<東京怪談ノベル(シングル)>


追憶の籠

小鳥よ、小鳥
お前は飛んでいってしまった
私の元には、壊れた籠があるばかり――。


 聖都エルザードの上に、蒼い帳が下りている。
 夜の間、聖都を包んでいた濃紺のそれから、僅かばかりに色を変えたコバルトブルーの闇の中、まだ、聖都は深い眠りの淵に沈んでいた。太陽が東の空から昇り始める前の張り詰めた冷たい空気が辺りの音を吸い込んでいるのか、星の瞬く音さえも聞こえてしまいそうな静けさが、漂っている。世界を守る聖獣たちも、一時、その眠りに捕らわれてしまっているのか……。動くものなどいない都は、時間の狭間に落ち込んでしまったかのような錯覚さえも起こさせた。
 眠りと闇に沈んだ都で、たったひとつ、オレンジ色の明かりの灯された窓がみえる。それは、天使の広場の近くにある、シュヴァルツ総合病院の窓の一つだった。その窓から、悲しくなるほどに暖かい灯りが、冷たく冷え切った石畳の上に、惜しげもなく零れ落ちているのだ。


 そっと、大きく温かい掌が、病室のベッドに力なく横たわる老婦人の額に置かれた。じんわりと染込むように、彼女の額へと掌の熱が伝わっていく。患者の熱をみる為においたハズのそれから、少しづつではあるが、熱を奪われていく感覚に、オーマ・シュヴァルツは軽く眉根を寄せた。
 熱はない……が、コイツは……。
 夜半、容態を急変させた老婦人に付き添うオーマの顔色は、冴えない。長い長い――気が遠くなるほどの時間を、医者として、ヴァンサーとして過ごしてきた男は、移り変ゆく生と死の輪に否応なしに関わり続けており、それゆえに、漂う死の匂いには敏感だった。今、目の前の患者から、その匂いがする。残された時間は、長くない……そのことが、彼にはよく分かっていたのだ。
「先生。」
 荒い息をつきながら、老婦人が掠れた声でオーマを呼んだ。一言、言葉を口にするたびに、彼女の喉が、ふいごのような音を立てる。それが苦しいのか、ベッドの中で老婦人は寝返りを打った。
「……先生は、懐かしいと、そう思うような場所があるかい……?故郷とか、忘れられない場所、とか。」
「おうおう、どうした?そんなことが、気になるのかい。」
 唐突な問いだ。だが、ニヤリと笑いながらも、オーマはその問いの答えを考え始める。医者として、己を頼る病人を無碍には扱いたくなかったからだ。
 オーマの故郷は、聖都エルザードではない。かといって、ソーンの中にある訳でもない。こことは異なる別の世界、ウォズという異形の怪物に侵食され、死せる領域と、唯一人の手に残された人工浮遊大陸に分かたれた、その世界こそが彼の故郷だった。忘れることができない世界。しかし。目の前の病人の求めるものとは、少しばかり、違うような気がしてならない。ウォズの侵攻、ヴァンサーの仕事。それらは、故郷を離れた今でもオーマの周りに纏わりついているし、何よりも。
 あちらの世界には、彼の愛する家族はいないから。
「俺の故郷は、愛する家族のいる場所ってトコロかね。ま、これも、オヤジのラヴパワーのなせる技ってか?」
 病室の中に漂いそうになる不安や悲壮感、そんなものを吹き飛ばそうとするかの如く、オーマは殊更、明るく笑った。今、目の前で横たわっている老婦人は、今年に入ってからオーマの病院に通うようになった患者だった。それまで、何処にいたのか、どんな人生を送ってきたのか、詳しいことは何も知らない。ただ、噂で、彼女が随分と寂しい人生を過ごしてきたらしいと、耳に挟んだことがあるだけだ。だが、オーマは、医者として、彼女を明るく送り出そうと決めていた。
 例え、どんなに辛い人生だったとしても、否、辛い人生だったからこそ、最期くらい明るくてもいいではないか……。
 そんな彼の気持ちに、恐らくは気がついていないだろう老婦人は、肩で息を付きながらも淡く微笑んだ。
「先生らしいねェ……。家族がいる所が故郷だって、そう言える先生が羨ましいよ。」
 そう言って彼女は大きく息を付き、もう一度、口を開いた。
「……あたしはね、先生、聖都から、ずっと離れた村の出なのよ。生まれた時から、ずっとそこで暮らしてたの。……でもねぇ、もう、30年は前になるけど……大きな火事があってね、故郷がなくなってしまったのさ……。悲しかったね。」
「それから、帰ってないのかい、婆さん?」
「帰ってないよ。火事の時に、旦那と子供を亡くしちまってね……それを思い出すのが辛くて、戻れなかったのさ。でもね、忘れた日なんて、一日だってなかった……。」
 閉じられていた老婦人の目が、薄っすらと開かれる。曇りがかった灰色の目。恐らく、もうはっきりと周囲を見ることなど出来ないだろう目で、彼女は天井を見つめながら、夢見るように呟いた。
「あの、風が枝を揺する音も、木の葉のサラサラと擦れる音も、花の香りも、小鳥の声も……。ふふ…、懐かしい、ねぇ……。」
 ほう、と幸せそうに息を吐き出して、老婦人は再び目を閉じる。
「もう、1度だけでも、帰り、たいね……」
 にっこりと少女のように微笑んで、老婦人は深い眠りに落ちていった。彼女の家族の待っているだろう、永い永い、朝の来ない眠りの中に。そんな彼女の力の抜けた両手を、しっかりと胸の上で組み合わせてやりながら、オーマは彼女の最期の望みを叶えてやろうと思った。帰れなかった故郷に、骨だけでも返してやろう、と。その彼の背を、空に昇ったばかりの太陽が、静かに照らしていた。


 何気なく一歩踏み出した足の下で、さくりと小さな音がする。
 さくり、さくり。
 季節は、未だに冬、聖都エルザードを少し離れただけで、周囲の景色は雪化粧を施されたものに変わった。周囲のみならず、道の上にも白いそれが当然の如く、降り積もっている。まだ、柔らかい雪を一歩一歩踏みしめながら、オーマは森の奥にある目的地を目指していた。
 彼が、あの老婦人の最期の願いを叶えようと決めてから、僅かに数日。その間に、どこから聞いて来たものか、オーマは老婦人の故郷を探り出していた。そこは、既に人が住まなくなって久しく、森の奥深い為に、夏場でも近寄る者は殆どいない場所らしい。その僻地とも言える場所が、冬はどうなっているか、想像するのは難しくなかった。
「やれやれ、聖都から、ちぃっとばかし離れただけで、こんなに違うモンかね。」
 思っていた以上に深い、道の上に積もった雪を掻き分けながらの行軍を停止して、オーマは額に掻きはじめていた汗を拭う。歩いていた時には気が付かなかったが、周囲の空気は肺の中に染み渡るほどに冷たくかった。その空気を大きく胸一杯に吸い込んで、オーマは木々の重なり合った空間から見える、淡い水色をした冬の空を見上げた。頭上から、静かに、柔らかな陽光が降り注いでいる。
「……?」
 空を見上げ、森を見まわしながら、オーマは奇妙なことに気が付いた。周囲に動くものなどいない場所なのに、先ほどから何かに見られているような気がするのである。澄みきった空気を通して、じぃっと目を凝らしている、そんな存在がいる……そう彼は感じたが、その存在を探り当てることは出来そうにない。
「生物の気配はない、となると。……まさか、な。」
 ポツリと呟いたあとで、オーマは思考の海に沈み込もうとする意識を現実に引き戻そうとするかの如く、大きく首を回した。雪中行軍に疲れていたのか、ボキリボキリと首の周りの筋肉が大きな音を立てる。そして、彼の上着のしっかりと留め金のかけられた内ポケットの中で、ガラスが触れ合ったような微かな音がした。まるで、足を止めたままのオーマに、先へ進めと促すようなそれに、彼は、僅かに笑みを零した。
「そう、慌てなさんなって。もう少しさ、婆さん……。」
 内ポケットのある辺りを、そっと上から片手で押さえて、オーマは静かに語りかけた。視界の先には、以前の火事で焼かれたのか、黒い焦げ痕の残る木が、ちらほらと見えている。目指す場所は、まもなくであるに違いない。
 それを確信して、彼は再び、白く染まった道を歩く事に専念しはじめた。



誰だ……?
私の元へ、やってくる、お前は一体、何者だ?
いなくなった愛しい小鳥、否、違う……。
お前は、あぁ……お前は――。



 「なんだ、こりゃ?!」
 ようやく、辿りついた目的地にて、オーマは思わず息を飲んだ。彼の目の前には、火事で全て焼けてしまった筈の村が、まるで火事などなかったかのように存在していた。
 おとぎ話にでも出てきそうな小さな家の並ぶ村、そして、その回りをグルリと囲む何本ものライラックの木……。
 どこにでもある、平穏な小さな村だ。ただし、雪の中だというのに、ライラックが白や紫の綺麗は花を咲かせていることを除けば。
 ゆっくりとした足取りで、オーマは村の中を歩き回る。のんびりと散策でもしているかのような、そんな気配だったが、彼の目は油断なく周囲を観察していた。おかしい、おかしい……そう、さわぐ声が脳裏に響き、違和感が、オーマの身体を駆け抜ける。
 何がそれほどまでに、おかしいと感じるのか。その正体は、すぐに判明した。
 村には、命あるものの気配がなかったのである。
「ウォズの具象化能力、か……?」
 強い想いが、死せる領域から異形のそれを呼び寄せる。その異形の存在の名を、オーマの口が刻んだ。彼の声に反応するように、風もないのにザワリ……と不自然にライラックの木々が、その身を揺らす。
(だったら、どうしたというのだ、ヴァンサーよ?)
 それは声ではなかった。立ち並ぶライラックの梢が揺れて、葉が涼しげな音を立てる。その音の中に、人とは違う、しかし確かに強固な意志が存在していた。
(私を、封印するのかね?)
 ざわり、ざわり、と緑色を纏った木々が揺れる。その度に、香りのないライラックの淡い花びらが、雪上に己の色を散らせた。
 そこは、籠だった。緑の木々の格子が嵌められた鳥籠だ。頭上には、柔らかな陽射しを待とう、透明な薄緑の天蓋が覆いかぶさり、その中から囁くような、それでいて響くような声が降ってくる。
「……封印すると、そういったら、どうするつもりだ?」
 戦うのか、俺と?
 言葉にしなかった一言を感じ取ったのか、緑色の天蓋に潜むものが、虚ろな声で呟く。
(どうにもせぬな。寧ろ、ひと思いに殺して貰いたいものだ。)
 声の主は笑った。そう、笑っていた。虚ろで、悲しい、乾く事のない涙が染み込んでしまったような、そんな声で、天蓋の主は笑った。
「おいおい、勘弁してくれ。俺は、そんなリスクを背負い込むのは御免被る。なんせ、不殺が俺のポリシーなもんでね。」
 さも、御免と言わんばかりにオーマは肩を竦めてみせる。おどけたような、大仰な仕草だったが、それをしながら、彼はウォズ本体の気配を探っていた村を取り囲む木々のどれかに、恐らく、ウォズがいるのだろう。そう予想をつけて、素早く周囲に目を走らせ……そして、それを見つけた。
 ライラックの木々の向こう、村外れにあるマグノリアの木だ。見事なまでに成長した、その木からウォズの気配を感じる。何より、その木には普通ではない色が絡みついていた。目に見える色ではない、それは想いの固まりのようなモノ。それが、マグノリアの木の周りに淀み、漂っている。
 その色を見て、オーマは悟った。
「寂しかったのか……?」
 こんな場所を作ってしまうほどに。
 唐突に投げつけられた問いに、ウォズによって具現化された木々が、途惑ったように揺れてざわめく。
(寂しかっただと?……あぁ、寂しかったさ。あの日、忌まわしき災禍の日、多くの者は逝き、残った者は去った。……去った者達は、何年待っても、戻ってこなかった……。)
 だから、作り上げた。記憶の中にある、災禍にみまわれる前の村を。あの頃の景色を。
 村人の暮らしていた緑色の揺り篭を、再び、この場所に作れば誰かしら帰ってくるのではと、そう思ったから。
 そして、あの頃の景色の中、作られた鳥篭に自分を閉じ込めておかなければ、心が、壊れてしまいそうだったから。
「大切だったんだな?」
 風に揺れる枝が、大きなマグノリアの木の幹が、ギシリを軋む。ウォズの咽び泣く声なき声が、作られた村に木霊する。オーマは、静かにウォズに近づいた。
「彼らは、お前にとっての家族だったんだよな。」
(そうだ。ヴァンサー。一人、この世界に来た私にとって、彼らは、共に生きる家族だった。……だから、いつまでも、傍で暮らしていけるものと、そう思っていた……。)
 愛する者、大切な者が傍にいる世界、それが自分のあるべき場所となりうる。家族のいない世界は辛過ぎる。誰よりも家族を愛するオーマには、目の前のウォズの気持ちが、よく分かった。
 あぁ、コイツは、俺と同じだ。
 フっと、自嘲気味の笑みを口の端に乗せて、オーマは上着の内側にある留め金を外し、それをポケットから取り出した。
(……なんだ、それは?)
 オーマの取り出したガラスの瓶に、ウォズの注意が向けられる。薄い水色をした瓶の中には、細かい粉のような、灰のような物が入っていた。
「先日、俺の病院で亡くなった婆さんさ。……この村の住人だった人で、恐らくは、お前の家族の1人だ。」
 話ながら、オーマはその瓶をマグノリアの木の根元に置いた。途端に、ぐにゅりと木の根元が歪む。否、木の形をしているだけのウォズが、僅かながら身を開いたのだ。
(おぉ……私の……。)
 歪んだ空間は、瓶を優しく抱き込こむように絡めとり、目的のものを内側に引き込むと静かに閉じられていく。鳥籠の主の、安堵のため息と共に。
「これで、もう1人じゃないぜ。お前も、婆さんも、な。」
 歓喜に身を震わせる緑色の天蓋に向って呟く。返事は、なかった。だが、マグノリアの木の周りに漂っていた悲しみの色が、少しだけ薄くなったのを認めて、オーマは黙って踵を返した。そして、鳥籠の外へと、早足で抜け出す。そこで、大きく伸びをひとつして、オーマは明るく笑った。
「さぁて、俺も帰るとするかぁ?」
 聖都エルザード、家族の待つ、自分の家へ。
 足取りも軽く、来た道を戻るオーマの後ろで、役目を終えた緑色の鳥籠が、蜃気楼のように揺らめきながら消えた。




■了■