<東京怪談ノベル(シングル)>
蒼きソナタ
賑やかな白山羊亭から、緩やかなメロディラインのピアノが聞こえてくる。
一瞬、喧騒に満ち溢れていた夜の白山羊亭は、其のピアノにぴたりと音を止める。客達の誰もが、店の奥で優雅にピアノを弾く、一人の男に見入っていた。否、魅入っていたと言うべきか。
止まらないメロディ。弾き続けられる其の音は、時には涙すら誘う。水を打ったように静まり返った店の中、カウンターに凭(もた)れ掛かりながら、店の看板娘・ルディアも其の曲に聞き入っていた。
(……なんて最初と違うのだろう、この人は)
男の横顔を見詰めながら、取り止めも無くそんなことを思う。最初──この人は、どんな顔をして入ってきたのだったっけ。優しい音色に耳を擽(くすぐ)られながら、ルディアは一人、そっと記憶の淵へと没んで行く。男──ルーン・ルンが初めて店に来た日の事を、ゆっくりと思い出しながら。
「一曲如何?」
或る夜の事だった。白山羊亭にふらりと入ってきたのは蒼い男。荷物も何も持たない其の姿に、ルディアは小さく首を傾げる。御客さんかしら。見た事の無い人だけれど。
男はルディアの姿を見つけると、ホールに溢れ返る人を縫って其の前に立ち、そう聞いた。一曲如何。其の言葉に、ああ、とルディアは理解する。旅の流しの楽師さんかしら? なら、何か弾いて頂こうかしら。
「ピアノは出来ますか?生憎、楽器は其れしか無くって」
ルディアはホールの奥、ライトに照らされて寂しく佇んでいる黒塗りのピアノを指差した。光に反射して、黒いコーティングがきらきらと眩しい。男はルディアの指差したピアノを認めると、緩く微笑んで頷いた。
「勿論。其れじゃア、失礼しマス」
癖の在る喋り方で愛想良くそう答えると、ルディアに歩み寄ったときと同じように、すいすいと人込みを掻き分けてピアノへと近寄った。そうして優雅な動きで椅子に腰掛け、蓋を開いて指を鍵盤に添える。白と黒のモノトーンの鍵盤に、白く長い指が映えた。
楽譜も無いのに、弾けるのかしら。給仕をしながら、ルディアはぼんやりとそう思う。ルディアの視線の先で、男は楽譜を広げる仕草も無く、ゆっくりと指を動かし始めた。
軽やかなメロディが、ピアノの無骨な黒いボディから流れ出す。最初は喧騒に紛れて微かだった其の音も、客が次々と口を噤む事によって、次第に強く、大きく聞こえるようになってきた。人を黙らせる音──なんて綺麗で、なんてしなやかな。
「……凄い」
ぽつり、とルディアの唇から言葉が零れ落ちる。其の手にも、客に差し出されようとしたビールのジョッキが握られたままだ。だが、誰も気にしない。
ホールで好きなように飲食を楽しんでいた人々の視線は、先ほどまで寂しく佇むだけだったピアノへと集中していた。まるで月光に照らされる花のように──花開く音楽。言葉にもなりえそうな程の重み。重厚な音、軽やかなメロディライン。弾いているのは聞き慣れた普通の曲だと言うのに、如何した事だろう。
一曲が終わったらしい。プレリュードからがらりと変わった曲は、陽気なダンスに似合いそうな曲だ。又素晴らしい演奏が耳を打つ。耳だけではない──心すらも、打つ。そうして男は、数曲に渡って様々な曲を演奏し続けた。
曲は段々と緩やかに、そして伸びやかに優雅に──男が数曲の後弾き始めたのは、ワルツだった。むさ苦しい冒険者達で埋め尽くされた室内が、一気に華やいだ雰囲気になる。スポットライトの中、男は此れを弾き終えて賞賛を浴びるのだろう。誰もがそう思っていた、のに。
男はワルツを奏でる指を、ぴたりと止めた。中途半端に切られた曲を気にすることもなく、男は鍵盤に指を置いたまま、ぼんやりと天井を見上げた。
「……?」
一気に現実に引き戻されたような気がして、ルディアは小さく首を傾げる。如何して曲を止めてしまうのかしら。間違ったところなど、無かったように思えるのに──他の冒険者達も、一様にそう思っていた事だろう。誰もが訝しんで男を見詰め、男はぼんやりと天井を見上げたままだ。
ホールが又俄(にわか)にざわめき始めたとき、男は小さく息を吐いて、酷くゆっくりと指を動かし始めた。
瞬間、ホールがまたしんとなる。弾き始めたのはソナタだった。だが今迄弾いていたような、誰もが知っているようなポピュラーな曲では無い。斬新な音楽──空間を切り裂くような、胸を掻き毟るような。だけど乾いた心に酷く甘い──この曲は、何?
「…………ピアノソナタ『狂愛』……」
冒険者の口から、ぽろりと言葉が落ちた。其の言葉に、ホールは一瞬ざわめく。誰が作ったか判らない、作者不明のピアノソナタ『狂愛』。其れは冒険者達の間でも、良く噂話に登る一品だった。音楽を嗜んでいる冒険者なら、尚の事だ。
作者不明のピアノソナタ『狂愛』──其れは、弾き手を選ぶ曲。何人もの音楽家がこのソナタを弾こうとして、そして曲に「選ばれ」ずに非業の死を遂げて行った。其れは神曲、其れとも魔曲。
白山羊亭のホールの時間が凍り付く──初めて聞く其の曲。掻き毟る程の乾きと飢え。狂おしい程の慟哭と、満たし溢れんばかりの慈しみや何か。そんなもので心が埋め尽くされていく。
ふと見ると、弾き手の男は泣いていた。弾きながら、そして口許に僅かな微笑を湛えながら、静かに静かに泣いていた。
「──……貴方は?」
曲が終わってもしんとしたままのホールから、ルディアが歩み出る。項垂れたように椅子に腰掛け泣く男に、ルディアはそう問うた。
「……ルーン・ルン」
ルディアは其の微笑んだ泣き顔を見詰めながら、小さく首を傾げる。
「此処で──ピアノを、弾きませんか?」
白山羊亭は、今日も一人の男のピアノに聞き惚れる。
男の名は──ルーン・ルン。
■■ 蒼きソナタ・了 ■■
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