<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


純粋無垢な夢


 気が付けば、オーマとシェラの周りを霧が取り囲んでいた。通常の霧のように視界が悪くなるのではなく、先ほどまで部屋だった周囲の景色も音も失われ、空間が無限に広がっているかのような錯覚に陥る程、深すぎる霧だった。
 本当に異世界へと繋がってしまっているのかもしれなかったが。

「おやおや、これまた変わった歓迎だねぇ」
 ウォズの気配を察したシェラ肩をすくめて呟いた。その拍子に美しく結われていた燃えるような赤い髪が、一房肩の辺りに落ちる。
 それを指先で弄ぶシュラに視線をやりながら、オーマは苦笑した。
「一体、何を開けちまったんだ?」
 髪を巻きつけた指とは逆のシェラの手に納まっているのは、小さなガラス瓶である。側面には細やかな細工がされている所を除けば、普通の、何の変哲もない瓶だった。
「これかい?これは、面白い香辛料があるからって聞いてわざわざ取り寄せた物だったんだけどね、まさかウォズだったとは…」
 香辛料、と聞いた瞬間オーマはごくりと唾を飲み、顔を僅かに歪ませた。それでも盛大に歪まなかったのは、流石というべきだろうか。
「にしても、存在が希薄なウォズだな」
 話を変えるようにオーマは辺りの様子を伺った。
「そうだねぇ。味気ないというか、なんというか」
 相変わらず霧は深く二人を取り巻いている。幸いにも、話が変ったことにシェラは気付いていない。
 こっそりと溜め息を吐いたところで、隣のシェラがにこりと笑った。
「それでとっておきの料理を作ろうと思っていたんだけど、残念だね」
 オーマはぎくりとして振り返るが、とりあえず目の前のウォズをなんとかするのが先だと判断されたらしく、シェラからのお咎めはないようだった。
 安心して、再び深く安堵の溜息…もちろんシェラには見つからないようにだが…を吐き、思考の海へと沈む。

 こんなものが、今までヴァンサーによって消されずにいたとは考え難い。
 意志を持ち、時には自分たちを封印しようとするヴァンサーに問いかけてくるウォズがいる中で、霧の形状をしたウォズは意志があるようにも感じられず、ただただ二人の周りを取り巻いていた。逆を取れば、目的がはっきりとせず対処の仕方が分かりづらいのだ。
「さて、どうしたもんかな…」
 と、突然視線を止めた先で霧が揺らめいた。オーマは身構えることなく、霧の様子を眺める。伝えたいことがあるのなら、早々に伝えてもらったほうがいいだろう。
 しかし、霧は何かを捜すように形を取ろうとするが、人の形のような輪郭を作り上げた瞬間、形が崩れれ、また元の姿に戻ってしまった。
「なんだ、ありゃ…。おい、シェラ」
 隣のシェラに視線を移すと、シェラはオーマは見上げ大輪の花のように笑った。
「いい食べっぷりだねぇ、こんなにお代わりするなんて珍しいじゃないか」
 愕きのあまり、オーマの思考がきっかり三分間止まる。なんとか現実に戻り、急いで辺りを見回すが、シェラの料理などどこにもない。当たり前だ。あったら真っ先にこの霧のウォズが殺られているに違いない。
 シェラの料理に関しては経験がある分、オーマの方がウォズよりも耐性がある……と思いたかった。
「おい、どうしちまったんだよ。大丈夫か?」
 シェラの肩を掴み、揺さ振ってやる。しかし目の前にいるシェラはオーマの手を振りほどくと怪訝そうな顔をした。
「何するんだい」
「……俺は今、何も食べてないぞ?」
 食べていたら、無事じゃすまない、と続く言葉を飲み込んでシェラの反応を待つ。
「そっちこそ何言っているんだい。あんた、あたしが作った料理を食べているじゃないか」
 しかしシェラは顰められていてもなお、美しい眉の皺を更に深くするだけだった。オーマは冷静にシェラを観察するが、金色の瞳ははっきりとオーマを捕らえており、声も届いているようだ。そこからは意識を乗っ取られ、操られているような様子はない。だが、残念ながらシェラの料理を誉められるほど食べるのは、かなり難易度が高い話が言えた。
「幻覚を見せるとか、そういった類のものか?」
 オーマは1人人呟くが、相変わらず霧は何も答えない。意図があるわけでもなく、ただただ2人の周囲を覆っている。
 感じられるのは、純粋無垢な力だ。
 ふと、このウォズが入りの瓶がシェラの元にやってきた切っ掛けを思い出す。
 シェラは料理に使うために取り寄せた香辛料が、このウォズだったのだ。そして今見ている幻覚は、オーマが料理を食べている姿、なのだ。
 それがヒントとなり、点が線となり思考の糸を繋いでいく。
 ウォズが見せている幻覚の、根元となっているものは―――……

 与えられたものを、返す。
 意志があるわけではなく、そういう性質のもの。

「……そういうことか」
 大方の予想がつき、オーマは苦笑いを浮かべる。オーマの独り言に怪訝そうな顔をしているシェラの肩を再び掴んだ。
「シェラ、戻ったらたくさんご馳走してくれ。だから今は料理から離れてくれるのか?」
「離れるっていったって……、」
 シェラは不思議そうな顔をしたものの、目を細めてオーマをじっと見つめた。
 ゆっくりと金の瞳が正しいオーマの姿を形どっていくのが分かる。
「消えた?」
「よし、戻ったな」
 不思議そうに首を傾げたシェラにオーマはほっと溜め息を吐いた。
 シェラを戻さないまま事を進め、何かあったら厄介だが、戻ってしまえば後は簡単だ。とりあえずのところ、この瓶の中に霧のウォズが閉じ込められることをイメージし、それを具現化すればいいのだ。

 しゅうぅうぅぅぅぅ…

 霧がゆっくりと瓶の中に吸い込まれていく。霧の濃度が薄れていくにつれて、辺りの景色は元の見慣れた部屋の中へと戻っていた。
 オーマは完全に霧を押え込むと、瓶の床に転がっていた瓶の蓋を素早く閉める。
「いったいどういうことなんだい?」
 いまいち納得がいかない顔をしているシェラが、鎌を握り締めながら尋ねてきた。窓から差し込んだ太陽の光を刃が反射する。
「今、説明する!」
 オーマは後ずさりをしながら答え、小瓶をシェラに渡した。
「こいつは、自分の中に取り込んだ誰かが、望んでいるものに具現化するんだ。ただ、こいつには意志がない。望みを持った者がいれば、ただそれに応えるだけの存在だ。
…大方ヴァンサーの中の誰かがきちんと封印せず、こいつを利用しようとしたんだろ」
「攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、いつでも封印出来き、そして…好きな時に望んでいるものを見る事が出来る。そういうわけだね」
 攻撃をしてきたわけでもない。何かを問い掛けてきたわけではない。
 霧状のウォズは、ただそこにいて、望むものを見せているだけなのだ。
「そうだ。それが何かの手違いか…意図的かは知らんが、香辛料の瓶に紛れ混んだ、というわけだ。ある意味こいつも被害者なんだろう」
「なんだか、このまま封印しちまうのは、可哀相な気もするねぇ」
「あぁ。ウォズ自身が悪いんじゃないからな」
 オーマはビンを光に透かす。そこには白く小さな雲のようなものが漂っていた。禍々しいものではなく、どこか心を穏やかにさせるようなウォズの姿だった。
 透かしたビンの向こうに、オーマはあることに気付く。
「そういえば俺の秘蔵コレクション置き場に、丁度いいスペースが」
 棚を見上げ、具現化ビデオもどきの隣の空いたスペースに、ウォズ入り小瓶は丁度良く納まった。マッスルアニキの笑顔の隣に、アンティーク細工の小瓶は不釣り合いかもしれなかったが。
「特に悪さをするようでもないなら、ここでいいだろう」
 オーマの様子を見守っていたシェラが、ふと思い出したように口を開いた。
「…そういえば、先ほどあたしの料理を死ぬほど食べたいといったよね?」
「いや、そこまでは…」
 自身でも忘れていた話を持ち出された為、オーマは体を強ばらせ、それから慌てて手を振って否定をした。シェラの顔は見る者を陶酔させそうな美しい地獄の笑みを浮かべて鎌を振る。鎌は空を切ってオーマの髪を一房、二房切り落とした。
 床にパラパラと落ちた髪を見下ろしながら、オーマは慌てて頷いた。
「い、言ったかもしれんな…」
「香辛料は無くなってしまったが、腕に寄りを掛けて作ろうじゃないか」
 嬉しそうに揺れる赤髪を見つめ、オーマはなんとか思いとどめようと手を伸ばすが、無情にも届く事はなかった。



 覚悟を決め食べた一口は、世界がこむらがえりをうち、目の前で星がタップダンスを踊り出す、摩訶不思議な味がした。もはや味覚は常識を越え、世界は新たな味への一歩を踏み出したかもしれない。
 胃は何度も食べる事を拒絶し、食べ物を食道へと押し戻そうとする。耐えに耐え、胃を何度も宥めるとようやく一口目を完全に飲み込むことが出来た。時間とはこんなに長いものだったのかと、認識すら改める。
「そういえば、あんたは何を見たんだ?」
 二口目を食べようとした所で、シェラが尋ねた。 
 あぁ、と小さく呟くと、オーマはシェラを見つめた。
「俺は何も見えなかったさ。望みは目の前に具現化されているからしな」
 世界の珍味が顔を赤らめて逃げ出しそうな味の目の前の料理を平らげるのか先か、自分が倒れるのが先かは解らなかったが、これ以上望むものがないのも確かだった。

 後日本物の香辛料が届くこととなったが、シェラが知る前にオーマが受け取ったそれは、ある意味ウォズより質の悪そうな色と匂いがした。なぜシェラの元にウォズが入った小瓶が届いたのかは分からなかったが、そんな事に対する興味よりも、オーマにとってはシェラには知らせずこっそりとこの香辛料を棄てることのが重要だった。
 その後どうなったのかは、また別の話である。

 棚に置かれたままの小さなガラス瓶は、きらきらと光に反射して部屋の中に輝きを落としていた。