<東京怪談ノベル(シングル)>
幸せの歌声
チュン、チュン! チチチ! ピピピ!
軽やかで元気な小鳥達の歌声が、森の中から、木々の中から聞こえてくる。
風が揺らす木々のざわめき、光の音。
耳を澄ませ、彼らが歌う命の歌をユシア・ルースティンは静かに聴いていた。
一晩の間、彼女と彼を守るように燃えていた炎は空に場と色を譲るように静かに眠りにつく。
代りに周囲を黒から紫へ、そして朱金へと変えていくのは木の間からも覗く、暖かい太陽の光。
「今日もいい天気になりそうですわね‥‥」
返事は返らない。森の中、人の言葉で話すものは自分と、あともう一人だけ。
そのもう一人は‥‥自分の膝の上にある。
「小鳥さんたち、もう少しだけ、静かにしてあげてくださいね。夫が、目を覚ましてしまいますから‥‥」
優しい若妻の願いを聞いたのか、小鳥たちは挨拶をするように空を一回転、そしてゆっくりと遠ざかっていった。
目を閉じると感じる、穏やかに流れる時間。
「こういうのを、幸せというのでしょうか‥‥」
返事は返らない。朝のひと時を二人で過ごせる幸せを、彼女は感じていた。
朝寝坊の夫はまだ目を覚ます気配はない。
夜遅く、いや明け方近くまで一人、火の番をしていたのだ。当然だろう。
いかに静かな森とはいえ、人気のない森の中の野宿。
彼はきっと気を抜くことはしなかった筈だと、ユシアは確信していた。
「お疲れ様でしたわ‥‥そして、ありがとうございました」
「‥‥う〜‥ん‥‥」
囁く様に小さい、声が聞こえたわけではなかろうが、彼はユシアの膝の上で頭を左から、右へと転がした。
弧を描いて動く肩と揺れる髪の毛。
ファサッ‥‥。
目元にかかった髪を気にする様子もなく、彼はまた甘い眠りに落ちていく。
それが邪魔されることの無い様に、妻は細く、しなやかな指でそっと除けた。
自分の腕の中に、心と身体。全て預けて無防備に眠る、愛する者を見ているうちに、ユシアは幸せそうな笑顔を浮かべ頭を、そっと撫でた
子供の頭を撫でる母のように‥‥。
「‥‥フフフ‥。可愛い、なんて言ったら貴方は怒るのでしょうか?」
いや、彼は怒るまい。きっと、照れたように笑うかもしれないけれど‥。
ユシアは嬉しかった。
これといった目的も無く世界を旅する旅人。
星を屋根に。草を褥に‥。
時には虹や月も彼らの行く先を照らしてくれる。
楽しく、気ままな暮らしではあるが、その代償に得られないものも‥ある。
他の者にとっては簡単に得られ、でも自分たちには遠いものが‥。
だが、彼は教えてくれる。
自分にそれを感じていると。ユシアの傍では安心して眠ることができる、と。
彼は、知っているだろうか?
それが、自分にとって、どんなに嬉しいかを。どんなに幸せかを‥。
まだ、それほどの時は過ぎてはいないだろうか、緩やかな時間は確かに流れた。
『ピピピ?』
膝に寄ってきた小鳥が首を傾げるように声を上げる。
「あら、ごめんなさいね。気にしなくていいのに‥」
微笑んだユシアは小鳥の小さな頭を指で、チョンと突くと首を前に動かす。
あらゆるものを和ませる声の許しに、小鳥たちは翼をはためかせると元気な歌声を響かせていった。
その声に耳を傾けていたユシアはふと、膝の上に眠る夫を見つめ、もう一度頭をそっとなでると目を閉じた。
閉じられた瞳とほぼ同時、野ばらの蕾のような唇が静かに開き、旋律を風に乗せる。
「ラララ〜 ラララ〜ララ〜」
決して大きな声ではなかった。主人の眠りを妨げない、静かな歌だ。
歌詞は無い。時に戯れるように柔らかく、時に抱きしめるように優しく響く歌声が‥子守唄だったことを今、この場にいる中では彼女だけが知っている。
だが、そんなことは関係なかった。少なくとも今、ここにいるもの達にとっては。
目を閉じていたユシアは気付かなかっただろう。
いつの間にか鳥たちが歌を止め、動物達も朝の喧騒から少し、抜け出している事を。
ほのかなぬくもりを抱くメロディーは、愛と安らぎを歌っている。
ユシアは思い出していた。
この歌は、幼いころに聞かせてもらった歌。そして、いつか、自分が誰かのために歌う歌だ。
大切な者のために‥‥精一杯の思いを紡いで。
今、この時、それを聞く幸運を得た者たちは、鳥も、獣も、暫し時を忘れ歌声に耳を傾けて、同じ思いを感じていた。
(「愛しきものに‥安らぎを」)
祈りにも似た暖かい思いを‥‥。
「う‥ん‥」
唸るような声に、ユシアは歌を止めた。苦しげな声ではない。
何かを探すような、何かを求めるような、早い話が夢の中のようなぼんやりとした‥声だ。
「おはようございます」
自分にとってもっとも親しい音楽的な声に、まだ現実と夢の挟間の橋を完全には渡りかけていない彼は緩やかな声を返した。
「おはよう‥もう朝かい」
質問に頷きかけたあと、ユシアは小さく首を振った。
「まだ、寝ていらしていいですよ」
「‥‥そうかい?」
寝ぼけ眼の夫の眼差しを受けて微笑む妻の表情は、暖かな毛布よりもまだ暖かい。
「はい、急ぐこともありませんし。たまにはゆっくりするのも、いいでしょう?」
暫し彼は考えた。周囲の空気を耳と、身体で確認する。
危険がありそうだったら、そう言われた所で自然に目覚める。
だが、今、身体はもう一度寝ようと心を誘惑する。つまり、大丈夫ということだろう。
「‥じゃぁ、もう少し‥」
そう言って閉じられた瞼はもう、動かない。柔らかい妻の膝と額に乗せられた手は彼を、幸せの二度寝に誘ったようだ。
「あらあら‥もうぐっすりですわね」
安らかな寝息を小さな笑顔で確認すると、ユシアは目を上げた。
さっきまで周囲にいた動物たちはそろそろ自分の仕事を思い出したようだ。
それぞれの居場所へと身体を廻らせていく。
早朝の静寂が、朝の賑わいへと変わり、これから昼の喧騒を運んでくるのだろう。
そんな日常の生活をしているときには気付かない当たり前のことを感じながらユシアは思っていた。
「愛しい‥ですわね。穏やかに過ぎていくこの時間‥。いつも同じでありながら、違う時‥‥」
旅の空に生きるものには得られないものがある。
だが、それと同じように、いやそれ以上に得られるものがあるのだと、彼女は知っていた。
「‥‥そして、貴方が‥‥」
自分の囁く声は、彼にきっと聞こえてはいまい。それで、良かった。
ユシアはもう一度、良人の髪を撫でると、もう一度、きれいな声で歌いだした。
さっきと同じ子守唄だ。
だが、今度はそれを聞く者は一人だけ。
夫婦のひと時を邪魔するものは誰も、いない。
柔らかで、静かで、穏やかで‥‥幸せな時が、ユシアの歌のように‥緩やかに二人の間に流れていった。
暫し、静かに‥幸せの時が‥。
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