<東京怪談ノベル(シングル)>


揺籃歌

 オーマ・シュヴァルツの目の前には、何故か舌が三枚に増えてしまった患者がいた。本人にとっては非常事態なのだろうが、限りなく阿呆らしい話である。それに、こういう事態はひょんなことがきっかけで解決するものなのだ。例えば喧嘩していた相手と仲直りした、とか。
 しかし、医者であるオーマは、カルテを書かなくてはならない。
 「病名」の欄になんと記すべきか。
 オーマが頭を抱えたそのときである。診察室の扉が乱暴に開け放たれた。
 取り押さえようとする数人の看護婦を、戸口に立った子供はいとも簡単にはねのけた。
 何事かと視線をあげたオーマの目に映ったのは、新緑を思わせる双眸。継ぎだらけの外套の奥で、焦燥の色を映している。
 子供は肩で息をしながら部屋に踏み込んできた。その足跡を辿るように、緑色の粘液が追従する。
 外套の胸元からは、奇妙に湾曲した棒が突き出している。陽光を弾いて純白に煌くそれは獣の牙のようにも見えた。
 かなりの深手にもかかわらず、子供は全く意に介していないようである。
 それでも、かなりの重症に見えることに変わりはない。
 ここは病院だ。急患が最優先されるのは当然すぎる常識である。
「薬出しますから受付で処方箋もらってください」
 オーマは目の前の患者に告げた。彼の瞳は言外に「帰れ」と言っている。珍しくも丁寧な口調に恐れをなしたのか、診療を中断されたにもかかわらず、患者はそそくさと退散した。
 舌が三枚あるからといって命に関わることはない。
 とはいえ、乱入してきた子供にも、命の別状なんてこれっぽっちもないのだが。
 厄介払いに成功したオーマは、上機嫌で乱入してきた子供を見やる。
「とりあえず、それ抜いとけ。善良なる一般市民の皆様に迷惑だ」
 子供は怪訝そうにオーマを見つめたが、素直に頷いた。戸惑うこともなく、自分の体を貫通した牙を引き抜く。
 子供が床に置くと、それは溶けるようにして消えた。穴のあいた外套の向こうに見える肌に、傷は無い。
「それで、何の用だ・・・・・・」
 一見するとただの子供だが、そうでないことは明白だった。
「妹を助けてほしい」
「妹?」
 反復したオーマに、子供はこくりと頷いた。
「そう、変なお兄さんが来て、お母さん連れてっちゃった。それで暴れてる。僕じゃ止められない」
 その結果があの牙らしい。
「お金ならある」
 そう言って、子供は握っていた手を開いた。
 じわじわと、まるで空気を凝縮するかのように、何もなかった掌に数枚の金貨が現れた。
「あのな」
 オーマは思わず溜息をついた。具現化された金を受け取ったところで使えるわけがない。
「おまえ、それで買い物してるのか?」
「うん、でも同じお店にもう一回行くと追い出されちゃうんだ」
 なんでだろう、と子供は首を傾げる。
 オーマは頭を抱えた。厄介払いには成功したが、どうやら自分は更に面倒な奴と関わってしまったようだ。
 この子供は、混血だ。それも人間とウォズの。珍しいことだが、ありえない話ではない。いなくなった母親がおそらくウォズなのだろう。どこかのヴァンサーに封印されたか。
「何で俺のところに来た? 」
「おじさん、お母さんと同じ匂いがするから」
 おじさんと呼ばれるのは別に構わない。
 問題はそこではない。
 確かにウォズとヴァンサーは、非常に近しい存在だ。
 しかし、ウォズと同じ匂いがするというのは一体どういうことなのだろうか。
 とりとめなく溢れてくる思考を遮るように、オーマは首を振る。
 窓を開けると、子供を促して診察室をあとにした。



 案内された先に、家はなかった。
 倒壊した廃墟の瓦礫の上を、何かが這ったような跡がある。
 その幅は、オーマの身長よりもわずかに短い程度。かなり図体のでかい奴だ。
「妹は人間だ」
 唐突に子供が口を開いた。 
「どういうことだ?」
「僕は半分だったんだ。でも、妹は人間。それなのに、お母さんの力だけ受け継いじゃった。だから自分では抑えきれない」
 確かに人間の身体で操れる能力ではない。
 その時、嘆息したオーマの頭上に影がさした。
 嫌な予感を覚えつつ、影の主に視線をめぐらす。
 巨大な蛇。
 褐色の鱗は所々剥がれ落ちている。案の定、口元からは牙が一本欠けていた。ぬらぬらと光るその体躯から、半透明の粘液が迸る。
 蒼いそれは、血なのだろうか。
 人間とは、おおよそかけ離れた姿だ。
 しかし、オーマはのたうつ巨体の奥に、一瞬小さな影を見た気がした。そこに宿る魂と気配は、明らかに人間のもの。
「で、俺にどうしろと?」
 どんな姿でも相手は人だ。ウォズの力に呑まれているだけ。封印するわけにはいかない。
「これ」
 子供が一枚の羊皮紙を差し出した。かなり古いものだ。破らないよう、そっと受け取るとオーマはそれに目を落とす。損傷が激しく、文字も薄れているが読めないことはなさそうだ。
「お母さんにしか読めなかった。でも、おじさんだったら・・・」
 同じ匂いがする。そう言ったときと、同じ表情をしていた。
 羊皮紙に記されている文字は、この世界のものではない。オーマの故郷で生まれた言葉。しかも、ロストソイルの後に廃れて失せた古代文字だ。
「こんなものが、未だに残っていたとはな・・・・・」
 オーマは、半ば呆れたように呟く。
 久しく目にしていなかったが、解読する自信はあった。
「うん・・・ああ・・・なるほど・・・・・・って」
 文章を追っていたオーマの瞳が、宙を泳ぐ。
「これを俺に? 」
 念を押すと、子供は神妙な面持ちで頷いた。
「歌えっていうのかよ」
 揺籃歌。
 いわゆる「子守唄」というやつだ。
 同じものではないが、娘が生まれた頃には、歌って聞かせたこともある。
 すると、眠っていた娘は泣き出すわ、台所にいた妻は卒倒するわで、大惨事となったのだ。さすがのオーマも、近所から皿や包丁が飛んでくるに至っては、かなり落ち込んだものだ。
「本当にこんなんでおさまるのか? 」
 半分投げやりに問う。
「泣いてるだけだから」
 木々は薙ぎ倒され、下草は根こそぎ攫われている。巨大な尾に払われた土塊が、オーマの頬を打った。無機質な蛇の瞳が、ひどく寂しげに揺れている。薄い膜に覆われたような双眸に宿るのは、朝露の降りた若草の色。
「『泣いてるだけ』か・・・」
 たとえ周囲の損害が甚大でも。
 オーマは本日何度目とも知れぬ溜息を落とした。
「耳、ふさいでな」



 オーマがやっとのことで歌い終えると、確かに蛇は鎮まっていた。今は、小さな体を丸めて眠っている。
 妹に駆け寄る子供を眺めながら、オーマは呟いた。
「しかしなぁ」
 歌を聞いた蛇は、苦しげにのたうって倒れた。歌う前からそれなりに辛そうではあったが、うめき声までは聞こえなかった。非常に気にかかる。
「俺の歌のせいなのか? 」
 鎮めたのか気絶させたのか、判断が難しい状況である。
 考えていても仕方がない。オーマは立ち上がると、子供に呼ばわった。
「大丈夫みてーだから、俺は帰るぞ」
 妹を抱きかかえた子供は、顔をあげると、オーマに向かって静かに頭を下げた。
 伏せられた瞳に、言いようのない不安が浮かんでいる。また、同じ事が起こらないとも限らないのだ。
 ヴァンサーでも、あれほどの力を持っている者は少ない。倫理的問題を孕みまくっていることは置いておいても、金の具現化など簡単に出来ることではないのだ。人間の身でありながら蛇化した妹もまた然り。放っておけば、取り返しのつかないことになる。兄妹の将来のためにも、保護者は必要だ。
 お偉方との交渉は面倒なことこのうえないので、出来れば遠慮したいのだが、致し方ないだろう。危険分子を抑制するため、とでも言っておけば結構簡単にいくかもしれない。
 無意識のうちに、兄妹の心配をしていることに気づいたオーマは、苦笑いを浮かべた。
「もうひと働きか・・・」
 彼らの母親を連れてこなければならない。
 最近「同族殺し」の噂は聞かないので、ソサエティのどこかにいるだろう。
「泣き出すたびに呼びつけられては俺の身が持たんからな」
 オーマは静かに踵をかえす。
 やわらかい天頂の光が寄り添う兄妹を見守っていた。