<東京怪談ノベル(シングル)>
■■医者と愚者の天秤■■
不思議と、裏切られたのだとは思わなかった。
強い気持ちが必要だった。それが身を守る盾となる。
憎しみが一番強い。そう教えたのは自分だった。
裏切ったのではない。
彼はそういう愛し方をしただけだ。
□□□□
「またオマエか」
ベッドに横たわった青年の、怨嗟に満ちたまなざしを、医師は平然と受け止めた。同じ台詞も二桁を越えるとさすがになんの感慨もない。苦悶のよぎる青ざめた顔を、見返す笑顔も慣れたものだ。
「また俺様だ青年よ。腹の傷はとりあえずバッチリ縫っといた。いまどき切腹なんて流行らんと思わないか。今年の主流は腹黒で、ベーシックは親父だと思わないか。ついでにいうなら気分はどうだ」
「………」
誰が今年の流行を聞いている。つか全面的に間違ってるから。それはアナタの好みだから。そして『気分』はついでかよ。しかも一番最後?等々。
相応のツッコミが一切入らないのは、病院全体丸ごとまとめて同じ穴の狢だからだ。
医師の傍らで点滴を取りかえる看護師の、むくつけき上腕二頭筋が光る。
「………なにを企んでいる」
シュヴァルツ総合病院病院長の奇異な言動に、青年は苛立ちを隠せない。脈をとろうと伸ばされる手を、乱暴に押しのけようとして、指先一つ自由にならない体調に気づく。当然だ。数刻前まで生死の境を彷徨っていたのだから。
麻酔による浮遊感と離人感を意志の力で封じ込め、食いしばった歯の隙間から、かすれて乾いた声を出す。両の瞳がぎらぎらとして、別の生き物のように見える。
「なぜ…生かす」
「医者だからな」
即答した医師に、病床の青年は笑顔を見せた。嘲笑だった。頼りない腹筋で喉を震わせ、瞳の会話で医師に告げる。
疑惑と疑念と焦燥と侮蔑と。もしかしたら懇願を。
「掃除屋め………!!」
昏倒の寸前に吐き捨てられた言葉を、気のいい看護師が聞きとがめた。
「オーマさん。掃除屋って……」
「ああまったく、掃除屋さんに失礼だよなあ?」
「いえそうでなく………」
絶妙にトンチンカンな病院長の台詞に、マッスルボディは床に沈んだ。
医師は笑って、自らの首の後ろを手のひらで覆う。わずかに温度を失った指先で、軽く揉みほぐすと苦笑した。緊張している。言葉に触発される過去がある。喚起される感触がある。血塗れたてのひら。抱えきれない罪咎。指をすり抜ける儚いもの。自分がまぎれもなく愚者である、ということ。たが間違いなく、医師である、ということも。
「企んでるのはおまえだろ?」
自殺幇助請負業など開業した覚えはない。
「まったく失礼な話だぜ」
掃除屋と医者と。友と人と生きものとヴァンサーと。―――それからウォズに。
■■■■
「懐かしい者も愛しい者もすべて海から来る」と。歌う人の少女に身の程を知らぬ恋をした。
人でない身で。海に漂う異形風情が。屠らなければ封印される分際で。
―――ウォズ ノ クセニ。
初めて。人と違う浅ましい己の姿を嫌悪した。
歌声が大人のそれになり、容姿は益々美しく、笑顔の優しい彼女は当然のように人の青年に恋をして、必然のように愛された。彼らは傍目にもむつまじい夫婦だった。
波間に漂う異形の瞳を知らぬまま。その妬心を知らぬまま。届かない現実を見せつけ続ける美しくて残酷な、互いを片翼とする人の男女。
―――ダケド ソレデモ。
元より性は狂に通ずる。強欲な本性のまますべてを破砕し蹂躙し強奪し、その後正気のカケラも残さず異端の断罪者に滅せられる幸運な同族さえいるというのに。なぜ人間の女の憂い顔一つがこんなにも気にかかる。殺戮の衝動は瞬時になりをひそめ、彼女が涙でも流そうものなら全身に不可解な痛みが走った。だから彼女が人としての生を全うするまで、深海の果てで見守る覚悟をしたというのに。
―――奪ワナイ。喰ラワナイ。殺サナイ。キミガ笑ッテクレレバイイ。
嘘ではない。嘘ではないのだ。嘘ではなかったのに。
たった一度の嵐が、総てを崩壊させたのだ。
潮流に巻き込まれた青年を、海中に発見した異形はこの僥倖に戸惑った。人のものではあり得ない節の長い鱗帯びた指が波にもまれる青年の肩にかかり、ゆっくりと、力無い首にかかる。弱々しい血潮の流れに余命を知った。瞬時に思い浮かぶ彼女の泣き顔。ウォズの特性を顕現させ、岸辺に急げばあるいは助かる。それは一番優しい内心だ。一番儚い感慨でもあったけれども。相克する感情。激しい混乱と葛藤に、波さえ怯えて身を引いた。
「キミが幸せならばいい。だから彼の躰は返すよ。姿だけでも愛せるだろう?………例え魂が別物でも」
異形は慟哭に似た哄笑をする。浅ましいのは姿形ではなく心根なのだと自覚する。腕の中の瀕死の青年を一瞥した。躰は海水と同じ温度。深い昏睡。長い間をあけて不格好に響く心音―――今なら―――。
青年は奇跡の生還を果たし、妻の安堵の抱擁と愛情の口づけを受けた。海から来た青年は妻の頬を優しく指でなぞり、潮の味のする涙に唇を寄せた。「ごめん」と呟いた彼の真意に気づく者は一人として存在せず。人の姿と愛を盗んだウォズの幸福とそれに勝る苦しみは、その瞬間から始まった。
ただ愛情のこもった視線を望んだだけ。魂までは愛されない。望むべくもない。知っていて奪った。愛する者の愛する者を。
なのに何故。
今これほどに苦しいのだろう。
贖罪の刃が振り下ろされるのを待っていた。そうして見つけた。最強の断罪者。異端の枠さえ踏み越える異端。大きすぎる力は嫌悪の対象にすらなると言う。封印する者。ヴァンサー。
「―――オーマ・シュヴァルツ」
それは運命の天秤を支配する者の名。
失う者が夫ではなくウォズならば、彼女はきっと嘆かないから。
□□□□
「たとえば好きだと言って、私もと返してもらう喜びを知っているか青年。ラブマッスルボディパワーをもってしても、それは奇跡に近いんだ。笑うのか青年。ラブ親父を笑う者はラブ親父に泣くんだぜ?」
オーマは呑気に言い放つ。
薄暗い森に夕闇が迫り、夕日はしたたるように赤い。長く灰色にたなびいた雲が、赤と紫に照り返って地上を染める。揺れる梢と飛び立つ鳥。近くの低木から小動物が一目散に逃げていく。あり得ぬ潮の匂いと海の気配に脅えるのだ。
青年の姿を持つウォズは、ぬめり、と光る目で笑った。足もとには、病院長自らが苦労して採集した薬草の類が踏みにじられている。
「ああ知っているよ封印者。その苦痛も」
「だったら自傷めいた怪我を繰り返すのはやめておけ。他人のモノでもイカす女が泣くのを見るのは勘弁だ。ズッキュン親父ハートがうずくんだ。それにおまえの本意でもないだろう?」
憤慨半分、呆れ半分の口調で、オーマは諫める。ウォズを眼前にしても無警戒。いっそ面倒臭そうですらある。巨木に行儀悪く寄りかかり、長い四肢を思い切り伸ばして空手を頭の後ろで組む。体躯に似合いのおおらかな動作だ。赤い瞳に邪気がない。子供の天真爛漫と、大人の経験と獣の知恵とを併せ持つ、彼は不思議な男だった。
「だから封印すればいいと言っている。好機は幾度もあったろう?私は人間に有害だ。奪って騙して今もまだ、女の人生を蹂躙している。これ以上の理由が必要か?貴様らの正義を行えばいい」
赤茶色の前髪の下、動かないウォズの眼に、オーマはベタ凪の海を連想する。静かで動かず希望を受け入れず、前に進むのを拒んでいる。睨み合っている今でさえ、視線が合っている気がしないのだ。
「俺らの正義にゃ、ご婦人から長年連れ添った道連れを奪うってのはねぇんだよ」
「夫はウォズだと教えてやればいい。とっくに奪われていたのだと。『海から来た』と話せば、彼女はいつから自分が欺かれていたかを知る。憎しみが、彼女を生かす。私は―――」
「封印されて、めでたくヤリ逃げ―――させるか甘ったれの馬鹿ガキが!!」
冷徹に、オーマは吐き捨てた。抑えた声音が怒りの深さを物語る。瞳が獣の仕草で細められ、湛える真紅が深くなる。過ぎる覇気に打たれたように、ウォズは動作を停止した。
「苦痛、と言ったな。だがそれを取り除くことはできない。―――封印しても。封印されても」
「………っ」
存在ごと、掌握される。
呼吸もままならず、皮膚は冷えきり、逆に絡んだ視線は眼球ごと燃えるようだ。格の違い。異形は異形ゆえに実感する。はるか高みに存在する敵対者。その絶対差。消滅の予感に背筋が震える。恐怖と歓喜。
―――だが、共鳴するこの痛みは、誰のものだというのだろう?
一歩分の歩幅を開けて、ヴァンサーはウォズに相対した。
「裁いてはやれない。………ごめんな」
―――痛ミ、ガ。
「騙すのは辛いだろう。信頼は苦しいだろう。泣かれれば痛くて笑顔を得られれば失う未来に恐怖する。彼女の瞳に映る自分の姿を壊したくてとてもできなくて。犯した罪は贖い難く、人より長く生きる種だからこそ救いがない。それでも―――」
オーマは静かに宣告した。
「それでも生きろ」
「………」
「痛みと罪にまみれて、汚れた手で彼女を守って最後まで。死ぬまで生きろ」
ウォズは言葉を失った。
数瞬後、詰めていた息を細く吐き出し、オーマを見つめて苦笑う。
「ヴァンサーとは……」
これほど残酷なものなのか。これほど無慈悲なものなのか。これほどまでに強力で。だけど同じだけ無力な。これではまるで。
「ウォズと同じじゃないか。オーマ・シュヴァルツ」
泣き笑いの表情で、自殺志願のウォズが呟く。
オーマは否定も肯定もせず、わざとらしく凶暴に笑って、邪険に手を振ってみせる。
「わかったらどけどけ。噛みつくぜ?男の汗と涙と努力の結晶を足蹴にするとはゴット親父のバチが当たるぞ茶色いハートマークで窒息死。おまえ水属性だからかなりヤベェ。ゆえに拾えエネルギッシュかつパワフルに。ラブリーキュートな薬草ちゃんを」
意味不明ながらも強烈に不吉な予言に促されて、青年も腰を屈める。
「封印しては、もらえないんだな」
狂おしさの抜け落ちた、確認の口調で、青年が問う。
「できねぇな」
「救われないんだな」
「そうだな」
「逃げられないんだな」
「そうだな」
「許されないんだな」
「それはあのご婦人に聞いてみるといいぜ?」
樹間の暗がりを、オーマは指さす。木の下闇に隠れるように、小柄な老婦人が立っていた。
「おまえが最初に運び込まれたときに、あのご婦人が言ったんだ。主人を助けて欲しいと。『こちらには、人でない人を診るお医者様はいませんか』ってな。女運だけは、俺と並ぶな青年よ」
ヴァンサーはウォズの肩を叩く。それから細かく震える背中を、軽い力で押し出した。
「生きていけ―――二人で」
一人じゃないなら。
逃げられなくても。救われなくても。許されなくても。
「ほらだから、親父の愛に泣いただろ?」
憎しみよりも強いものを、抱えて泣いたその瞬間に。
人もウォズもヴァンサーも、誰一人として例外はなく。
誰かの『愛しい者』になるのだ。
それが多分、生きる、ということ。
-END-
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