<東京怪談ノベル(シングル)>


ドルチェ










「……うーん……如何しよう、かなぁ……」

吐息と共に零れ落ちる言葉。困惑したような音色の言葉と、途切れて聞こえる出鱈目(でたらめ)な旋律。微かに喉を震わせて、又違うメロディを紡ぎ出す。でも、此れも違う。

楽譜を左手に、羽根ペンを右手に。座った椅子をぎぃぎぃと揺らしながら、狂歌はくるりと羽根ペンを回した。あの人の誕生日。どんな曲が良いのだろう。出て来るのは御決まりのフレーズばかりで、斬新なものが思い浮かばない。ならばいっそ何度も歌った曲をリメイクして──否、駄目だ。心から喜ばせたい。自分の手で一から作り上げて、心から歌いたい。

「でも、イメージが決まらないんだよねぇ」

楽譜と羽根ペンを持った腕を目の前の机の上に放り出して、大きく溜息を吐く。この曲を作り始めてどれほど悩み、どれほど溜息を吐いた事か──其れでも狂歌は飽きる事無く、熱心に頭の中で旋律を奏で続けていた。
一つ良いのが出来たと思えば唇に乗せて音にして確かめ、駄目だと思えば落胆し、又違う物を組み立て始める。

大好きな人の為に、歌う歌。だったら、喜んで欲しいでしょ?

不毛な自問自答を、何度続けた事か。
あの人が好きな歌は、どんな歌なのだろう──そう思い掛けて、狂歌ははた、と思考を止める。

「……判らないのだったら、あの人自体を歌にしてしまえば良いじゃない」

そうだ。
自分の歌なら、何でも喜んでくれるあの人。あの人がどんな歌を好むのか、俺は知らない。だったら。
あの人自体を、歌にしてしまおう。

大好きな人は、どんな人──? 心に暖かいものがじんわりと広がるのを感じながら、狂歌は少しずつ思い出す。
辛い過去を持っている人。大きなコンプレックスを抱えている人。其れでも人に優しい人。とても、明るい人。自分の中の大好きなあの人のイメージが、少しずつ音という意思を持って動き出す。
ほら、見え始めた。

「最初は、ベトリュープト──其処から、アッファンノーソ」

もの悲しさを表現するのはベトリュープト。其れを敢えて初めに持って来る。静かな曲の幕開け──でも、待ち受けるのは苦しさを表すアッファンノーソ。辛い過去を表す場所。

「苦しさは優しさへと変わる……アカレッツェーヴォレ」

愛撫するような、アカレッツェーヴォレ。其処から歯車は動き出す。傷付き苦しむあの人を、優しく愛撫するのは狂歌だ。さらさらと軽快なリズムで音符を楽譜に綴っていた指が、ふと、止まる。
最後は如何(どう)しようか。愛らしいヘルチヒ? いいや──最後は、違う。

「甘く柔らかな今が、俺は大好きだから」

ぎゅう、と羽根ペンを握り込む。今の俺とあの人の関係を、大事にしたい。壊したくない。だから、最後は。
そろりと羽根ペンを動かす。最後の小節に書き込むのは────

「ドルチェ。……甘く、柔らかに。愛らしく……」

書き上がった楽譜。インクも乾かぬ内に其れを取り上げ、軽く喉を震わせる。紡ぎ出した音は、ゆったりとスローテンポで流れ出す。
もし此処に誰か居れば、拍手をせずには居られなかっただろう程に、美しく綺麗な旋律。恐ろしく整った歌声に連れ出されるように、書き並べられたばかりの音符達が動き出す。

歌い終わって、ふ、と狂歌は息を吐いた。
大好きな人の誕生日に贈る歌。やっと出来上がった。喜んで、くれるのだろうか?

「……笑って、有難うって言ってくれたら。其れってとても素敵な事じゃない?」

自問自答に、そう答える。
そうして狂歌は、そっと其の楽譜にキスをした。喜んで、くれますように。



口付けは、甘く柔らかに。





■■ ドルチェ・了 ■■