<東京怪談ノベル(シングル)>


迷い子

 それは寒い雪の日のことだった。
 長旅からの帰り道、アルミア・エルミナールはふと天使の広場に立ち寄った。
 石畳の上にうっすらと白いじゅうたんを敷き詰めた広場は、誰一人として気配を感じず、ただ静かに淡い粉雪が舞っているだけだった。
 さくさくと、雪を踏みしめる足音だけが響き渡る。
 ゆっくりと息を吐き出した。アルミアの吐き出した白い息は溶けるように空へ上っていった。
「くぅーん……」
 足下に気配を感じ、見下ろすと。小さな子犬がすり寄ってきていた。
 長い間寒空の下を歩いていたのだろう、薄茶色の毛で覆われた背中に雪が積もってしまっている。
 毛並みも悪く、ずいぶんと痩せている。まだ乳飲み子のようだが、母親とはぐれてしまったのだろうか。
 つい、餌の1つでもやりたくなる状況だ。
 だが、最後まで面倒を見る気もないのに、一時の情に流されては、逆に不幸を与えるだけにしかならない。
 相手が悪かったな、とアルミアは再び歩き出す。
 すると、子犬はとことことその後を追ってきた。振り返ると、大きな黒い瞳を見開いて、じっとアルミアを見つめている。
「……どうしたものか……」
 大きく息を吐き出し、アルミアはそっと子犬を抱き上げた。
 
―――――――――――――

「いらっしゃいませーっ。奥の席が空いてますよー」
 扉を開けると、白山羊亭のアイドル、ルディア・カナーズの元気な声が聞こえた。
 雪の日だというのに、白山羊亭は客でにぎわっており、にぎやかな笑い声とエールの香りで満たされていた。
 互いの話に夢中になっている客達の間を抜け、アルミアは店の一番奥の席に腰を下ろした。
 慣れた動作で、ルディアは暖かいスープをアルミアの前に置く。
 あら、と小さな声をもらして、アルミアのひざの上で寝ている子犬に視線を移した。
「可愛いですね。どうしたんですか? その子」
「天使の広場で鳴いていたんだ。ああそうだ……誰か番犬を欲しがっていなかったか? こいつは痩せているが、足も太いし、骨格もしっかりしている……よい番犬になると思うぞ」
「そうですねぇ……商店街の人が来てますし、ちょっと聞いてみますね」
 そう言うと、ルディアは軽やかな足取りで入り口の方にある、団体席へと駆けていった。
「くぅーん……」
 かすかな鳴き声が漏れる。
 部屋の暖かい空気に、少し元気が出てきたらしい。子犬はしっぽを振りながら、床へと飛び降りた。
「そこにいては蹴られるぞ」
 冷静にアルミアは言う。酔っ払いの集まる酒場は総じて乱暴者が多い。
 白山羊亭は大通りに近いおかげか、それ程無礼な輩はいないが、それでも注意にこしたことはないだろう。
 アルミアの警告を察して、子犬はおとなしく彼女の椅子の下に潜り込む。
 ようやく一息つけるな、とアルミアは野菜がたっぷり入ったスープをスプーンで静かにすくった。
 
―――――――――――――

 程なくして、何人かの男女がアルミアの席に訪れた。
「うーん。確かに痩せちゃいるが、がっしりしてるみたいだな。うちの牧羊犬代わりに使えそうだ」
「いや、それより可愛い顔をしてるし、うちの看板犬として飼わせてもらいたいな」
 彼らは子犬を囲んで、あれやこれやと話し始めた。当の本人はというと、何がなにやらわからず、きょとんとただ首を傾げているだけであったが。
「……とりあえず、こいつに何か食べさせてやれないか?」
 そう言って、アルミアは数枚の銅貨を机に置いた。
「そうね。お腹が空いてたまらないみたいだもの、ね」
 早速とばかりにルディアは奥のカウンターへと駆けていく。
 ルディアが料理を運んできた頃、ようやく話し合いはまとまり、商店街で帽子屋を営む女性が、子犬の飼い主に立候補することになったらしい。
「今からしつければ、ちゃんとお店の番犬として働いてくれるかしらねぇ。お店のものに手を出さないよう、しっかりとしてもらわないと」
「そうだな……帽子なら、食べものでもないし、店の品に手は出さないと思うぞ」
 だが、おそらく雑種とはいえ、足の大きさから判断して、中型以上の大きさに成長するだろう。
 店の中だけで飼うのは少し困難と思われる。
「散歩は、従業員にさせるとして……問題は食事ね。どの位食べるのかしら、心配だわ」
 ルディアが運んできた残飯に、子犬は懸命にかじりついていた。相当腹が減っていたのだろう、皿一杯にもられていた残飯はあっという間に平らげてしまっていた。
「それにしても、どこから来たのだろうな……この辺りではあまり見かけない姿をしているよな」
 ぽつりと肉屋の主人が告げた。
 確かに、彼のいう通りだ。体に見合わない太い手足に、タワシのように太くて短い茶色の毛並み、人懐こそうな大きな黒い瞳をもった犬はこの辺りには殆ど居ない。
 オオカミに少し風貌が似ていたが、オオカミならば、もっと鋭い風貌をしているだろう。この犬は大人しすぎる。
「もしかしたら、噂に聞く、外界からの訪問者なのかもしれないな」
 聖獣界ソーンには、夢の狭間に迷い込んだ者達が訪れる場所。この子犬もきっと別の世界から迷い込んできた住民なのだろう。
「ところで、アルミアさん。あんたはこの子を育てないのかい? そりゃ旅とかしてるようだし、餌の調達とかうちらより大変かもしれないけどさ……あんたに懐いてるみたいだよ、この子」
「……無理だ。ここへは勝手についてきたから、連れてきただけだ。それ以上の他意はない」
 アルミアの言葉を聞いたのか、子犬は小さな声をあげた。
 じろりと横目でにらみつけ、アルミアは帽子屋の女主人に告げる。
「番犬が欲しかったのだろう。ならば、機会を自ら手放すことはない。さっさと連れていったらどうだ」
「相変わらずだねぇ……。まあ、暇があったら、うちの店にでも寄っておくれよ。この子も寂しがるといけないからさ」
 言いながら、女主人は子犬を抱き上げる。
 子犬はきょとんと小首をかしげながらも、じっとアルミアを見つめてきた。
 その澄んだ黒い瞳は何かを訴えているかのようだったが、アルミアはため息をついて、その視線から顔をそらした。
「……スープ、美味かったよ」
 カタリ、とアルミアは席を立つ。
 ルディアにスープの代金を支払うと、アルミアはさっさと白山羊亭を後にした。
 
 いつの間にか雪は止み、空の雲間から青い空が覘き始めていた。
 雪化粧にそまった街並みは空からの光を浴びて、きらきらと輝いている。
 相変わらず人の気配はなかったが、家のあちこちから、暖炉の煙が細く立ち上っている。早い家では夕食の準備でも始めているのかもしれない。
 自分がつけた足跡は、もうすっかり雪に埋もれて見えなくなっていた。
 何とは無しに、アルミアは再び天使の広場へ向かっていった。
 
 さくさくと、白い道に自分の足跡を残して。
 
 おわり
 
 文章執筆:谷口