<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


百色硝子の視界


【00】 希う

 黒山羊亭のエスメラルダがその木箱の存在に気づいたのは、昨日最後の客が退け、東の空が白みを帯び始めた早朝のことである。
 店の片付けを手伝っていたバーテンダーが、隅のテーブル席に置かれた箱をエスメラルダに尋ねたのだ。見覚えないそれは、両手で包み込めるほどの大きさ、上部の蓋には簡単な金具が設えてあったが、触れれば難なく開いた。鍵は無かったのである。
「――それが、これよ」
 嘆息。
 エスメラルダは卓に凭れ掛かるよう、気怠げに眼の前の箱をずいと押し出した。近くに集っていた冒険者がつられて覗き込む。
 水晶、に見えた。
 無色透明な球体が、箱の中、絹綾に包まれて垣間見える。
「誰かの忘れ物だと思うのだけど、最近はここも人の出入りが激しいし、どこに誰が坐っていたかなんて、憶えちゃいないわ」
 ちらりとカウンターを見遣れば、奥でバーテンが肩を竦めた。彼も記憶に留めていないのだろう。
「それで、ね。今回の依頼はあたしから。この珠を、持ち主へ届けてあげてちょうだい。……できるだけ、早い方がいいわ」
 エスメラルダは微かに声を潜めて、やおら木箱を引き寄せると、布と板の側面の隙間から、カード状の一枚の紙を取り出した。真新しい羊皮紙には短く、こう記されている。

『 願いを映せし珠
  汝 この珠に導き受け  真なる望みを叶えよ 』

 全員がその内容を確認したのを見ると、エスメラルダは指先で軽く珠に触れた。冒険者に騒めきが起こる。
 珠は、彼女が触れると、澄んだ夜空のような、蒼色に染まった。


【01】 逢う

 倉梯葵の数段先を、白い仔猫が軽快なリズムで降ってゆく。酒の匂いに惹かれているのか、一度も振り返らずに急くその様に、微かに苦笑しながら葵は続いた。
 終の段を降りきったところにある扉を押し開くと、途端に喧騒に包まれる。そこが黒山羊亭だった。
 宵を迎えて間もないというに、既に店のほとんどの席が埋まっている。踏み潰されては堪らぬと足許に戯れついた仔猫を片手に抱え上げ、店内に視線を一走りさせる。と、カウンター近くのテーブルに、淡紫の髪を認めた。その隣の踊り子が、葵に向け片目を瞑る。葵は軽く頷いて、ごった返した店内に躓くことなくそちらへ向かった。
 着いたテーブルでは、リラ・サファトとエスメラルダ、その他に数人の男たちが集っていた。リラは何やら熱心に輪の中心を向いていたようだが、エスメラルダに促されて顔を上げた。髪と同色の瞳が、葵の名を呼びやわらかく細む。
「……どうした?」
 挨拶は不要だ。それよりもリラの表情が気に掛かった。
 ――何かまた、興味を惹く対象を見つけたな。
 果たしてリラは、手許に置かれていた木箱を葵の前へ進めた。
 木箱の中身、布に埋もれた水晶。照明の映射角度が変わったためか、透明なはずのそれに、刹那色が滲むのを見た。


【02】 触る

「――つまり」
 葵は眼前に置かれたままの木箱を視線で示し、軽く肩を竦めた。
「依頼を受ける、ということだな?」
 決して大きな声で喋っているわけではないが、葵の声はよく通る。隣の椅子に掛けたリラは、大きく頷いてから、ふと不安げに首を傾けた。
「だめ?」
「いや、だめってわけじゃないが……今からか?」
「そう、今から。できるだけ早くお願いしたいの」横からエスメラルダも添える。「無理なら、他を当たるけど。どうする?」
 葵は視線だけでリラを窺う。リラが葵に見せた珠のいきさつは聞いた。そしてリラは、明らかにこの件に興味を示している。向けられた視線に気づいたリラと眼が合う。上目に穏やかなライラック色が幾度か瞬いた。葵は視線を戻す。吐息とともに、返答。
「……分かった、受けよう」
「ありがとう、アオイ」
 リラは満面に笑みを湛えた。テーブルの向こう側で、エスメラルダは微笑む。
「それじゃ、あなたたちにお任せするわね」
 そう言って立ち去ろうとするエスメラルダを手で制し、
「心当たりはまったくないんだな?」
「ええ。カウンターならともかく、テーブルの方は一部を除いて特に決まった席ってのはないもの。この通りお蔭さまでお客も多いしね。あたしに分かるのは、少なくとも常連客の物ではないってことぐらい」
「そうか」
 葵は目許に懸かる黒髪をゆっくりと掻きあげた。「……その珠だが」
「何?」
「触れると色が変わる、というのは?」
 エスメラルダは謎めいた笑みを浮かべた。
「自分で試してみたらいかが?」
「大丈夫なのか」
「人体に影響はないか、ってこと? あたしは無事よ。それに」一拍置いて、エスメラルダはリラをちらりと見た。「どうやらリラも、ね」
 弾かれたように振り向くと、卓上に置かれた珠が、紺色からほんのり水色に――夜明けから真昼の空の色に移り変わってゆく。見る間に色は薄まってゆき、やがて元通りに透明を取り戻す。
「触ったのか、リラ」
「う、うん」
 葵の問いに厳しい色が混じったのを聞いて、リラはおずおずと頷く。
「どこか異常は」
 ない、とリラは首を横に振る。さりげなく接触箇処であろう掌を確認したが、変わった様子はなかった。
「ねえ、アオイ。アオイも触ってみたら?」
 逆にリラにそう言われ、葵は微かに眉を寄せた。化学者である葵にとって、この珠は魔法と同じく非現実的と分類される事象である。解析するというのならともかく、メカニズムのはっきりしない現象に直接接触するのは躊躇われた。
 しかしリラのひんやりとした手が葵に添えられると、諦めたようにそのまま指先は珠へ移動する。
「ね、大丈夫だから」リラが微笑む。
 葵は切れ長の瞳で睨むように珠を見つめ、次いでそっと指のほんの先で、珠に触れた。

 絵の具を溶いたように、珠の内部にゆらりと“色”が現れ。
 間を置かず“色”は珠全体に拡がり。
 無色が有色に支配され、その瞬間確かに珠は、その“色”に染まっていた。

 夜空の蒼。

 葵は珠に指を乗せたまま、あらゆる感覚を用いて観察する。触、視、聴、嗅、何も引っ掛かるものはない。指を離した。
 先にリラが触れた際と同様、珠に宿っていた“色”は徐々に薄れてゆき、数秒後には跡形もなく消滅した。変哲のない無色透明の水晶。
「……エスメラルダが触った時も、今と同じ色に?」
「そうよ」
「リラもか?」
「うん、誰が触っても同じ色になるみたい」
 葵は再び木箱に手を伸ばし、珠ではなくその横に挿し入れられたカードを取り出した。今一度その内容に目を走らせる。
「珠の方から情報を引き出すのは難しいか……地道な捜査になりそうだ」
 溜息を落とす葵とは対照的に、リラは嬉しそうにさえ見える表情で、珠を木箱に収めた。


【03】 捜す

 持っていてもいいか、とリラが言うので、珠の入った木箱はリラが大事そうに胸に抱えた。
 まずは黒山羊亭内の聞き込みの方向で意見は一致し、ふたりは箱が置かれていたというテーブル――それはカウンターから最も離れた奥の席だった――の周辺から開始することにした。
 向かいながら、
「アオイ」リラは振り仰ぐかたちで葵に呼びかけた。「そのカードなんだけど……」
 これか、と葵は指先でひらひらと玩んでいたカードを示す。
「うん……この珠、本当に忘れ物なのかな……?」
 言いよどむリラに、葵は先を促した。
「間違ってたら持ち主さんに申し訳ないのだけど……もしかして、意図してここに置かれたってことは、ないかな」
「俺もそれは気になってた」
 同意を得られたことに安心したのか、リラは更に続けた。
「カードがあった場処も、添えられたっていうよりは、隠されていたって感じだと思うの。箱の内側にぴったり挟まっていたようだし」
 そこまで言ったところで、やっと店の隅に辿り着いた。人の多さに苦労した結果なのだが、それでも葵が居なければ半分も進めなかっただろう。
「とりあえず、持ち主かどうかは知らないが、その箱を置いた奴が居たのは確かだろ。そいつを捜して訊けばいい」
「うん、そうだよね……頑張ろうね、アオイ」
 まっすぐすぎる言葉を受け取って、葵は些か面喰らう。
 リラはその直截的な態度で早速聞き込みを始めた。黒山羊亭はベルファ通りでも比較的安全だとは云われているが、それでも酒場であることには変わりない。トラブルに巻き込まれたりなどせぬように、しっかり見張っておかなければと、葵はリラの隣に立つ。
 葵は手にしたカードを懐中にしまった。聞き込みを続けながら、頭の中ではカードに記された文章を反芻している。
(背後にどんな事情があるのやら)
 葵の関心は、持ち主よりもカードの方へ向いていた。

 ***

 意外にも、聞き込みの成果はすぐに表れた。
『占い師が使用するような、木箱に入った水晶』は、昨日確かにこの店で目撃されていたのだ。
「……持ち主さんは、占い師さんなのですか?」
 リラの問いに、情報提供者である屈強な男たちは笑いながら手を振って否定した。いかにも酒好きといった風情の連中だが、話し振りはしっかりしている。証言には問題なさそうである。
「いやあ、ただの商売人だったな、ありゃあ」
「どんな方でしたか?」
「男だよ。ここじゃ年齢なんざ信用できねぇが、人間でいうと三十ぐらいだったな」
「その男が、この水晶を持っていたんだな。商売道具か?」葵も口を挟む。
 男たちは顔を見合わせて首を傾げた。
「さあな……俺たちもよく見たわけじゃない」
「隣のテーブルに坐ってたんだ。相手も俺が見た限りじゃ、箱を開けて取り出したのは一度だけだ」
「なら占い師かもしれないだろ」と葵。
「それはない。その時訊いたからな。『占い師かい、なら占ってくれよ』ってな。相手は違うと答えた」
「その方のお名前、聞いてませんか?」
 男たちは再度思案した。
「その時にちょっと話したんだよな……慥か、シン……シンファとか、名乗っていた」
 その後、シンファという人物について問いを重ねたが、商売でエルザードに滞在している露店商人らしい、ということだけは分かった。他のテーブルもまわり、シンファについて訊ねたが、知り合いは見つからなかった。そう頻繁に訪れている人物ではないようだ。
 有力情報を齎してくれた男たちが、「どうだ、一杯」と葵を誘ったが、
「……どうも」
 葵は無愛想に一言返すと、おもむろに屈んで白い仔猫を摘み上げ、テーブルに乗せる。呆然とする男たちを前に、ウォッカ、と火酒の名を持つ猫は、器用にジョッキの中のアルコールを舐めた。

「リラ」
 カウンターでエスメラルダが呼んでいる。仕種でリラだけを招いているようだ。
「何かな……? ちょっと行ってくるね」
「ああ。ウォッカの気が済んだら俺も行く」
 言いながら、テーブルの間を縫ってカウンターへ戻るリラの後姿を、葵はずっと見守っていた。無事に到着したのを見届けると、面を戻して呟く。
「そいつはうわばみなんだ。あまり飲ませないでくれよ……」
 猫に向けて言う台詞にしては過激な内容だが、その場に居た男たちは揃って神妙に頷いた。


【04】 思う

 願いを映せし珠
 汝 この珠に導き受け  真なる望みを叶えよ

 ***

 願いとは何だ、と葵は考える。
 エスメラルダ、リラ、葵、その他にも珠に触れた人物は存在する。しかし誰が触れても、珠は同じ色にしか染まらない。同じ色しか映さない。
 少なくとも、珠に触れた者の願いを映しているのではない。全員の「願い」や「真なる望み」がまったく同じはずはないからだ。
(珠だけが事実で、カードは虚構)
 そう仮説をたてると、珠が一色にしか染まらないのは、人間の手が触れると反応するだけ、ということになる。今回の依頼は珠を持ち主に返すことだ。カードの存在をなくすと手掛かりはほとんど失われてしまう。
(現時点ではカードの内容は信用するべきか)
 すると、どうなる。
 珠は願いを映すという。
 珠は通常、無色透明で、人間の手が触れた時にだけ色を映す。
 ならばやはりそれは「願い」なのだ。
 問題は、何の――誰の願いを映しているのか?
(……シンファとやらが、この辺りを説明してくれると有難いんだがな)
 問題は提起されたからには解決されるべきだ。


【05】 赴く

 リラが戻ってきたのを合図に、ウォッカを抱え上げ、黒山羊亭を後にした。ウォッカはほろ酔いなのか、頭を撫でたリラの手に甘えている。
「どこに行くの?」
 地上へ出る階段を昇りながらリラは問うた。
「シンファは露天商とか言ってたな……何を売っているのかは知らないが、昨日の夜ここに来たんなら、近くに居るかもしれない」
 エスメラルダと先程の男たちに、シンファらしい人物が訪れたら引き留めておくように言ってある。リラと葵は、夜に染まりきったベルファ通りをゆっくりと歩き始めた。
 通りの脇を走る運河は墨色、等間隔に置かれた電燈に反射して、翠玉色の水面がぽつりぽつりと闇に揺れている。建物に寄り掛かり、あるいは坐り込みながら店を広げる人々に特に注意を払い、葵は時々に足を止めがちなリラの腕をしっかりと取った。
「――離れるな」低く、呟く。
 リラの視線は落ち着きなく通りを行き来している。葵は息を吐き、木箱を周囲から目に付きやすいように持っていろとリラへ言った。万一「忘れ物」であったなら、持ち主の方から名乗り出ることもあるだろうと考えたのだ。
 葵は露天に店を構える商人たちのうち、リラを伴って話し掛けても大丈夫だと判断した者に、シンファについて問う。何度もそれを繰り返して、とうとう辿り着いたのは、通りの外れ、ちょうど電燈の途切れた暗い路地の前だった。

「あんたがシンファか?」
 葵の声が、喧騒からも外れた静かな路地に通る。
 男は、片側の建物の壁に凭れて坐っていた。その前には白い布が敷かれ、売り物らしい品々が並んでいる。しかしこの暗さの中では布色のお蔭で辛うじて何かが置いてあると分かる程度で、とても商売をしているようには見えなかった。
 反応は、ない。
「……おい」
 低く声を掛ける。後ろに立っていたリラが、葵の袖を引いた。
「アオイ」
「何だよ」
「挨拶」
「は?」
「人と初めて逢った時は、まず挨拶、でしょ?」
 だからコンバンハをしろと、リラは言っているのだ。
 呆れたのか黙する葵を置いて、リラは礼儀正しく辞儀して挨拶した。
「あまり近づくな」と葵はリラを押し止める。
 でも、と振り向くリラの向こうで、不意に闇が身じろいだ。低い笑い声が響く。葵は再びリラを自らの後ろに退かせ、身構えた。
「……あんたが、シンファ?」問いを繰り返す。
「こんばんは?」
 男の第一声は、リラと同じ言葉だった。葵は眉を顰める。
「そちらのお嬢さんによると、まずは挨拶、なんだろう?」
 声音で男が笑んでいるのは分かるが、夜、しかも完全に影となった場処に坐る男の容貌は判然としない。ただ体つきは、そう大柄ではないだろう。俺と同じくらいか、と葵は当たりを取った。
「それから、他人に名を尋ねる時は、自分から名乗る。違う?」
「あ、はいっ。私はリラ・サファトといいます」
「リラ!」
 男の笑い声が大きくなる。男はどこまでもリラのペースに合わせるつもりらしい。
「教えてくれてありがとう、お嬢さん。……で、そっちは?」
 葵は舌打ちして、仕方なく自分の名を口にした。
「クラハシ」
「ファーストネームは?」
 葵は少し驚いた。この世界――ソーンという聖獣界に来てからというもの、そのような名の尋ね方をされたのは初めてだった。
「――アオイ」
「リラ・サファトに、クラハシ・アオイね……了解。で、何が欲しいんだ? どれをお買い上げ?」
「あの、お買い物に来たんじゃないんです」リラは葵の後ろから覗き込むように言って、箱を男の方に向けた。「この箱……中身は透明な珠なのですが、あなたの物ではないですか?」
「へえ、それはそれは……で、何を買ってくれるの、お嬢さん?」
「はい? あ、えっと……」
「リラ、迷うな。……あんたも」葵は無表情に露天商の男を見つめる。三度目の問いだ。「質問には答えろ。あんたがシンファか?」
 気配で男が肩を竦めたのが分かった。
「そうだよ、俺がシンファだ。シンでもファでもジウでも、好きなように呼んでくれ」
「では、ファーさんと呼んでいいです?」
「リラ、構うな」
「ああ、いいとも」シンファは心底愉快で堪らないといった風に、笑うのをやめなかった。「まったく、夜のベルファ通りでこんなお嬢さんに出逢えるとはね」
 軽口ばかりのシンファだが、次に発せられたそれは、聞き逃すを許さぬものだった。
「まさか、君たちのようなひとたちが、それを拾うとは思わなかった」
「どういうことだ?」
 シンファは立ち上がり、路地を出てきた。電燈の届くところまで歩いて、ふたりを振り返る。褐色の肌の、思ったより若い男だ。
「改めて用件を聞こう。それを……その珠を、どうするつもりだ?」


【06】 問う

 珠をどうする、と訊かれて僅かに返答に詰まった。
 リラが口を開く。
「この珠は、ファーさんの物ではないのですか?」
「違う」シンファは即答してから、掌を口に当て先を紡いだ。「ただ……そうだな、その珠をどこで見つけた?」
「黒山羊亭です」
「成程、俺が置いてきたままだったというわけか……当てが外れたな」後半は独り言のようだった。
「シンファ」
 葵が呼ぶ。
「何だ?」
「話が見えない。俺たちはこの珠の持ち主を捜してる。あんたじゃないなら、誰だ」
 シンファは問い返した。
「その珠の持ち主を見つけてどうする?」
「珠をお返しするんです」
「それだけか? 取引もなしに、ただ返すと?」
「取引?」鸚鵡返しに言って、リラはきょとんとする。
 葵が「少し黙ってろ」とリラを庇い、シンファを睨めつけた。半面に燈を受けた端整な面差しが鋭さを増す。シンファは視線を逸らした。
「いや、何でもない。その珠には一応稀少価値ってもんがあるんでね。流れるルートによっては、かなりの値になる」
「そうだとしても、今回の依頼には関係ない。俺たちは珠を持ち主に届けられればそれでいい」
「無欲だな」
「持ち主は?」葵はシンファを遮った。
 シンファは溜息を落とすと、唐突にリラを指差した。
「そのお嬢さんだろ?」
 リラは自分を指差して、目を瞠っている。
 何か言い掛ける葵を制して、シンファは続けた。
「黒山羊亭で珠を見つけたと言ったな。それを発見したのは店員か?」
 エスメラルダという店の踊り子だと葵は答えた。
「それならそのエスメラルダ、あるいは……彼女から依頼を受けたなら、もう君たちの物にしてしまってもいいだろう」
「つまり……その、この珠は落し物、ということですか?」
「そういうことになる。珠には持ち主は存在しないんだからな」
 そしてシンファは、自分は珠を運んだだけだと言った。
「そもそも、この珠に所有権なんてものを主張できるわけがない」シンファの視線はリラの持つ木箱にそそがれている。「カードは、見たんだろう?」
 ふたりは同時に頷いた。ともに一番気になっていたことである。
「それを書いたのは俺だよ。さすがに珠だけじゃ、『叶えてやる』にしても難しいからな」
「この珠が映すのは、誰の願いなんだ?」葵は率直に問う。
 シンファは口角を引き上げた。
「分からないか?」

 ――(誰か)の願いを映す珠
 ――この珠に導かれて
 ――あなたは(誰か)の本当の望みを叶える

 珠は人間が触れることによって願いを映す。
 しかし触れた人間の願いを映すのではない。

 シンファはその願いは「叶えてやる」のだと言った。「叶える」のではないのだ。

 リラは引っ掛かりを覚えて、懸命に頭を働かせる。
 やがて。
「逆……触れた側ではなくて、触れられた側の……?」呟く。
 葵も同じ解答を導き出したのか、小さく頷いて、シンファを毒づいた。「もっと分かりやすいメッセージを残せ」
「言葉ってのは難しいからな」
「本当に!」リラはやけに強く同意して、木箱を開けた。
「ファーさん、この珠、誰が触っても同じ色を映したんです」
「だろうな。カードの内容を理解している者……つまりその珠の性質を知っている者以外には、『願い』は漠然としか見えないはずだ」
「それなら今度は――」
「はっきりと見える」
 リラは開いた木箱の中に手を入れて、布を解く。無色透明の水晶のような球体が現れる。黒山羊亭で珠に触れた時と同様に、問い掛けを口にしながら指先を珠に乗せた。
「『あなた』の望みは、何ですか……?」

 ――(珠自身)の願いを映す珠
 ――あなたは(珠)の望みを叶える

 ゆっくりと球体内部に、変化が訪れる。
 今までと同じような夜空の蒼がぐっと濃くなり、ひとつの景色を形作る。
 目に付いたのは、何かの像だった。
 片手を天へ差し伸べて、長い髪を風に舞わせ、背に対の翼を背負う――それは異世界の者たちを喚ぶという、エンジェルの像である。
 リラはそれを確認すると、急いで珠を木箱にしまって、普段の行動からは想像できぬような素早さで駆け出した。
「おい、リラ!」
 無論葵もすぐに反応して後を追う。
「アオイ!」
 と、その背をシンファが呼び止めた。
 半身だけで振り向いた葵へ、小振りな何かが飛んできた。反射的に受け取る。上質な布地で作られた小さな袋だった。指先で探ったが、中には何も入ってはいないようだ。
「これは?」
「持ってけ。君にあげるんじゃないぞ、きっとリラに必要になる」
 更に問いを口にしようとした葵へ、シンファは「見失うぞ」とリラの去った通りの先を示す。
 ――言われなくとも。
「シンファ」
「うん?」
「いつもこの場処に?」
「大抵は」
「そうか」と応じて葵は通りを向き、ライラックの色合いを雑踏に見つける。遠くはない。「……それから、リラは『お嬢さん』じゃない」
 ほう、とシンファは面白そうに葵を見返した。
「しかし相手はアオイではないようだな」
 葵は答えず、シンファへ鋭い一瞥をくれてから、リラを追って賑わうベルファ通りを駆けた。


【07】 叶う

 リラにはすぐに追いついた。
 ベルファ通りへ向かう人の流れを避け、アルマ通りを抜けて天使の広場へ。エンジェルの像を中心とするこの広場は、異世界よりソーンにやってきた者が最初に降り立つ場処でもある。真夜中の今も、人の姿が絶えない。
 エンジェルの像を囲んで造られた池の手前で、やっとリラは足を止めた。肩で息をしているが気にならないらしい。葵は数度の呼吸で息を整えて、リラの手許を覗き込む。
「映っているのは、この場処か」
「うん……」
 リラの手は珠に添えられている。珠は確かにエンジェル像を映していた。
「この場処で、どうすればいいのかな? 珠さんの『願い』はこことどんな関係があるんだろう」
「――リラ」
 困ったように葵を仰いだリラに、硬質な声が注意を促す。リラは視線を珠へ戻した。
「あっ……」
 珠に再びの変化が起こっている。
 つい先刻までこの場処を映していたに過ぎないそれに、“あるもの”が加わっているのだ。
 映る場処は変わっていない。エンジェルの像のあるここ天使の広場だ。しかし今までの映像にはなかったものが、存在していた。
「これ……雨……?」
 だろうな、と葵も同意する。
 珠に映る天使の広場には、雨が降っていた。
 リラは空を見渡すが、星々の瞬く夜空は快晴で、雨の降る気配など微塵もない。どうしたものか、と視線を珠へ落とす。
 と。
 珠に触れていたリラの手の甲を、雫が打った。
 驚いてそれを見つめる間にも、ぽつぽつと次々に雫は降りてくる。やがてサアッと辺りの地面を均等に打ち始めた。
 雨だ。
「天気雨なのか……?」葵が呟いて、空を見る。
 リラも空を望むが、雨のカーテンの向こうに月が見える程度だ。少なくとも雲の気配はなかった。霧のようなやわらかい雨は、建物から洩れる光の当たるところでは、きらきらと反射しながら水滴のかたちを誇示している。
「……あれ?」突然、雨の様子を観察していたリラが違和感に声を上げた。
「どうした?」
「アオイ、珠が……珠がね、小さくなってるの」
 怪訝な表情を浮かべた葵だが、リラが手にした珠を見ると、確かに先程までの珠に較べ、それは半分ほどの体積しか持たないようだった。それだけでなく、眼の前でまだ小さくなってゆく――既にビー玉ほどの大きさしかない。
 なす術もなくその変化を見守るふたりの視線の先で、終に珠は視認できぬほど小さくなり、完全に消え失せた。
 そして、珠の消滅とともに、雨は上がった。

「……珠さんの『願い』って、この雨のことだったのかな?」
 もうない珠の感触を探すように、リラは右手を握りしめた。
「さあな……俺にはよく分からん」
 釈然としないものを感じて、葵は不機嫌そうに眉を寄せる。その足許に、いつの間にか追いついたウォッカが戯れていた。何かを転がして遊んでいる。葵が屈んでそれを取り上げると、不満げに仔猫は啼いた。
「ガラス玉……?」
 ウォッカが転がしていたのは、ビー玉をひと回り大きくした淡い紫色の玉だった。材質は分からない。だがこの色は――
「リラの色」
「え?」
 葵はリラへその小さな玉を手渡す。リラの髪と瞳と同じ色を持つ玉には、それが相応しいように思われた。
「かわいい」掌で転がしながら、リラがふわりと微笑む。
 葵は思い出して、シンファから別れ際に渡された布製の袋を取り出す。案の定それは、玉のサイズにぴったりだった。
 玉を袋に容れ、大事そうに眺めるリラの肩は湿っている。短い時間だが雨に晒されたせいだ。葵はジャケットを脱ぎリラに着せようとして、広場をこちらへ近づいてくる人影を認めた。和装の青年。エスメラルダから連絡が行ったはずだが、突然の雨にやはり心配して捜しに出たのだろうか。
 葵はその人物に軽く手を挙げて挨拶に代え、足許でうろうろしていたウォッカを抱き上げると、広場を後にした。
 しばらく行くと、葵はウォッカを片手で抱えたままポケットを探り、煙草を銜えた。火を点ける。紫煙を細く吐き出して、ふと空を仰いだ。
 空気が澄んでいるのか、それとも元々そうなのか、星の多い夜空は明るい。黒でなく、紺でなく、もっと薄い色合いをしている。
 珠の映し出した空色よりこちらの方が綺麗だな、と茫と思ってから、柄にもないことをと、葵は苦笑した。周囲の人間の影響はこんなところにまで及んでいるらしい。
 にぁ、と腕の中で短くウォッカが啼く。
 葵は酒好き仔猫を肩に抱き直して、夜明けの遠い街路を帰途についた。


 <了>


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業】

【1879/リラ・サファト/女性/16歳/家事?】
【1882/倉梯・葵(くらはし・あおい)/男性/22歳/元・軍人:化学者】

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■         ライター通信          ■
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初めまして、執筆を担当した香方です。
この度は大変なご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。お待たせしてしまいましたが、黒山羊亭冒険記「百色硝子の視界」お届け致します。
とても魅力的なPCさまで些か緊張してしまいました。お二人の会話の雰囲気に、不自然な点などなければ良いのですが。
少しでもお楽しみ頂ければ幸いです。ありがとうございました。

香方瑛里 拝