<東京怪談ノベル(シングル)>
錠熱
夢を見ていたような気がした。
声が聞こえていた。知らない、誰かの声だ。それを特定する事は出来ず、聞こえてくるその声だけを聞いていた。
何を言っているかも分からぬ。言葉として成り立っているのかも分からぬ。分かっているのは、誰かが何かを声として出していたという事だけだ。
ただ、それだけだった。
「焚き火、ですね」
流雨(るう)は窓の外を見つめ、小さく微笑んだ。ゆらゆらと燃える炎の周りで、人々が笑いながら火に当たっている。びゅう、という冷たい北風にゆらゆらと揺れている火は、寒い空気と戦っているかのようだ。周りの人の「温かい」という声援を受け、踏ん張っているかのようにも見えるから不思議だ。
流雨はそんな火を見て、不意に懐かしく思えてきた。懐かしい、という感覚は不意にやってくるのだという事を知り、また一つ発見をしてしまったとも思いながら。
(あれは……私が11歳くらいの時でしたっけ)
流雨は思い返す。それは流雨がまだ、髪と同じ桜色の瞳を持っていた頃の出来事であった。
ようやく養父との生活にも慣れ、学校というものに通うことになった。
「行って来ます」
ぺこり、と流雨は頭を下げてから学校へと向かった。養父はただ「ん」とだけ答え、その姿を見送っていた。流雨は養父の姿をもう一度見、ドアを閉めた。その途端、大きな溜息が出てきた。
(学校に、行かなくてはならないなんて……)
流雨はとぼとぼと歩き始める。苦痛で仕方がないとでも言わんばかりに。
(どこがいいのかが、全く分かりません)
実際、学校という場所は苦痛であった。存在するだけで、そこにいるだけで苦痛が伴うのだ。勉学を教えるというが、それならば学者である養父に習えばいいだけの事。学校に行く必要はどこにあるのだろうか?
「見ろよ、流雨だぜ」
ひそひそと、学校が近付くにつれて声が聞こえてきた。流雨は聞こえてきた声を無視して歩きつづける。校門が近付くたび、校舎が近付くたび、足は重く重くなっていき、全身に気だるさが広がっていった。
結局、ひそひそ話と拒否反応は、学校にいる間中続くのだ。
ガラリ、と教室の戸を開けると、一気に皆が注目してきた。ざわざわと騒がしかった教室内も一気に静かになり、しんとした空気が流れる。
「……おはようございます」
流雨はぽつりと呟くように言い、すたすたと歩いて席につく。一番後ろの、端の席。誰にも関わらなくて済むような席。
(どうしてこんな風になってしまったんでしょうか)
流雨は幾度となく思い返していた。この学校という場所に着たばかりの頃は、クラスメイト達も自分に関わろうと色々話し掛けてきていた。「一緒に遊ぼう」だとか「今日、一緒に帰ろう」だとか。だが、誘われる時に限って遊びたいという気持ちは起きていなかったのだし、帰ろうと誘われても何を話していいか分からないから断っていた。
そうして、誘いを断り、人と話すことを諦めていった。結果、どうなるかなどと手に取るように分かっていたのに。
(これが、距離なんです)
自分の周りに人はいない。流雨は俯く。
(私と他人の、距離……)
流雨は誰にも聞こえぬように小さく呟く。「寂しくなんか無い」と。
「ねえ、流雨」
ふと声をかけられ、流雨は顔をあげた。すると、そこには4・5人のクラスメイト達が自分の席の前に立っていた。厳しい表情をして立っているクラスメイト達に、思わず流雨は眉を顰める。
「……何ですか?」
「いい加減にして欲しいんだけど」
突如口から出てきたのは、流雨にとっては信じられぬものであった。いい加減にして欲しい、というのは相手が自分の行動に対して何かしらの不愉快を感じているからだ。何もしていない自分が、相手に影響を及ぼしているとは到底思わなかったからだ。
「いい加減にして欲しいとは、何をですか?」
震える声で、流雨は尋ねた。クラスメイト達は顔を見合わせてから、キッと流雨を睨みつけた。
「そういう態度とか……!分かるでしょう?自分で」
(……苦しくない)
一つ、鍵をかける。がちゃん、と。
「そう言う風に自分の殻に閉じこもってさ、どういうつもりなの?」
(辛くなんて、ない)
また一つ、鍵をかける。大事な作業なのだと自分に言い聞かせて。
「そうやって協調の輪を乱したりしないでよね!」
(哀しくない)
もう一つ、鍵をかける。これ以上自分を傷つけないように。
「はっきり言って、迷惑なんだよね!」
(痛くなんて……!)
鍵をおろそうとし、流雨はガタンと音を立てながら立ち上がった。突然の出来事に、流雨に詰め寄っていたクラスメイトたちが一歩下がる。流雨はそんなクラスメイトを無視し、教室を飛び出していった。何人かが背中から「逃げる気?」だとか「どこ行くのよ?」だとか声をかけてきたような気がしたが、流雨の頭には入ってこなかった。ともかくあの場所から逃げ出し、一刻も早く全ての錠を下ろしてしまわなければと思ったのだ。
(早く、早く、早く……!)
流雨は走り、風を切り、そうして屋上に辿り着いた。どうやって走ってきたのか、どのような経路でやってきたのかは全く分からない。ただただ本能の赴くままに箸って逃げてきたのだ。
流雨は屋上のドアをバタンと閉め、大きく深呼吸をして息を整える。
「……苦しくない」
ぽつり、と呟く。簡単な事だといわんばかりに。
「辛くなんて無い」
再び呟く。びゅう、と屋上に吹く風は、流雨の体を駆け抜ける。
「哀しくないし、寂しくなんて無い」
がちゃん、がちゃんと錠がおりていく。何と簡単な事だろうと、流雨は思わずに入られない。傷つく事は恐ろしく、つけられた傷は治る事無いのだ。ならば、答えは簡単だ。至ってシンプルである。
傷をつけられぬよう、守ってしまえばいいのだ。自分の中に、傷つけられる要素として存在している感情を、片っ端から殺していけばいいだけなのだ……!
「痛くなんて……痛くなんて……!」
「……分かるよ」
流雨ははっと顔をあげた。最後に残っていた、傷を隠す為の言葉が不意に止められた。優しく暖かな声が、流雨に聞こえてきたから。
「誰……ですか?」
尋ねる流雨の声に応える事なく、声は続けられた。
「僕には分かるよ、流雨。君の中にある炎が」
炎。その言葉を聞いた途端、流雨は声もあげずに叫んだ。体中が熱く、燃え上がるかのようだ。流雨の心の中に存在していた炎が、言葉によって露出したかのように。
「君は叫んでいたから。……ずっとずっと、炎を胸に宿していたから」
優しい声は流雨を包み込むかのように言葉を紡ぐ。
(……炎が)
――寂しい。
(炎が体の中で)
――苦しい。
(ぐるぐると渦巻いて)
――辛い。哀しい。
(身のうちを焦がして)
――痛くて痛くて。
「どうしようもない……!」
ごお、と炎が渦巻いた。流雨の体の中ではなく、流雨の目の前で。炎はゆっくりと形となり、流雨にそっと手を差し出した。流雨はその手に誘われるままに、手をそっと差し出した。ゆっくりと差し出した手は、やがて炎の手と結ばれた。
すると、炎と流雨を中心として風が吹き荒れ、魔方陣が現れた。その魔方陣は勢い良く小さくなっていき、やがて流雨の瞳に収まっていった。
「……私、は」
しばらくして流雨ははっとし、ポケットから鏡を取り出した。夢か現かといったように物事が起こってしまったから、現実感が無かったのだ。そっと鏡を覗くと、自分の目の色は黒となっていた。桜色だった自分の瞳は、もうない。あるのは魔方陣をその目に秘めた、漆黒の瞳だけ。
「私の、目が……」
流雨がそう言いかけた瞬間、屋上のドアがバタンと開かれた。現れたのは、流雨に詰め寄ったのクラスメイト達であった。
「……ここにいたのね、流雨!逃げずに……」
話を、と言おうとしたクラスメイト達は、振り向いた流雨を見てはっと顔色を変えた。ガタガタと震えながらクラスメイト達を見ている流雨の瞳が、真っ黒だったから。
「何よ、その目……何でいきなり黒くなってるのよ?」
「そんなの……私が……私が知りたいことです……!」
流雨はそう叫び、クラスメイト達に向かって大きく腕を振りかざした。すると、流雨の腕から炎が生み出され、クラスメイト達を屋上の壁に叩きつけてしまった。叩き付けられたクラスメイト達は、誰もが咳き込み、誰もが苦しそうに倒れこんだ。
「……あ……ああ」
その惨状に、流雨は顔を真っ青にしながら一歩後ろに下がった。ガタガタと震える腕を抱き締めて。
漆黒の瞳、無意識に出た力。それのなんと恐ろしい事か……!
(怖い……!)
流雨は叫んだ。言葉にならない叫び声が、流雨の嫌いな学校中に響き渡っていくのであった。
それから、二度と流雨は学校に行く事は無かった。人と関わるのが、たまらなく恐ろしかったのだ。自分が傷つくのは苦しく哀しいが、他人を傷つけるのが尤も怖い事だから。
「……いいのか、流雨?」
「はい」
養父と二人だけの生活を選んだ流雨に、今一度養父は尋ねてきた。それに、きっぱりと流雨は応えた。
「師匠との生活が、私はいいんです」
流雨はそう言い、真っ直ぐに養父に目を向けた。
漆黒に変わってしまった目で、未だに変わらぬ信念を秘めたままに。
<かけた鍵は熱く燃え上がり・了>
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