<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


炎禍(後編)

■オープニング

 かつてはエルザードの宮廷魔導師だった筈の男・グラファが、今は何故かアセシナートの配下となり、その侵攻の手助けとして、自身の作り出した魔物に都の港を襲わせた事件から数日後――

「捕り物だ。誰か頼まれてくれるかい?」
 再び黒山羊亭を訪れたメルカの顔は、有無を云わせぬ程に厳しい表情を浮かべていた。
 これまで発生した人造の魔物による襲撃――それを仕組んだのが自分の昔の仲間だったという事実が、彼女にこうした表情をさせているのだろう。
 しかし言葉は、無感情なまでに淡々としていた。
「先日港が襲われた時、そこから逃げるグラファの姿が目撃された。すぐに騎士団が足取りを追った結果、奴のねぐらが判明してね。今回はそこを叩くんだ」
 カウンターへと地図を広げ、ある一点を指し示す。
 アセシナートとの国境に近い森の中だ。
「ここには遺跡があるんだよ。中は迷路状になってて、奴はそこに逃げ込んだのさ。本当はアセシナート領内まで戻りたかったんだろうけど、こっちの追跡が早かったおかげで、逃げ切れなかったみたいだね」
 つまり、その遺跡の内部に入り彼を捕縛する事が、今回の依頼の内容だろうか。
「当たり――本来なら騎士団の仕事なんだろうけど、奴の背後にはアセシナートが居る。国家レベルが動く事は、逆にあの国に付け入る隙を与えかねないんでね。今回はそう大掛かりにしたくない。だから身軽な立場のお前さん達に頼みたいのさね」
 そこで軽く一息つき、メルカはゆるゆると首を振る。
「ただし、相手はグラファひとりじゃない。奴の作った魔物達が遺跡の周囲を固めてるし、アセシナート軍の人間が何人か、奴に同行してるらしい。そいつらに守られて、グラファ本人は遺跡の奥さ」
 そうなると、魔物とアセシナートの軍人と、その全てを退けなければならないのか。
「そこまでは必要無いよ。軍人どもはうっちゃって構わない。奴らの計画さえ頓挫させれば、失敗を国許に報せるためにも諦めて引き返すだろ。事の推移を見届けるため、ギリギリまで静観決め込むだろうし――だから、外の敵は魔物だけさ」
 続けて、濃緑の石片が皆の目の前へと差し出された。
「魔物達には、この『魔源石』って石が埋め込まれてて、こいつが核になってる。倒そうと思ったら、こいつを砕くのが一番早い。数が多いらしいから、そこはちょいと厄介だけどね」
 手の上の石と周囲を取り巻く者達とを、鋭い視線が一瞥する。
「先手を打つためにも今すぐの出立になるけど……誰か、乗ってくれる奴は居ないかい?」


■陰に集い

 鬱蒼と茂る木々は、身を潜めるに丁度良い。
 幹の陰から窺えば、居並ぶ木立の向こうに、古びた石の神殿がひとつ…。
「あれがその遺跡なんですね?」
 メルカを振り返った星祈師・叶の声には、緊張がありありと浮かんでいた。
 その隣で、抑揚の無い声が上がる。
「大きい建物だったみたいだけど…土台と柱しか残って無いのね。屋根も崩れてるし」
 迷路になってると聞いた筈だけど――独り言のように呟いたのは、夜月慧・天夢だ。口調そのまま、感情のうかがえぬ瞳で、彼方に見える石柱群を見据えている。
「相当古い物らしくて、だから地上はあの通りさ」
「地上は…って事は、地下があるんだね」
 葵がメルカの云わんとするところを読み取り、先を制した。短い肯定の言葉と共に彼女が頷くのを見てから、ひょいと視線を別方向へ流す。
「じゃあ、地上の規模を鵜呑みにしない方がいいのかな…」
「多分ネ。見えてル以上に下は広イと思ッテイイんじゃナイのカナ〜」
 視線の先では、ひょろりとした長身を所在無げに幹へもたせかけ、葉子・S・ミルノルソルンが笑っていた。「厄介ダネー」と言葉が続くが、双眸から薄笑みが消える事は無い。
 そんな彼の傍らには、小柄な少年が佇んでいた。
「よーこチャン、楽しそうだな…」
「彼はいつもそんな調子よ」
 真紅の瞳を不思議そうに瞬かせながらの呟きに、やや呆れを含んだ女の声が重なる。
「どんな時でも天井桟敷。気にしない方がいいわ。それより…どう動くかを考えた方が建設的じゃない?」
 少年――ソル・K・レオンハートに向けて軽く肩を竦めてみせると、レピア・浮桜は遺跡へと目を戻した。
「そうだな。遺跡の手前にも難題があるんだし」
 ソルの口元から、直後、かすかな溜息がひとつ零れ落ちる。
 彼らが見据えているものは、木々や柱の間で蠢く赤い光点だ。ひとつではない。二十ばかり見えるだろうか。
「あれがグラファさんが作った魔物の炎…なんですね。まともに相手をすれば時間がかかりそうな数ですし…どうしましょうか」
 同様に溜息を洩らしつつ、叶が皆を振り返る。「手分けしたら?」と、即答したのは天夢だった。
「主目的はあくまで別に居るんだから、その方が効率的だと思うわ」
「僕もそれを考えていました」
 誰にも異存は無い。
「それじゃあ…行くとするかね」
 大きく一息吐き出して、メルカが一同を見渡した。


■魔に向かい

 天夢の召喚した魍魎達が、群れを成して炎の魔犬へと襲い掛かる。
「今よ!」
 その間に、脇をすり抜けるように遺跡を目差し駆け出した者の数は四人。
 天夢、叶、葉子、葵だ。
「判ってる限りの道は葉子に教えてある――任せたよ!」
 駆け去る四つの背に向かってそう叫び、魔物へと向き直ったメルカを見て、愕然と目を見開いたのはレピアだった。
「どうして…!?」
 ここは任せてくれて良かったのに。
 魍魎の攻撃を擦り抜け突進してきた魔犬の額を、エスメラルダから借り出してきた鉄扇で打ち据えながら、問い詰めるような目をメルカに向けるが、黒衣の魔導師から返って来たのは飄々と事も無げな言葉であった。
「だって、ふたりじゃ流石に厳しいだろ?」
 その一言であっさりと片付け、メルカはソルを見遣る。
「少年、前衛ヨロシク」
「――わかった」
 与えられた指示にコクリと頷くと、ソルは手にした二刀のうち、乱れ刃の一刀を抜き払った。
「…朱雀」
 肩に止まった精霊獣の鳥と一瞬だけ視線を見交わし、そして魔物の一団へと突っこんで行く。
 白刃一閃。
 そこへ後方から雷光の追撃。
 ソルとメルカの攻撃を受け、一頭がもんどりうって倒れこんだ。しかし完全には息絶えていない。首筋を取り巻く炎こそ弱まりはしたが、その三つ首は未だ敵意に満ちた眼差しでソルを見上げている。
 三つの頭。
 中央の頭の眉間には、小さな緑色の石がひとつ――
「石よ! その石を砕いて!」
 完全に倒すには、核となっている魔源石を砕くのが最速だ。
 レピアが叫ぶ。
「――わかった」
 頷き、ソルは愛刀を振りかぶった。


「避ケタんだろうネェ、ありゃ」
 荒廃した遺跡の中央、地を穿つように口をあけていた穴から地下へと入ると、葉子はわずかな苦笑と共に地上の方を振り返った。
「メルりんってば、オトモダチとの直接対決はやりにくかったのカナ?」
「相手がグラファだってわかってから、何か表情暗かったしね」
 葉子の仮説に頷きながら、葵の視線は前方に伸びる通路の先を見据えている。
 地下ゆえに当然に事だが、道は暗い。
 持参の明かりを頼りに窺えば、少し先で二手に分かれているようだ。
「迷路という事だそうですから、あちこちで道が枝分かれしてるんでしょうね」
 葵の隣で鼠の式神を召喚していた叶が、やれやれとばかりに溜息をつく。
 天夢の言葉は淡々としていた。
「それでも行くしか無いでしょう?」
 そこにどんな感情が込められているか、いや、感情の有無すらも定かではない声音でそう洩らすと、一瞬だけ三人へ視線を投げる。
「ぼやいてる暇は無いんだし」
 そうであった。
 逃げるか或いは迎撃か、グラファが行動を起こす前に彼を捕縛しなければならないのであった。
「ジャア、さっさと行きマスか」
 ふよんと長身をわずかに宙へ浮かび上がらせ、葉子が先頭に立つ。叶、天夢と順に続いた。
「先導お願いしますね。道が判らない所まで来たら、僕の式神に探らせますから」
「ハーイ☆」
 暗く細い石造りの通路を、一行は歩き出そうとする。
 その時――
「……えっ!?」
 突然、後方から強い光と熱が、四人に照り付けてきた。
 最後尾の葵が振り返る。
 するとそこでは、先ほど振り切ってきた筈の魔物が二頭、低い唸り声を上げていた。光と熱は、その首を覆う炎によるものだろう。
 レピアやソルの足止めを、この二頭は突破してきたのであろうか――詮索しているいとまは無かった。
「先に行くんだ!」
 鋭い一声を通路へと響かせ、葵が魔物と対峙する。
「片付いたらすぐ追いかける――だから急いで!」
「そんな…ひとりじゃ危険ですよ!」
 血相を変えた叶が援護の術を放とうとするが、サッと差し伸ばされた天夢の白い手に制止されてしまった。
「彼の判断が正しいわ。入り口での消耗は避けるべきよ」
「でも――」
 このままでは押し問答になりかねない。
 次に動いたのは葉子だった。
「葵ちゃん、オッ任セ〜っ☆」
 高らかに叫ぶなり、深部を目差し走り出す。
 先導役に引き離されるわけには行かず心残りを感じながらも、叶はその後に続く。
「手伝ってやりなさい」
 召喚した魍魎の一体を残し、天夢もふたりの後を追った。


■闇を進み

「あ…っ!」
 振り下ろされた鉄扇の連撃をかいくぐり、二頭の魔物が遺跡の中へと駆け込んで行った。
「止めないとっ」
 横合いから襲い来た牙を踊り子らしい身軽な動きで回避すると、追撃を阻止すべく、レピアは先の二頭を追いかけようとする。
 だが、メルカはその肩を掴み止めた。
「二頭程度ならあいつらだって捌ける筈だ。こっちも余裕があるワケじゃないんだし、信じて任せるべきだろうよ」
「……ええ」
 いくばくかの不安を残しながらも、レピアも頷く他に無い。云われる通り、現状は決して楽勝ではないからだ。
「何しろこの状態だしな…」
 朱雀と共に魔物の群れへと斬り込み、休み無く刃を振るいながら、苛立たしげな舌打ちの音がソルの口をついて出る。
 当初、魔物は二十体程度の筈であった。
 ひとつの体に三つの頭――それが、二十数体。
 ところが。
 途中から、その数に変化が生じ始めたのだ。
 三つの頭が何とそれぞれ分離して、ひとつの体にひとつの頭という、これまでとは違った姿を取り始めたのである。
「分離される前に叩かないと…」
 素早く、そして効率のいい戦法が求められるだろう。
 首筋を取り巻く炎をひときわ激しく燃え上がらせ、分離の前兆を見せ始めていた一体の額を打ち据えると、レピアはソルの方を振り返った。
「ねぇ坊や、流れ作業に切り替えない?」
 短い応答。
「ああ――わかった」
 レピアやメルカの指示を受け、それを忠実に実行する――それが先ほどからのソルの戦い方であった。
 自発的な行動では無いが、それだけに、指示の内容や意図を解する事には長けているらしい。「流れ作業」と云われただけで、彼は即座に己の行動を変化させた。
 相手が絶命するまで攻撃を続けるという形をやめ、一撃を加えるとすぐに次の一体へと標的を移し替える。
 そう、一撃だけでいいのだ。
 たとえ止めとならずとも、一撃さえ入れば魔物は動きを止める。
 その一瞬の隙を狙い、魔源石を砕くのはレピアの担当だった。
「そう、その調子よ!」
「そうか…じゃあ、このまま続ける」
 白刃が閃く。
 敵中を駆け回り次々と標的を移してゆくというめまぐるしい動きでありながら、ソルの攻撃は極めて正確なものであった。魔物が思わず動きを止めずにはいられぬよう、レピアが次の一撃を打ち込みやすいよう、的確に急所を捉えてゆく。
「お見事…としか云えないね」
 動きの激しさとは裏腹なその狙いに、メルカは感嘆の言葉しか出なかった。
「感心してる場合じゃないでしょ」
 見惚れてないで手伝えとばかりにそちらを振り返ったレピアも、感想は同じらしく苦笑を浮かべている。
 その間も、ソルは黙々と刃を振い続けていた。


 教わった順路はすぐに尽き、未知の十字路が目の前へと現れた。
「ここからは式神に探らせましょう」
 先頭を交替した叶が、式神を連れ十字路の中央へ進んで行く。
 明かりを携えてはいるものの、やはり足元は暗い。
 その中を、彼は一歩一歩前へ進む。
 更にもう一歩踏み出そうとした瞬間、突然その視界が真っ赤に染まった。
「え…? あつ…っ!」
 何が起こったのかを認識するより早く、強烈な熱気に見舞われ後ろへ飛び退く。
 紅蓮の熱気から間合いを取って改めてそちらに目を向けると、石造りの床におぼろな光の魔法陣が浮かんでおり、そこから巨大な火柱が吹き上がっていた。
「地雷式のトラップ魔法とはネ…やってくれるジャナイの」
 何故か面白げに目を細めながら、葉子がひゅうと口笛を鳴らす。
「他にも似たような罠があると思って良さそうね……鬱陶しい」
 天夢がフンと不愉快そうに肩をすくめた直後、魔法陣の光が消え、そして火柱も消滅した。
「じゃあ皆…お願いだよ」
 他にも罠があるのではないかと恐る恐る周囲を見回しながら、枝分かれした道のそれぞれへと、叶は探査の式神を放つ。彼らが戻るまでは、暫し待機だ。
「――ン? 何やってんダイ?」
 葉子が天夢の方を見ると、彼女は傍らにそびえる石の壁へと、何やら走り書きのような物を残していた。
「道順よ」
 振り向きもせず天夢は告げる。
「さっきの彼が追いかけてきても、道が判らないと困るでしょ。こんな所で遭難されても面倒だし、だから目印を書いてるの」
 さっきの彼とは葵の事だろう。
「親切ダネー」
「無駄な手間をかけるのが嫌なだけ」
 正直な発言だ。だが、素っ気無い物言いにも関わらず、そこに嫌味は感じられない。
 更に少し待っていると、式神達が戻ってきた。
 鼠の姿形をした彼らは、彼らだけで何やら話し合うかのように顔を寄せ合うと、それから同じ方へ向かって移動を始める。四方へ伸びる暗い道を、左の方角へ――
「こっちの道みたいですね。行きましょう」
 叶に促され、一行は再び歩き始めた。


■炎を断ち

 分離しての攻撃に切り替えようとした瞬間を、側面から魍魎に強襲され、魔物達の動きが止まる。
 その一瞬のタイミングを逃がさず放たれた水の弾丸が、緑の魔石を打ち抜いた。
「ふぅ…何とか終わったね」
 どさりと重い音を立てて倒れこんだふたつの体を見下ろし、葵は全身で息をつく。
 だが、疲れを癒しているいとまは無い。
 早く先行の三人と合流しなくて。
 そう思い、葵は場を立ち去ろうとするが――
「……君は、どうしようか?」
 天夢が助力に残してくれた魍魎の存在を忘れるところだった。
『……』
 魍魎はつくねんと立ち尽くしたまま、無言で葵を見詰めている。まるで、この後自分はどうすればいいか、次の指示を待っているかのように…。
「ええと…ここの見張り、頼んでいいかな?」
 こくり。
 やはり無言のままで、首が揺れた。


 途中何頭かは間に合わず分離を許してしまい、その分だけ手間取りはしたものの、今のソルとレピアの前には、脅威となる存在はひとつとして残っていない。
 核を砕かれ倒れ伏した魔犬の群れ――その仮初めの命の残り火が、土の上で幾つか揺らめいているだけだ。
 それすらも、ひとつひとつと消えてゆく。
「これで全部片付いたな…後は、どうすればいいんだ?」
 わずかに荒い呼吸と共に抜き身の刃を下ろすと、ソルがメルカへ視線を向けた。
 しかし、それに答えたのはメルカではない。
「中に入った皆が心配だし――念の為あたしがここに残っておくから、ふたり共、行っていいよ」
 いらえの主はレピアである。
 借り受けた鉄扇の汚れを丹念に拭いながら、うっすらと苦笑を交えた表情で、彼女は更に言葉をつなぐ。
「本当はあたしも行きたいんだけど…踊り子に出来るのはここまで。これ以上は足手まといになりかねないし。だからここで待ってるわ――行ってきて頂戴」
 さてどうするべきか。
 そろり、と、三人の視線が見交わされる。
 判断に要した時間は、しかしほんの一瞬だった。
「行こうか少年」
 短い言葉で促すと、メルカがソルの肩を叩く。
 次の瞬間、女魔導師の白皙がニヤリと笑み崩れた。
「それじゃあここは任せるけど…この前約束した通り、無茶は厳禁だからね」
 レピアに向けてそう云い残し、遺跡の内部へと歩き出す。
「俺も行ってくる――気を付けてな」
 朱雀を伴い、ソルもその後に続いた。


 分かれ道に出る度に式神を放ち、罠の存在に警戒しながら歩を進める――それを繰り返した果てに三人が辿り着いたのは、これまでの道の狭さが嘘のような広々とした空間だった。
 ここから先に道は無く、完全な行き止まりである。
 壁に松明を掲げた空間の中央には、石の棺がひとつ。葉子、叶、天夢の視線は、そのすぐ隣へと集中していた。
 そこには黒衣の人影がひとつ…。
「途中で引き返すかと思ったが…案外と、しぶとい連中だな」
 驚きとも呆れともつかぬ呟きの後に、威圧感を伴った冷たい一瞥。
「マァ、引き受けた以上、コッチも簡単には帰レナイんダヨネ」
「人助けなんてする理由は無いんだけど、でも馬鹿げた行為に走る人間も気に入らないのよ」
 さらりと放たれた葉子と天夢の言葉を、片頬をわずかに歪めるだけの笑いで受け止めると、グラファは「それで?」と問いを投げた。
「わざわざこんな所まで足を運んで、それでお前達はどうしたいんだ? 俺を殺すとでも?」
「殺したりはしませんよ」
 きっぱりと答えたのは叶だった。冷淡な視線を向けられわずかに顔をこわばらせては居るが、しかしその表情に殺意や敵意は浮かんでいない。
「何も云っていませんでしたけど、メルカさんもそんな事は望んでいないと思いますし」
 ぴくり。
 グラファの浅黒い口元がわずかに動く。
 だが、それは本当に一瞬のものであった。
「僕はただ、これ以上人を傷つけるような事をやめてほしいだけです」
「――甘い、な」
 叶の言葉に短く返すと同時に、彼の主張そのものを跳ねつけるかの如く、激しく燃え盛る火球を投げつけてくる。
「コリャ力ずくっきゃナイみたいダネ!」
 火球の弾道から叶を突き飛ばし狙いを外させると、葉子がグラファに向けて飛び掛った。真空波を放ちながら接近し取り押えようとする。
 だが、
「寄るな!」
 不意に眼前へと現れた炎の壁に、間合いへの接近を阻まれてしまった。
 正面から襲い来る熱気にたたらを踏んだその間に、新たな火球がふたつ三つと、立て続けに三人へ放たれる。しかし今度は予測済みだったのか、叶は巨大な蜘蛛を召喚し、それを盾として炎を防いでいた。
「とは云っても、接近できなきゃ埒があかないわよね」
 蜘蛛の背越しにグラファの姿を見据えると、天夢が思案気味の呟きを洩らす。
 その時、新たな人影が駆け込んできた。
「遅くなって御免!」
 葵だ。駆け込むなり眼前に広がっていた光景に瞬間目を見開いたが、すぐに状況を理解したらしく、彼は水の壁を式蜘蛛の前面に生み出し火球への防壁とする。
「葵ちゃん! 援護オネガイ!」
 葉子の声が響いた。
 増援の到着にグラファの注意が逸れた今を好機と見てか、再び組み合いに持ち込もうと突進をかける。
 その目前に、巨大な炎の渦。
 だが、細身の悪魔がその渦に巻き込まれてしまう事は無かった。それより寸瞬早く葵が放った水の渦が、彼の体を取り囲み、猛火の襲撃を防いでいたのである。
「チッ…!」
 足止めが通じないと見るや、新たな防壁を作るべくグラファは後ずさり間合いを取ろうとするが、背後には、いつの間にか巨大な蜘蛛が回りこみ道を塞いでいた。
「もう誰も傷つけさせるわけにはいかないんです」
 静かだが、しかし断固とした叶の声が耳を打つ。
 その間にも葉子は炎の渦を乗り越え、葵と共にグラファに迫ろうとしている。
 火球で弾き飛ばそうと腕を振りかざしたグラファだったが、直後、何故か愕然とした表情を浮かべ動きを止めた。
 火球は放たれず、それどころか生み出される気配も無い。
 しかし、彼が自ら術を止めたわけ出ない事は、その青ざめた表情から明白である。
「――お生憎様」
 自身でも何が起こったか理解できぬといった面持ちで、呆然とその指先を凝視する彼に、冷ややかな一言が浴びせられた。水の防壁の向こうに立つ天夢だ。
「貴方の気が逸れてる間に、貴方の周りに結界を張らせて貰ったの。もう魔力を使う事は出来ないわよ」
 整った美しさを持つだけに尚更冷たい微笑が、ゆっくりとグラファに向けられる。
「力を見せすぎたわね。切り札はこうやって最後まで取っておくものなのに…それをわかっていなかった貴方の負けよ」
 酷薄な宣告と、葉子の手がグラファの腕を掴むのは、殆ど同時の事だった。


■光の下へ

 メルカとソルがその場へ駆け込む頃には、全ての決着はついていた。
「ヤァおふたりサン、遅かったネー☆」
 あろう事か棺の上に胡座をかいた葉子が、ニヤニヤとふたりを出迎える。
 葵の援護があったとは云えやはり多少の火傷を負っては居たのだが、回復力だけはしぶとい下級悪魔はそれをあっさり自然治癒させてしまい、手当てをしようとしていた叶が隣で目を丸くした。
「とりあえず捕まえといたわよ――後はご自由に」
 壁にもたれた天夢の言葉は、やはりあっさりとしている。
 そんな彼女の傍らには、「皆無事だからね」と笑顔を向ける葵と、彼が生み出した水の縄で捕縛され、憮然と横を向いているグラファの姿が――
「……良かった」
 張り詰めていた何かが切れたかのように、メルカの体がその場へとへたり込んだ。
 そちらを軽く見遣ってから、ソルがグラファの方へと歩み寄る。
「この国が、嫌いなのか…?」
 答えは無かった。
 一瞥をくれただけで、グラファはすぐに横を向いてしまう。
 それでも構わず、ソルは言葉を続けた。
「嫌な事が多ければ、嫌いにもなるのかも知れない。でも…本当に、全部が嫌いか? お前にとって価値のあるもの、この国にはひとつも無かったか?」
 やはりいらえは無い。
 だが、グラファが彼の問いかけを聞き流しているわけでない事は確かだった。表情が微かに動く。
「まだほんの一部分しか知らないけど…でも、僕はここが好きですよ」
 柔らかな笑みと共にそう告げながら、叶がソルの隣に並んだ。
「あなたがこの国でどんな思いで暮らしてきたか、僕にはわかりません。でも…この国を守るために、こうして体を張ろうとする人達も居るんです。まだまだ捨てたものじゃない――そうは思いませんか?」
 真っ直ぐに、グラファの目を見詰めながらの語りかけ。
 その緑の瞳に浮かぶ光は、何処までも柔らかなものだった。


 駆けつけた騎士団にグラファの身柄を引き渡すと、六人は暗い通路を外の世界に向けて歩き出した。
「結局、アセシナートの連中は何も仕掛けてこなかったね――逃げたのかな?」
 まだ何処かに潜んでいないかと、葵が周囲を窺う。
「逃げてもらう方が好都合なんだけどね。計画の失敗を国許に伝えてくれれば、同じような手をまた使おうなんて気は無くなるだろうし、方針を考え直すために、暫くはその他の行動も大人しくなるだろうから」
 メルカの顔は晴れ晴れとしていた。
 胸のつかえがひとつ取れた――そんな表情だ。
「レピアにも報せてやらないとな」
 外で待つ踊り子に早く朗報を届けようと、ソルの歩調が早くなる。
 ところが――
「アリャ〜…見事なオチだネェ」
 外の世界へと出た一行の目に入ってきたのは、何ともイレギュラーな光景だった。
 暗がりに慣れた目には眩しいばかりの陽光と。
 その下で、まるで踊っているかの如き姿勢で佇む一体の石像――レピアだ。
 呪いを背負う彼女が生身の人間として活動できる時間は限られている。皆の帰りを待つうちに、その刻限が来てしまったのだろう。
「またかまたかよまたなのか…」
 メルカが盛大に溜息をついた。
 その横で、抑揚の無い声があがる。
「あ――忘れてた」
 天夢が何事か思い出したかのように、遺跡の方を振り返っていた。
「どうしたんですか?」
「魍魎を回収してくるの忘れてたわ」
 それは大問題だ。
 しかし天夢本人にとっては、実はそれ程重要な事ではなかったらしい。
「まぁいいわ――眠いし」
 あふと小さな欠伸を洩らし、あっさりと結論を出してしまう。
「普通にしてる分には大人しそうだったし、連れて帰らなくてもきっと害は無いよね」
 葵までがこの調子だ。
「そーいう問題じゃねぇだろ……」
 メルカが頭を抱え込む。
「気苦労絶えないネ〜☆」
「胃炎にならないように気を付けて下さいね?」
 同情の言葉を掛けつつも、葉子と叶の顔には苦笑が浮かんでいた。


■エンディング

 数週間後、一通の手紙が黒山羊亭へと届けられた。メルカからの物だ。
 聖獣王の裁きの結果、捕えられたグラファは一切の魔力を封印され、普通の人間としてこの国で暮らす事が決まったそうである。
 死罪や獄につなぐ事では、根本的な解決にならないと判断したのだろう。
 一市民として再びこの国で暮らし、その中で様々な人々と触れ合う事で、彼の中に根付いたこの国への不信と嫌悪を緩められれば――普段のぞんざいな口調が嘘のような穏やかな文体で、メルカはそう綴っていた。
 彼女が身元引受人となり、暫くは魔導師団の事務員として働かせる事になったらしい。
 最後の一文が傑作だった。

『私に副団長押し付けてバックレたお返しに、がっちり手伝わせてやるのさ』

 手紙の向こうに、ニヤリと笑うメルカの顔が見えた気がした。


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1353 / 葉子・S・ミルノルソルン / 男 / 156 / 悪魔業+紅茶屋バイト】
【1354 / 星祈師・叶 / 男 / 17 / 陰陽師】
【1720 / 葵 / 男 / 23 / 暗躍者(水使い)】
【1926 / レピア・浮桜 / 女 / 23 / 傾国の踊り子】
【2363 / 夜月慧 天夢 / 女 / 999 / 生きた神隠し】
【2517 / ソル・K・レオンハート / 男 / 14 / 元殺し屋】

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■         ライター通信          ■
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こんにちは。或いは初めまして。
この度は「炎禍(後編)」へのご参加ありがとうございました。
執筆を担当した朝倉経也です。

アセシナート軍の人間が全く姿を見せなかったため、肩透かしを食らった気分の方もいらっしゃるかも知れませんね。
彼らの行動に警戒するプレイングを出された方が多く、これだけ警戒されては彼らも手出しのしようが無かった模様です。
逆に、誰ひとり警戒せず完全スルーだったとしたら、不意討ちがあったかも……
朝倉はひねくれ者ですから(苦笑)。

これもまた皆様のプレイングのおかげで、グラファを死なせる事無く解決する事が出来ました。
その後彼がどうなったのか、忘れた頃にちらりと顔を見せる事があるかも知れません。
……無いかもしれませんが。
そこは朝倉が忘れていなかったらという事に。

それでは、またお会いできる機会があります事を、心より願っております。