<東京怪談ノベル(シングル)>


- 名無しのキミと鈴の音 -



 長い長い時を生きてきた。しかしその中で同じ日など一日たりとて無かった。同じだと、感じることはきっと無かった筈だ。
 それは流れゆく雲の形や、流る風が頬を撫ぜるその感触。風に含まれる空気の生温さや暖かさ、涼しさや寒さ。そういう組み合わせの違いで毎日は少しずつ変化を見せていた。そして景色は固より、人々の様子もだ。
 元居た異世界ではとうに失われた全てが此処では生き、日々変化を見せている。

  その変化が ただ嬉しい。



「あーっ、今日もよく働いたぁ……っ!!」
 そう、店先で一人の男が空に向かい半ば吼えながらも大きく伸びをした。彼は二メートルを越す身長に年齢の割には衰えぬ肉体、見た目も十分な若さを持つ。僅かにズレ落ちてきた丸眼鏡を右中指で押し上げるとその人物、オーマ・シュヴァルツは夕陽の沈みかかる空を仰ぎ見た。
 今日は本当に良く晴れた一日だった。此処数日の寒さが嘘のように風は吹かないし、気温も午後になると更に上昇。シュヴァルツ総合病院に運び込まれてきた患者も珍しく少なく、バイト先のカウンターで散々具現能力を使い客引きをしていた時間も有ったほど、本当に暇な一日でもあった。
 何も無いということは平和と言うことで良い事だろう。それでも、ヴァンサーと言う立場であるオーマにとって、何もないと言う日は逆に若干の物足りなさを感じることもあった。
 彼が所属する国際防衛特殊機関『ヴァンサーソサエティ』から下される仕事以外での、ウォズエンカウント率が余りにも高いため『俺様が歩けばウォズに当たる』そんな言葉がオーマの中で出来上がっている昨今、こんな日の唯一の楽しみは帰り道となる。しかし特別何かあるわけでもなく、間も無く我が家の灯りも見えてきた。
 まぁ、やはり最後まで何も無いならばそれで良い。そう思い、玄関付近まで来た時だった。
 玄関先に立つのは最愛の妻と娘の姿。珍しくお出迎えでも……と思ったのも束の間、次の瞬間二人の発する言葉にオーマの口はポカンと開き「その辺探してくるぁ!」……言うや否や踵を返し家から遠ざかる。
「俺としたことがこりゃぁ迂闊だった!! …………のか?」

 野良ウォズが 居なくなった――…‥


 のんびり帰宅したせいだろう。夕陽は既にその頭を僅かに残すのみで、オレンジ色の空もやがてゆっくりと彩度を失っていく。残る薄明も数時間など保ってはくれず、ゆっくりと空は闇へと呑みこまれている。明日になればまた朝日は昇る。そうは判っていても、一日の終わりが近くなると何故か不安に駆り立てられた。夜になってもこの世界は生きている。それは判っているというのに……。
 しかしそんな中で今オーマが対面している状況は、最悪といって過言では無いと思う。
「ったく、あいつは家出かぁ!? 散々懐いてた癖によぉ。挙句これじゃあ、俺の野望が台無しじゃねぇかっ」
 悪態を吐きながら、野良ウォズが行きそうな場所を探そうとするが、なんせオーマはあの野良ウォズが行くかどうかは別として…散歩に連れて行ったこともない。飼い犬が逃げ出したなら散歩ルートを辿れば見つかるかもしれないが、野良ウォズなど一体何所に居るのかとオーマは思考をめぐらせる。
「……初めて出会った場所か? いや、正直あそこには行きたくねぇな」
 当時を思い起こし頭を振る。それに、今更野良ウォズがそこへ行く理由も意味も見つからなかった。
 家の近くを探すが、暗いこととカメレオンを具現擬態している小ささだ。ガリガリに痩せ細っていて、それこそ考えれば考えるほど見つかる見込みは薄れていく。
「もっとアイツに愛情を注ぐべきだったか!? それとも……ちっ、後悔だらけじゃねぇかぁっ、畜生っ」
 言いながら結局バイト先まで戻ってきてしまい、夜を向かえ静まってきた町をゆっくりと見渡した。
 特に騒ぎも無く、あの野良ウォズが現れ何かしでかしたと言うことは少なくとも無いと考えられるだろう。
「これで…入れ違いに帰ってたら笑いもんだな」
 そもそもあのウォズに帰巣本能があれば……の話にもなるが、それだけはどうしてか頭の中から排除されていた。
 僅かに人の言葉を声に出来るあの野良ウォズ。どうせならば自分は此処にいるとアピールしてくれればどんなに良いだろう。どうしてこう言う時だけ自分の名を呼ばないのかと、オーマはまるで今だけは子供のように地団駄を踏んだ。
 しかし思えば名前をつけてやることも無かった。何時までも野良野良と言っては、こうした時探しようが無いと始めて気づく。
「コレで見つからなければ本当に……」
 舌打ち混じりにもう一度辺りを見渡した。
 見渡しついで、視界の隅に入った夜空。いつの間にか月は高い位置に昇り、今夜は星が綺麗だった。しかし、日が落ちてから急激に気温は下がっている。
 オーマはその鍛えぬいたボディゆえ、まだまだ寒くなどなく、寧ろ寒くなれば筋肉を暖めれば良い――その思考で再び走り出す。向かう先はシュヴァルツ総合病院だ。

 夜の病院というものは非常に不気味なのだが、その定義はこの場所には当てはまらない。寧ろ、常日頃ありとあらゆる患者が治療を受け静養しているこの場所は、恐らく四六時中不気味といっても過言ではないのかもしれない。尤も、オーマはそんなことなど思っていないのだろう。何しろ誰も彼も、此処の者は大切な患者に変わりはない。命有るもの、人外だろうとウォズだろうが傷ついていれば助ける。それが彼の考え方であり、方針でもあった。
「……何でだ?」
 そんな病院の前に立ったとき、オーマはその目に信じられないものを映していた。
「何でお前が此処にいんだ!?」
 重く閉まった入り口ドア。その前に見つけた小動物――否、それはオーマが拾った野良ウォズに違いない。
 オーマが叫ぶと同時、野良ウォズはオーマを振り返る。

 ――あぁ…‥そうか

 内心小さく呟き、オーマは首を傾ける。その表情には薄っすらと笑みさえ浮かんでいた。
 思い返せば野良ウォズはこの場所を知っていた。ならば来るのは初めから此処しか無かったのだ。此処と家以外の場所で思い入れのある場所なんて、多分まだ無いはずなのだから。有るとしたら、これから先出来るのだから。
「でも、勝手に居なくなるとはなぁ……俺の嫁さんと可愛い娘に心配かけんじゃねぇぞ」
 笑みを浮かべたままそう言うと、足に擦り寄ってきた野良ウォズにコツリと拳をぶつけてみた。勿論思いきりの訳ではない。その拳を受けたまま野良ウォズはオーマを見上げてきた。
 なんだ、やる気か? とでも言ってやろうかと思えば、オーマの長い足をまるで木をよじ登るかのように、時折声を発し、その口に笑みのような物を浮かべ上がってくる。例えるならばそれは犬だ。
 肩まで昇ってきたのを確認すると、オーマは踵を返し病院を後に、帰路につこうとする。
「――って、暇だった分が深夜にまとまってこなくたっていいじゃねぇか……なぁ?」
 まるで同意を求めるよう言うと、十メートルと歩かずオーマはその足を止め振り返った。肩の上の野良ウォズも共に。
 どこかで哀しい声がする。
 人の声とは異なるものが。助けを求めるような。そんな自分の存在を知らせているような。
 見上げた月の位置からしてやはりもうすぐ日付が変わる頃だと思う。
 それでも行かなければと、オーマは走る。肩には頼もしい相棒を乗せ。
 走ること数十分、相手に近づいてきたというところで相棒が唐突に肩を離れ先を行った。
「うわっ、こら! 又どっか行くつもりか!?」
 あっという間に姿をくらました野良ウォズにオーマは溜息を吐くと、今は声の方向へと向かう。
 多分相棒には、さっきのように又会えるだろうと。

 とは言え今、目の前の出来事に何を言えば良いのか……ただ言葉を失っていた。この相棒にはビックリさせられっぱなしだと思う。
 視界を遮るものは何もなく、今宵の満月を見渡せる崖ともいえる場所。そこに相棒と、一匹の動物……否、恐らくウォズがいた。
 オーマが草木を掻き分け現れたところ、ウォズは声を発することを止め、振り返り彼を見る。その姿は美しい毛並みと逞しくも引き締まった四肢を持つ狼のもの。そして、その足元に相棒が擦り寄っている。
 見る限り、そのウォズから敵意は感じられず、ただ合った目を逸らせずにいた。
「お前……どうした? なんかあんなら見つけたついでだ、相談くらい乗ってやれるぞ」
「……ヴァンサー、さん」
 ウォズはその姿のまま、オーマを見て言う。オーマが誰だと判っていて発する言葉。その声は少年少女、どちらかの判別は付かない。
「お友達が欲しいの。ずっと……独りなの」
 そう言ったウォズ自身に警戒心等皆無なようで、真っ直ぐとオーマを見ての声に嘘偽りなども感じられなかった。本当に、孤独なのだろう。オーマにそれを言う程に、誰でも良いから友人が欲しいのかもしれない。
「ダチならもうそこにいんだろ、つうかそいつじゃ不満か?」
 言いながら相棒に視線を向ける。
「尤も、ずっと一緒って訳にはいかねぇだろうが、お前がここに居るってんならたまに遊びに来させよう。どうだ?」
「……ヴァンサーさんも一緒がいい。みんなで、仲良く遊びたいの」
「俺様も忙しいからなぁ……」
 言うと先ほどから僅かに左右、揺れていたウォズの尻尾が垂れた。もしそれが意味するものが犬と同じならばと考え、オーマは項垂れる。
「あぁ、判ったよ! 来るから、んな落ち込むな!! 但し……見込みさえあればお前だって俺様色に染めてやっからな――」
 語尾は小さく、恐らく誰にも聞こえない程の声。
「――ありがとう、ヴァンサーさんっ」
 そしてその姿は唐突に消えてなくなった。
 短くて、その間で特別何かあったというわけではない。夢でも現実でも構わない出来事なのだろうが――
「俺様、もしかして動物形態ウォズに好かれるのか?」
 呟きながら、縋る物がなくなりオーマの元へと戻ってきた相棒を見下げた。
「ぉぃ、今度こそ帰るぞ……」


  そんな 慌しくも充実した夜
 今宵の月はまるで絵に描いたかのよう 美しい



「……痛っぅ、やっぱ無理だな、無理無理」
 プツリと山となり、やがて流れる血液は、今オーマの親指から垂れていく。その血を流させたのは言うまでもなく、たった一本の細い針だ。
 思わず手の中の物を放り投げると、オーマは座り込んでいた床に手を突き天井を仰ぐ。
「あ゛ー……もうコレでいいだろ。十分、俺様良くやった! おい、来いっ」
 言うや否や、その辺りに転がっている筈の相棒に声をかけた。すると相棒は「なぁに?」とでも言いたそうな不思議そうな声を出し、あっという間にオーマの許へと駆け寄る。
「いいからジッとしてろよ――っと、どうだ?」
 オーマが弾いたそれは、チリンッと、小さな音を立て今相棒の首にある。言うならば首輪という物。そこに小さな鈴が一つ付いて、動くたびに音をたてる。
「さっき会った奴と揃いで作ってやったからな。もし又会う機会があったらアイツにも……な」
 もう一度指で弾き、チリンと響く音にオーマは微かに笑みを浮かべた。
「その内ここにお前の名前でも入れてやらぁ。まぁ、俺様の気が向いて、裁縫スキルが上がる日が来たら、の話だけどよぉ」

 その日は果たして近い内に来るものか……今はまだ暫し先の話と思えるが、オーマの言葉にチリンと嬉しそうな鈴の音が響いた。
 変化は求めるものでなく、ただこうして訪れる。毎年、毎日、毎時、毎秒…‥
「んじゃ、今日も飯食って一仕事と行くかぁ」
 大きく伸びをし既に明るい窓の外を見た。そこにはいつの間にか昇りきった朝日。
 キッチンの方では心地良い包丁の音。トントントンとリズムを刻むように。
 漂ってくる香りは胃を刺激するのに十分すぎた。
「さて、お前にも俺様が飯を振るってやろう。……食えよ?」



  その言葉に返るは鈴の音と ただ彼の名を紡ぐ声――