年が恋い慕ったのはこの少女なのだと、ひと目見て確信した。彼が死んでから十年。十年の月日を経ても姿かたちが変わらぬこの少女は―――――間違い無く、オーマの根底にあるものと深く関わりを持つ種族、ウォズであろう。オーマの精神の奥深くが、確かな感覚を以って反応していた。だが恐らく目の前の少女は、自身がウォズだということも、オーマがその対極にいることも、何も知らないのだろう。純粋なひかりを宿した瞳には、一片の曇りも見られぬ。
 オーマは少女に微笑みかけ、そうだな、と言う。
「お嬢ちゃん、大変な病気に罹ったもんだなあ。そりゃ、俺でも治すのは難しい病気だ。……でも安心しろい、オーマ先生がよく効く薬をやるからな。これを貰ったら、お嬢ちゃんはきっと好くなるぜ。」
 心配そうに首を傾げる少女に、手をひらくように言う。おそるおそる差し出した華奢な手のひらに、オーマは青い花の栞を載せてやった。
「これ……?」
「綺麗だろう。あの坊主が、お嬢ちゃんに渡そうとした花だ。」
 きょとんと、オーマを見上げる少女。
「あいつはな、お嬢ちゃんのことすっげぇ好きだったんだぜ。そりゃあもう、お嬢ちゃん以外の何にも見えなくなっちまうぐらいにな。……だから、受け取ってやってくれよ。あの坊主が精一杯お嬢ちゃんを愛した、それは大切な、しるしだ。」
 少女は空のような青い双眸でじっと、栞のなかのちいさな花を見詰める。
「せんせ、い」
 震える声が紡がれたのは、暫く経ってからのこと。
「わたし、むねがくるしい、よ。さっきとは違う……くるしいけど、つらくは、なくて。これは、なあに……?」
「それはな。嬉しい、って言うんだぜ。言ってみろ、ほら。」
 少女はひと粒だけ涙を零し、震える朱い唇で、その言葉を紡ぐ。
「嬉しい。うれしいよ―――――」
 少女は慈しむように愛おしむように、ちいさな青い花を胸に掻き抱いた。ただ、しあわせそうに微笑む。うつくしい笑顔をオーマに向け、ありがとう、と言うと、少女の身体は霞のように、ふ、と消えてしまった。
 オーマは少女と居たその場所に暫く立っていたが、思いついて、町の外れにある小高い岡のほうに目を遣る。春先には緑色のさざ波がたゆたっていたそこに、今は青い花がいちめんに咲き誇っていた。空の澄んだ青色をそのまま写し取ったような、気高くうつくしい色彩―――――


 晩春の清々しい空気が見せてくれた夢のような、あたたかい景色を、オーマはずっと忘れずに居ようと思った。