<東京怪談ノベル(シングル)>



++   蜂蜜色の、導く光   ++

僕の願う事は全て 僕の思う通りにはなりません
けれど
不思議と嫌だとは思わないんです
時折 焦れる事もあるし
投げ出したくなる事もある
けれど
結局僕は…本当の意味で嫌だなんて思った事はないんです
だってそれは、どれも自身が強く望んだものだから


「蜂蜜色をした――お月さま…だね
シトリン色の輝きは僕の心をいつも 支えてくれる。
この光を見ると とても、安心するんです」
自身の人差し指に嵌められた黄水晶の指輪を眺めながら、彼はにっこりと微笑んだ。
それから、おかしい事に気がついた。
自分が「笑おう」と思って笑顔を作った事に。
「これは夢なんですね…僕が、笑える筈が無い…どんな風にしたらいいのかも解らないのに」
夢の中でさえも、ファサードは誰かに問い掛けていた。

夜も明けきらぬ頃、彼は不意に目を覚ました。
誰かの声が聞こえたような気がして、彼は辺りをくるりと見回す。
紅色の瞳に灯りの点ったランプの光が、ちらりと揺れる。
ぽぽっと炎の揺らぐ音がして、彼はもう一度そちらに視線を向けた。その向こうでクマの縫ぐるみと、髪の長い女の子の人形が仲良く手を繋いで眠っていた。
「…ちょっと妬けますねぇ。でも、まぁ…」
永く腰掛けていた工房の椅子から立ち上がると、彼は二人を思い切り抱き締めた。
「可愛いから許すとしましょうか〜」
二体の人形は彼の腕の中で向きを変え、彼にしっかりと抱きついた。
彼は思わずきゅう、と更に強く抱き締める。
「あぁ…可愛い…君達はどうしてこんなに可愛いんでしょうねぇ」
ファサードは半ばうっとりとした様子で二人を眺めると、優しくその頭を撫で付けてやった。
「少し待っていて下さいね…今、可愛い女の子のクマさんを作っている最中ですから…もうすぐできますよ…ふふ」
途端にクマの縫ぐるみは嬉しそうにしたが、女の子の人形はぴたりと動きを止めた。
この二体の間に諍いが起こりつつある。
だのにファサードはのんびりとした穏やかな表情をしていた。
「少し体も休めましたし作業を続けましょうか…と、その前に少し目を覚ましてきますね」
彼はそう告げると、洗面台の方へと向かった。
水音のする、夜明け前の静けさと蒼さを保った洗面所。
蛇口を捻って水を少量出すと、それを両手に受けて顔を近付けた。
しかし彼は、触れる寸前で動きを止めた。
黒い水面に自分の顔が映り込んでいた。
もう少し赤い瞳をしていた筈なのに、今夜は随分と暗い。
ファサードは眠気のような、体ごとを引っ張られる感覚に襲われて、手の平の水に吸い込まれるように顔を突っ伏した――そのまま、水に顔が触れる筈だった。


「――貴方は この世界で 唯一の人
皆が皆 そうであるように」
ぴちゃりと水の弾む音のする――そこは、洞窟の最奥のような場所だった。
真っ暗で、水の音だけが響く。その静けさの中に、透通るような 小さな声が響いた。
「私が私一人しか居ないのと 同じように」
目の前に藍色の髪をした一体の人形が、黒い大きな瞳で彼の事をじっと見詰めて佇んでいた。
どの辺りに岩があるのか、彼女がどこに居るのか…それを感じられる程度には、薄らと明るい。
どうやら知らない場所へと連れてこられたらしい。
「…君は、誰なの」
「貴方が私の問い掛けに正しく返答をしてくれたなら…名乗っても いいわ」
「…僕に、何を聞きたいんですか」
「貴方はこの世界に唯一人」
「でも、僕は…人形です」
「いくらでも同じ物が作れる、と?」
音が反響する――少女の人形は、くすりと笑った。
「違うわ、貴方という存在は唯一。
私が私一人しか存在しないのと同じように」
「…でも」
彼女の中には一つの揺らぎも無かった。
ファサードの中にある、常に抱えている憂いのような揺らぎが――
「同材同質同所から生まれ出ても、それは異なる物。それぞれ一つの、唯一の物。そうでしょう?」
「…君、は?」
「決して「同じ」では在り得ない」
「ねぇ、君…」
「同時にそれは「孤独」を表すわ」
「僕は…独りきり。でも、皆さんが居る。僕は…」
瑠璃色をした指輪が彼の薬指にぴたりと納められていた。
ファサードはその指輪の在処を探って指を辿る。
「同じ気持ちなんて事も 在り得ないのよ。
同じようでいて、どこか異なる。貴方も、同じ。
その辺の人形と同じようでいて、違う。そして人のようでいて、それもまた 違う」
ファサードの指はそこにある筈の瑠璃色の指輪に触れる寸前で、止められた。
その指は微かに震えていた。
「貴方は、とても 異質な存在」
「僕は…ね…皆さんと…」
「ねぇ、だから…やがて貴方は独りになるわ。誰からも、どこからも受け入れられず、独りになる。
きっと貴方は それに耐えられない…そうでしょう?」
「――…えぇ。でも、僕は」
「ならば私とここに居ましょう。私は決してここを離れられないの。なら、貴方もここを離れなければいい。そうすればいつまでも一緒よ。決して独りきりではないわ」
「――けれど、僕には想う人達が居るんです。その人達は、僕を想ってくれた。だから…僕は帰らなくちゃ…ここには居られない」
「そんな事、ないわ。
貴方は必ず望むようになる。
行き場の無くなったその体を、魂を連れて、私の元へ来るわ…必ず、ね。
強情を張らなくていいのよ。私とここで、上手く共生してゆきましょう」
「――駄目です…僕は…僕は」
ファサードは酷く声を震わせて、指に嵌めた指輪を思い切り強く握り締めた。
途端に明るい、暖かな光が手元から漏れ出した。
「指輪…が…」
夢で見た黄水晶(シトリン)の指輪が彼の人差し指で優しげな光を放っている。
ファサードは流されかけた意思を引き止めるかのように、呟き出した。
まるで その光に導かれるかのように。
「ここは、暗くて…とても怖いです。
月色の光、助けて下さい 僕は迷わない、迷いたく、無いから
僕はここには居られません。やりたいことがあるんです。
――僕には、まだ、やりたい事が…知りたいことが、あるんです…だから」
辺りの景色が不意に光に溶けてすぅっと消えた。
呆然とした顔のまま辺りに視線をやると、そこは洗面所であることがわかった。
眩い光が差し込み、夜が明けた事を伝えてくれている。
ファサードはほっと胸を撫で下ろす。帰って来られた事に感謝をしつつ、思わず指輪に唇を落とした。
「…よかっ、た」

――水…さえあれば 私はいつでも どこからでも 貴方を引き寄せられる。
ここに私が居る限り ここに闇がある限り――貴方の心に闇が、ある限り。
また、私は 貴方の答えを訊きに行くわ。

どこからか聞こえた彼女の声に、彼の心の中が ひやり とした。
きっと、図星をさされたんでしょうね。
ファサードは心の中で囁きつつ指輪を握り締めた。
――指輪が輝いて、僕は元居た場所に戻って来れました。あの輝きが、導いてくれたから…
けれど、不安はいつも僕の中に…僕と共にある…いつまで?
一体いつまで…?――僕が僕と言う存在である限り、止められないの?
「…そうかも知れませんねぇ」
彼は工房へ戻ると、完成間近のクマの縫ぐるみを片手に鏡の前に立った。
――彼が、彼であるために。
「おはよ…僕はファサード」
軽く頬をつねってみた。
鈍い、痛み。
生きている。ここに居るという、証。
――相も変わらず鏡に映る、表情の乏しい顔。

起き出した人形達が俄かに彼の足下に集う。
「皆さん、おはようございます。
今日から新しいお友達が、増えるんですよ」
そう言ってファサードは最後の一針を引き抜いた。
ふわりと暖かい何かが集まって、その子はぴくりと動き始めた。
彼はクマの縫ぐるみの隣に出来立てのその子を立たせてやった。
「初めまして。僕は、ファサード……あ」
クマの縫ぐるみと、彼と手を繋いでいた女の子の人形がぽかんとした様子でその子を見詰めていた。
「…いけない。間違って、男の子にしちゃいました」
まぁ、いいですよね。こんな三角関係も。
ファサードはくすりと微笑んで皆を見回した。
手に嵌めた指輪を目にすると、暖かい気持ちになれる。
きっと、新しくなった瑠璃色の指輪を手にした時から…彼の中で何かが変わり始めたのだ。
目に映る日常。夜の明けた明るい世界。
蜂蜜色の光は、きっと僕が望む限りいつも僕を導いてくれる。

ねぇ、気付いている?
もう見つけたでしょう、今君が手にしている、それが心のかけら。

彼の中で起き出した誰かが、そっと囁いた。
聞き取れなくて、ファサードは少し首を傾げる。
「僕には、やりかけの仕事もあるし…ね」
呟いた彼の口元には、柔らかな微笑が湛えられていた。