<東京怪談ノベル(シングル)>





 ソーンを包み込むように風が流れた。
 木々を撫で、窓を滑り、路地を駆け抜けた風は、病院でのデスクワークに厭いて逃げ出していたオーマ・シュヴァルツの元にも辿り着き、追い越していく。
 陽のやや傾いた昼下がり。刻はまろやかに過ぎていた。

 エルザード郊外に広がる森の中をざくざく歩いていくと、小さく開けた場所に出た。木立が途絶えて、足元を隠す程度の草が生えるばかり。初めて来る場所だった。
 森に囲まれて円形のそこは、
「舞踏会場にぴったしってもんだろ」
 呟いたオーマの視界を、ふわりと赤が舞った。やや置いて、それが女性の長い髪だと認識する。くるりくるりと裾の長い白のスカートを風に乗せて、彼女は一人で踊っていた。
 その気配に、オーマが気付いていなかったわけは無い。ここへ辿り着く途中、木々を分けながら歩いていた時には既に感じていた。嗅ぎ慣れた、ウォズの気配。
「ご一緒しませんか?」
 柔らかな声で女性――の形をしたウォズ――は誘う。オーマの方を見ようともしないまま、相手のいないダンスを続けて。
「……呼んだのはお前さんかい?」
 もちろん招待状など届いてはいない。街ですれ違った風に、声を聴いた気がしただけだ。その直感に、辿れるはずのない風の軌跡をオーマは歩いた。路といえる路もない森を足に任せて歩いて、その先に本当に誰かを見つけることができたのなら、それは単なる偶然ではない。
「――さぁ、どうかしら」
 滑らかなステップに声を乗せて、オーマに近付くように回転する。そのまま目前まで踊りきて。けれど、と続けた言葉と同時に、ぴたりと動きを止めた。
「私はあなたに、」
 初めてオーマに視線を向けた。先程までの所作からは想像できないほどの、凛とした視線を。スイ、と細められた瞳が、真っ直ぐにオーマを射る。
「――用があります」
 トーンの下げられた声に、冷酷なまでの敵意が露わだった。ゆっくりと差し出された左手が、ダンスの相手を求めてのことではないのは、あまりにも明らかだ。
「よぅし判った。用件くらいダンスを楽しみながら聴こうじゃあないか」
 その手を、オーマはあっさり握り締めた。すかさずもう片方の手を彼女の腰にまわして引き寄せる。
「――! わ、私はですから――」
 予期しなかったのか慌てて突き放そうとするのを、涼しい顔でやり過ごしてオーマはステップに入る。女性としては背が高いであろう彼女も、二メートルを超えるオーマにすれば小柄で、何よりその鍛えられた筋肉に彼女の細い腕が敵うはずもない。リードして動くオーマに半ば振り回される形になった。
「誘ったのは嬢ちゃんだぜ。――で?」
 用件など聞くまでもなく明白。オーマがヴァンサーで彼女がウォズならば、そこにあるのは封印と殺害という関係だろう。しかしそれだけで敵対するつもりなどオーマには毛頭ないのだ。ウォズをウォズという理由だけで封印するほど、彼の懐は決して狭いものではない。
 速いテンポで、それでもゆったりと二人は踊る。紅い髪が風に舞う。白いスカートが緑の草を揺らす。僅かの時間でも、こんなに静かに時間を過ごせるのだ。ヴァンサーとウォズであっても。
「どうして俺を殺したい」
 聞いたオーマの表情は、今日一日の中では一番真剣なものだった。じっと見据えられて、彼女は僅かに身を引いた。
「――ヴァ……」
「先に言っとくが」
 言い挿したのを遮ってオーマは続ける。一転して、ニヤリと気の良い笑みを浮かべた。
「ヴァンサーだからってのは、なしだ」
 ざわり、と風が鳴った。
 オーマはとっさに女性から離れて、大きく後ろへと跳ぶ。微かに違和感がして、見れば服に鋭い刃で切った跡があった。
「ヴァンサーだから。それで理由は十分ですっ」
 言い放つと同時に地を蹴って、真っ直ぐにオーマへと向いくる。その手に、武器らしきものはない。しかし服を裂くだけの何かは確実にあるのだ。彼女が具現化した何か、が。
 突き出された右手を余裕を持ってかわして、オーマは右に跳び退る。耳元でひゅい、と風を切る高い音がして、頬に痛みを覚えた。
「――ヴァンサーなんて、いなければ良かったのです」
 機敏に回転して横薙ぎされた右手を、更に後ろに跳んでやり過ごす。眼前を風が音を立てて駆け抜けて。彼女が一歩踏み出すより先に、間合いを取って後退する。
「ヴァンサーなんて」
 彼女の動きに合わせて、紅い髪が舞う。低い位置を掠めた手に、緑が散った。オーマを追って、白のスカートが流れを変える。
 戦っていてなお、ダンスを続けるように二人は回り続ける。けれどダンスはいつか終わるものなのだ。
 後ろへさがりながらオーマは巨大銃を具現化する。その銃口を、真っ直ぐに彼女へと向けた。
「そんな大きな武器で。何ができるというの」
 重さを考えれば、敏捷性の高い彼女と渡りあうには不向きだろう。素早く左右に移動して、彼女はオーマを狙ってくる。接近を許さないよう、足元を狙って立て続けて銃を撃った。
「当ってないわよ」
 向けられた銃口の僅か先まで迫った彼女は、上へ跳んだ。落下の加速を利用して一気に叩くつもりだろうか。
 既に彼女は銃の射程ではない。普通に考えれば、銃を捨てて距離を取るのだろう。しかし、それは普通に考えてのこと。
 振り下ろされる右手に、オーマはやすやすと銃を掲げて――。
 いゅん、と耳の奥を這うような音が残った。
「俺様のナイスな筋肉をばかにしちゃいけねぇぜ」
 自慢げにオーマは笑って、攻撃を受けていた巨大銃を振る。全体重をかけている女性ごと、だ。振り払われて飛ばされた方もうまく受けて、やや距離を置いたところに着地する。
「嬢ちゃんのもたいしたもんだぜ? 刃が見えねぇんじゃ、困るってもんだ」
 あっさりと言ってのけて、オーマは巨大銃の具現化を解除する。力の差を痛感してか、女性はその場を動かない。しかし睨みつける視線には変わることなく敵意が、憎しみが溢れていた。
 終わりにしねぇか、とオーマは言った。
「ヴァンサー全部を殺して、そいで嬢ちゃんの気が晴れるってなら話は別だがよ」
 彼女を突き動かすものが何なのか、今までにどれだけのヴァンサーを手に掛けてきたのか、それはオーマの知るところではない。これからも続けるなら、封印すべきだと思う。
 だが、
「嬢ちゃんは、それで満足ってわけじゃなさそーだし」
 視線が揺らいだ。避けるように閉じられた瞳が、自らの立つ場所を探しているように、オーマには見えた。
「別の生き方ってのも、なんかはあるだろうよ」
 救いたいと思ってはいけないのだろうか。救わねば、と思うのは何故だろうか。まぁ俺様は医者だしな、とオーマは心の内で呟く。しかし医者にできることも高が知れている。この先を決めるのは彼女自身でしかないのだ。
「俺様ならいつでも歓迎すっから、用があんなら訪ねてくりゃいいさ」
 何時の間にか風の凪いだ草地を、オーマは横切って岐路に着く。木立の間を進みかけて、一度だけ振り返った。
 淡い緑の隙間で、赤と白が風に舞っていた。