<東京怪談ノベル(シングル)>
『それは遠い昔の話‥その4』
【七つの石と風の夢異聞 第四章】
「最近、どうしちまったんだ? ルディアは?」
常連客たちはそう言って首を傾げた。
白山羊亭のルディアと言えば明るい笑顔が自慢の看板娘だ。
なのに、最近はどうもおかしい。
笑顔が見られなくなった、という訳ではない。
が今までの見ているものが楽しくなるような笑顔とは違う、どこか作ったような笑みに見えて常連客たちはそれぞれに、それなりに心配していた。
「なあ、ルディア。何かあったのか?」
そう問いかけると彼女は笑って答える。
「何でもないですよ?」
(「何でもないようには見えねえよなあ‥」)
顔を見合わせる客たちの後ろで、カタン! ドアが静かに開いた。
「こんばんは」
美しい踊り子レピア・浮桜の登場に、ホールは小さく沸いた。客の一人がほらほら、とエールを運んできたルディアの服を引く。
「語り部の姉ちゃんが来たぜ? いつもの話頼んだらどうだ?」
ルディアを元気付けようとしてくれたのだろう。だが、当のルディアの表情はまるで貼り付けた面のように動かなかった。
作り笑いさえ無い。
「いらっしゃい。レピアさん。ご注文は?」
「‥ルディア‥‥。いえ、ワインをお願い」
「はい。少々お待ちください」
苦笑、という言葉で表すにはあまりにも複雑な、そして寂しげな笑みを浮かべて、レピアは厨房に消えるルディアの背中を見送った。
「音楽をお願い。‥‥激しいのがいいわ」
「は、はい!」
吟遊詩人は踊り子のリクエストに答え、荒々しいリズムを奏でた。
激しいステップが白山羊亭のホールに響き渡る。
やがて‥踊り終わったレピアはカウンターに置かれたワインのグラスを取って、ふと横に目をやった。
いつの頃からか放りっぱなしの本が薄く、埃を被っている。ルディアの姿は‥‥見えない。
「どうしたんだい? 姉ちゃん。ルディアとケンカでもしたのかい?」
心配そうに問いかける客に返事の代わりに微笑を返し、レピアは本を取ってページを捲った。
(「あれから、読み返してないのね。無理もないけど‥‥。それとも気づいたのかしら‥」)
真実を‥。
飲み込んだ言葉の奥でレピアは本の向こうにある、遠い何かを見つめる。
お伽噺ではない、飲み干したワインよりも苦く‥そして暗い思い出と史実の向こうにあるものを‥。
薄い影が‥‥ふわり、ふわりと舞っている。
馬車の周囲を巡るその姿は、見るものが見ればまるで幽霊のようにでも見えるのかもしれない。
もちろん、幽霊ではないのだが‥‥それを感じ取れるものはいなかった。
ゆっくりと動く馬車の周囲には三人の冒険者。
彼らの表情は重く、そして暗い。
「‥‥まだ、レピ‥‥いや、お姫さんは出てこないんだな」
馬車を操る戦士に、女魔法使いは黙って首を降った。
「今は、そっとしておいてあげて。私たちにはどうすることも出来ない。彼女自身が振り切るしか無いことだから‥‥」
「そう‥‥ですね。気が付きませんでしたよ。女性の冒険者が背負っている重い鎖を‥‥私自身も」
吟遊詩人の言葉に魔法使いは悲しげに微笑んだ。
「女って、常に対象とされる性だから‥‥。私も旅は出たとき覚悟はしてたわよ」
「してた、って過去形か?」
とは誰も言わなかった。茶化してはいけないことだ。
三人はゆっくりと首をめぐらせて後ろの馬車を見つめた。
馬車の中には‥‥レピアがいる。取り戻した三つの石と、そしてレピアを名乗る、いや名乗っていた一人の王女が‥‥。
彼女にとって眠りは、安息ではなかった。
目を閉じると思い出す。あの悪夢を‥‥
『貴女にあげるわ、最高の快楽と、屈辱と、痛みと‥快感を‥ね♪』
「キャアア!」
飛び起きた彼女は周囲を見回して、深く息をついた。今のは、夢。あれから数日目が覚めるたび繰り返される安堵のため息。
だが‥‥彼女は下腹部に手を置いた。今も身体が忘れてくれないのだ。あの日の悪夢。いや、恐ろしい現実を。
「夢だったら‥‥どんなに良かったか‥‥」
思い返すたびに涙は止まらない。
城に暮らしていた時には、姫と呼ばれ幸せに過ごしていた時にはこんなことになるとは思わなかった。
旅をしていた時にも、どこか物語の主人公になったような気がして、楽しくさえあった。
だが、あの日、自分の甘さを身体に刻まれてしまった。取り返しの付かない形で‥‥。
ふと、馬車の隅に彼女は目が行った。細くしなやかな足と手の石版。
途端、彼女は立ち上がり、一つを手に取った。
「こんな、こんなもののせいで! 私は、私は!!」
石版に向けて、石版を投げつけた。石と石がぶつかり合う鈍い音は、しなかった。
ぶつかろうとする瞬間、石と石は薄っすらと光って、ゆっくりと宙に浮かんで元の通り重なった。
「ただの石の癖に生意気よ! 壊れなさい。壊れなさいってば‥‥! 壊れてよ。お願い。私の為に‥‥」
足蹴にされ、叩かれ、それでも髪一筋の傷さえ付かず石はしなやかな美しさを保っていた。
「こんなことなら‥‥旅に出るんじゃなかった‥‥」
心のどこかが、それは逆恨みだ、と告げる。
だが、そんな理性の声は溢れ出る悲しみと怒り、憎しみと悔しさの前では簡単にかき消されてしまう。
白馬の王子を夢見ていた訳ではない。それでも持ち続けていた少女の憧れは今はもう遠い。
彼女は蹲って毛布に顔をつけて泣いた。
暫くして、馬車の外から遠慮がちな声が聞こえてくる、その時まで。
「レ‥‥いやお姫さん、悪いが‥‥、次の目的地が近い。‥‥行くぞ」
自分を呼ぶ声に、彼女は立ち上がって外に出た。毛布は無造作に投げ出され、石に足が当たる。
毛布も石も、自分の周りをふわりと飛ぶ影も、彼女には見ることができなかった。
「ったく、どこまで続くんだ。この地下迷宮は!」
何十匹目かの襲ってきたモンスターを切り伏せた戦士は思わず舌を打った。
地の精霊が住むという場所は地下に深く埋もれた古い遺跡の中にあった。
いくつものトラップ、いくつもの仕掛けがパーティを襲い、その都度なんとか四人で切り抜けていた。
だが、そろそろ地下も五階分近く降りてきた。歴戦の戦士である彼らにも疲労が見え始めてきた‥‥その時だ。
「キャアア!!!」
絹を裂くような悲鳴が冒険者達の耳に響いた。同時に足元に開いた黒い穴に仲間が吸い込まれていくのが見える。
「レピア!」「お姫さん!」
手を差し伸べて彼らは助けようとした。しかし、それは叶わなかった。
時間にして瞬きする間。彼らも足元に生まれた闇に吸い込まれたからだ。
ほんの一瞬の隙。彼らはパーティ、から一人一人の冒険者となって、底知れぬ闇に落ちていった。
目を覚ました、という言葉は正確ではなかった。
彼女の目はその時、完全に見開いていたからだ。
意識が覚醒し、彼女が周囲を認識した時。彼女は自分自身の心が身体から離れているのを感じていた。
「美しい‥‥ですわね。魔王様は殺せと仰せでしたが‥‥こうしておけば何もできませんから、きっとお許しくださいますわよね」
そう言うと、目の前の存在が彼女を、彼女の肉体を舐めるように見つめる。止めることはできない。
何故なら見つめられている彼女の肉体は、一糸纏わぬ全裸のまま、石化されていたからだ。
指の一本、髪の一筋さえ、思うようにはならない。
(「何をしようとしているの? 私を‥‥返して!」)
心は必死に抵抗する。だが、身体は抗うことなく目の前の存在に弄られて‥‥。
「もう、貴女は私のものですわ‥‥さあ、いらっしゃい‥‥地の精霊より永遠の祝福を‥‥」
冷たい石のキスを地の精霊は思う様味わっている。感覚の無い身体がおぞましさに震える。
(「誰か、誰か助けて!!」)
誰にも聞こえるはずの無いそれは叫びだった。だが、返事が返った。
「レピアを離せ!」
「ぐわあっ!!」
炎の魔法が、精霊の背を焼いた。続く風の刃が存在の腕を切り落とす。
そして‥‥一刀両断。背中に走った一文字の熱を感じることなく、精霊は倒れ、そして消えた。
「レピア‥‥、しっかりしろ!」
ゆっくりと、血の気を帯びていく身体に引き寄せられるように戻っていく途中、彼女の心は見た。
彼らを守るように側に付き、ここへと導いた存在を‥‥
(「あ、あれは‥‥」)
彼女は目を開けた。今度は身体の瞼がしっかりと開かれる。
「大丈夫か? 怪我は無いか?」
吟遊詩人が素早く裸の彼女の肩にマントをかける。それで身体を覆うとはい。と彼女は頷いた。
「誰かに呼ばれるように感じてここについたの。間に合って良かったわ」
「ああ、もうあんなことはゴメンだからな」
「ありがとう‥‥本当に怖かったわ」
気遣ってくれる仲間達。
ワザと甘えるように彼女は縋った。
少しでも、引き離したかった。確認したかったのだ。
誰に‥‥何を?
自分の心の中に生まれた闇を彼女は感じていた。
「フフフ‥‥、いい感じね。なら‥‥もう少し後押ししてあげようかしら‥‥」
突然現れた気配に、冒険者達は身構えた。
視線の先には宙に浮かぶ精霊が‥‥。
「私たちの仲間を次々と倒してくれてありがとう。お礼に私からの祝福をあげるわ」
「「「「えっ?」」」」
彼らの周囲を黒い魔の影が取り巻いた。闇の蛇のように身体に喰いこんでくる。
それは、呪い。
冒険者達は強い意志で呪いを振り払った。ただ一人を除いて‥‥。
「レピア!」
魔の力が吸い込まれる寸前、それを引き剥がそうと不思議な白い影が周囲を飛んだ。だが‥‥
「や、止めて!」
弾き飛ばされた影が消える頃、呪いは完全に彼女を取り込んで完成した。
まるで、彼女自身が招きいれたように闇が彼女に吸い込まれて、消える。
バサッ!
崩れ落ちる彼女を魔法使いは抱きとめた。
「お前、一体何をしたんだ?」
剣を構えた剣士にその精霊は、魔の精霊は嬉しそうに‥‥教えてあげる。と笑った。
「呪いをプレゼントしたの。彼女は今後月と、星の輝きを知ることは無いでしょう」
「貴様!」
投げられた剣は空を切って壁に突き刺さった。
もう、精霊の姿はどこにも見えない。
4つめの石版を手に入れた。
一つ一つ、目的に近づいている。だが‥‥
苦しげに目を閉じた少女を見つめ、彼は唇を噛んだ。
喜ぶことはまだ出来そうになかった。
(「ルディアに聞かせたら、また、泣いちゃうわね。彼女は太陽の下以外では石化する呪いをかけられた。なんて‥‥」)
あの後、彼女は『レピア』を前にも増して憎ようになった。いや恨むと言った方がいいかもしれない。
呪いをかけられた絶望は、今の自分には良く解る。
ただ、レピアにとって、彼女が自分自身を憎しみや苦しみで縛るのが、それを見ることしかできなかったのが何よりも辛かった。
冒険は、常に命の危険と隣り合わせ。時に死よりも辛い苦しみを味わうこともある。
時に、平和に暮らす人々の日常が羨ましいほどに。
でも、それでも人は旅を続ける。
レピアはルディアの残した本の最終ページを捲った。そこには幸せに微笑む冒険者達がいる。
敵と、運命と、そして何より自分自身と戦いながら人は旅を続けるのだ。
それぞれのハッピーエンドを目指して‥‥。
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