<東京怪談ノベル(シングル)>


「穏やかな優しい町に」


 水無月まりん(みなづき・まりん)は、ゆっくりと町へと向かう坂を下りていた。
 今日はまりんの手元には何の依頼もない。
 いつも忙しく、海の友達のために立ち働いている彼女である、今日ぐらいはのんびりとお休みしてもいいはずだ。
 空は見事なくらいに真っ青で、彼女の大好きな海よりもなお青かった。
 右手にはその海が広がっていて、遠くから来る船の真っ白な帆や、もっと遠くでは海豚が水しぶきを上げて泳ぐ様子も彼女には見て取れる。
「今日は気持ちのいい日だなぁ」
 にこにことご機嫌な笑顔を誰にともなく振りまきながら、まりんはそうつぶやいた。
 こんな日は、どんなに嫌なことがあった人でも、この暖かい空気と偉大な自然の広がりを味わえば、必ず機嫌など回復するだろう、そう彼女は思う。
 まりんは散歩が大好きだった。
 お休みの日は決まって、いろいろなところに足を運ぶ。
 今日は町まで買い物だ。
「何を買おうかな」
 買いたいものはいろいろある。
 とりあえず一通り見て回ろうと、まりんは広場を囲むいろんな店の軒先を覗き込んだ。
 この季節は、はしりの果実が店を鮮やかに彩っていた。
 まりんはうれしくなって、銀貨を数枚取り出し、元気に店主に差し出した。
「この赤い実ください!」
「あいよ、お嬢ちゃん」
 店主はまりんのかわいらしい笑顔に、いくつかおまけをしてくれた。
 それだけで、今日は一日、幸運になりそうだ。
 袋の中からひとつ取り出し、赤くてつやつやのその実をかじってみる。
「甘ーい!」
 口の中に広がる芳醇な香りと少し濃い目の甘さと酸っぱさがとてもとてもおいしい。
 初めて見る果物だった。
 名前を聞いておけばよかった、とまりんは思ったが、この季節であればどこの店にもあるだろう。
 散歩は別に、今日だけしか出来ない訳ではないのだから。
 こうしてひとつお気に入りを増やしたところで、まりんは広場の噴水に近寄った。
 その薄い茶色の石で出来た淵に腰を下ろし、行きかう人々を見やる。
 まりんの思ったとおりだった。
 今日道を行く人々はみな、笑顔にあふれている。
「こんなにぽかぽかした日だもん、当然だよね」
 何だか自分までうれしくなって、まりんは更に更にご機嫌になる。
 弾んだ足取りで、今度は新しく出来たらしいお茶を売る店に向かった。
 そこは、いくつかの椅子と小さなテーブルが外に置かれていて、何人かの客が繊細な陶器のカップでお茶を楽しんでいた。
 海沿いの町だ、酒場はいくらでもあったが、こういうお店を見かけるのは初めてである。
 まりんは、銅の鈴のついた木の扉をそっと押し開けた。
 カラン、と軽やかな音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
 カウンターは木製で、店の壁にはたくさんのガラスの器が並んでいた。
 そこには無論、お茶の葉が入っていて、値札を見ると、量り売りをしているようだ。
 店の一角には、棚が並んでいて、美味しそうなパンがいくつも並べられている。
 また、焼き菓子も置かれていた。
「お持ち帰りでしょうか?」
「あ、えっと……」
 まりんは慌てて店主を見やる。
 店主は穏やかそうな笑顔を浮かべた老婦人だった。
「こちらは初めてですか?」
「あ、はい」
 老婦人はゆっくりとうなずいて、まりんに小さなカップを差し出した。
「今日入ったばかりのお茶ですよ。遠い異国のね」
「ありがとう!」
 まりんはその藍色の模様の入ったカップを受け取って、そっと口に運んだ。
 いぶしたような香りと、喉の奥がすっきりするようなその味は、海のものではなく、山のもののにおいがした。
「不思議な味がする……でもおいしい」
「そうでしょう?これはとても身体にいいお茶なのよ」
 老婦人はふわりと微笑んだ。
「疲れを癒して、気持ちもやさしくしてくれるわ」
 確かに、とまりんは思う。
 何だかとても気持ちが静かになったような気がした。
「このお茶、少しもらえますか?あ、それと、このパンとお菓子も」
「はいはい」
 先ほどと同じように銀貨をいくつかカウンターに乗せ、まりんは店内を改めて見回した。
 落ち着く雰囲気が心地いい。
 茶色の紙の袋にお茶といくつかのパンを詰めてもらい、まりんはまた腕に抱えた。
「またいらしてくださいね」
「ええ、もちろんです!」
 まりんは勢いよくうなずいた。
 こうして、夕方まで気持ちのいい気分のまま、彼女はいくつかの買い物を済ませ、帰途に就いた。
 途中、ふと何かを耳にしたような気がして、まりんは足を止めた。
「……鳴き声がする」
 耳をすませ、辺りの気配を探る。
 すると。
 彼女の立つ位置より少しだけ崖寄りのところに、小さな小さなくぼみがあり、そこから声がするのが聞こえたのだ。
 まりんは相手を脅かさないように、足音を極力抑えて、くぼみに近寄り、そこをのぞき込んだ。
「小猫、かな」
 ミィ、とその白い塊はか細い声を出した。
 どうやら親猫とはぐれてしまったようだ。
「おなかが、すいてるの?」
 まりんがそう尋ねると、小猫はまた一声、ミィ、と鳴いた。
 まりんは自分の持っていた紙袋からキツネ色に焼けたパンを取り出し、端を小さくちぎって猫の目の前に置いた。
「おいしいよ」
 まりんの気持ちが伝わったのか、猫はパンをなめ、それからおずおずと端をかじり出した。
 もう二切れくらい、猫の食べやすいようにパンをちぎり、まりんはそっと猫の側に置いた。
「また来るね!」
 猫は一心不乱にパンを食べていたが、片手を振ったまりんに向かって、さっきより元気な声で鳴いて応えた。
 それにとびっきりの笑顔を返して、まりんは坂道を登り始めた。
「今日はいっぱいいろんないいことに出会えたよね」
 こういう出会いがあるから、散歩が好きなのだ。
 人も、町も、まりんにやさしい。
 こうして、橙色の西日が彼女をやさしく包み込む中、まりんはゆっくりと家路をたどった。

〜END〜