<バレンタイン・恋人達の物語2005>


 ★☆ SWEET RAIN ☆★


 二月の吹きさらしの公園は、流石に寒い。それが夜の十時を回るとすれば、尚更だ。
 放り出されたブランコは、先ほどから冷たい風に吹かれ、きいきい文句を云っている。鉄棒は街灯に照らされて嫌に不気味なオブジェと化しているし、砂場の凹凸さえも砂漠の果てのようでひどく寂寞としている。
 冷えた木のベンチに座り、着物姿の少女は赤い唇を噛み締めた。何故、自分はこんな寂しいところで震えていなければならないのか。
「……兄さまのせいよ。全部、兄さまが悪い」
 呟くと、不覚にも涙が浮かんでくる。
 一番上の兄と彼女は、間に数人の兄姉を挟んで、かなり年が離れていた。少女が物心付いたときには、兄はすでに制服が板に付いた学生で、小学校に上がる頃には制服さえも脱ぎ捨てて大人の仲間入りをしていた。
 大人と、子供。同じ父母から生まれたのに、ふたり並んだらそう評するしかない。
 なのに、ふたりの仲はいつもぎくしゃくしていた。彼女らの生家は少しばかり特異な家柄であり、屋敷内は大人たちの思惑が絶えず淀んでいる。そのせいか、兄は妹に含みのある行動を取ることが多々あった。大人なのに、少女に対して大人になってくれない兄。口達者に、少女のささいな振る舞いを上げ連ねる。
 今日も今日とて、その果てにささやかな喧嘩を、した。
「兄さまなんて、大嫌い」
 自分の言葉に、少女は深く傷付く。
 嫌い。大嫌い。でも、時折頭を撫でる指や、見上げる大きな背中を思えば、それだけでは済まない。大嫌い、それでお仕舞い。そんな簡単には終わらない。
 だって、それでも血の繋がった兄だから。
「兄さまとなんて、もう、お話しないわ」
 幾度目かの、誓い。もう、両手では数え切れない。
 どれくらいそうやって過ごしていただろうか。少女の子供らしい、小さな手は指先が真っ赤になっていた。爪先も、感覚がない。
「帰りたくない。兄さまの顔なんて、見たくないもの」
 ――帰りたい。だって、寒いもの。
 自分の中で、相反する気持ちがうずうずする。
 今日は、2月の3日。もうすぐバレンタインだと気付いたのは、凍えた爪を眺めたとき。
「チョコレート」
 仲直りにうってつけの行事とも、思える。でも、兄に対しての腹立ちはまだ収まらない。自分だけ退くのは、悔しすぎる。
 なにか、彼がぎゃふんと云うようなことをしでかさなければ。
「チョコレート……」
 そのとき、ふわりと、なにかが鼻先を掠めた。
 暗い空を見上げれば、雪がひらひら、降り始めていた。
「チョコレートの、雨……」
 空からチョコレートが降ってきたら、彼でも驚くだろうか。
 なんだか、とても素敵なことを思い付いた気がする。
 ぴょん、と少女はベンチから立ち上がった。ぱたぱたと膝の雪を払って、もう一度宵闇を仰ぐ。
「チョコレートの雨を、降らせてやるから」
 せいぜい驚けば好い。でも、どうやって? 考えなければ。考えなければ。誰かに、助けて貰おうか?
 どちらにしても。
「見ていなさいよ、兄さまめ」
 わくわくしながら、どきどきしながら、少女は凍えた足で歩き始めた。

         ★☆ ★☆★ ☆★

 いつも通りの診療室。なにひとつ変わらぬ日常。
 顔馴染みの少女から小さな菓子ひとつ受け取った瞬間、オーマ・シュヴァルツの周囲の景色が、歪んだ。


 灰色の空から、純白の雪がゆっくりと落ちてくる。
 オーマは僅かに身を震わせ、無彩色の空を仰ぎ見た。
 聖都エルザードとは空気の組成から違う、無機質な闇と、冷たいひかり。そこにひかる雪の破片は、オーマが異邦人であることをこの上なく浮き彫りにする。
 風が肌に全く、馴染まないのだ。
「こりゃまた、どんな世界に来ちまったことやら」
 面白半分に吐いた溜め息は、白く舞い上がって消える。奇妙な世界に、どうやら引きずり込まれてしまったようだ。
 耳を澄ませば、微かな唄声が聴こえる気がする。あどけない、幼子の声。呼ばれている。そんな心持ちさせられる。
「いや……本当に召喚れたのかもな」
 か細い唄声に絡められた呪術の気配に、オーマは独りごちる。手のなかで、受け取ったばかりの菓子を弾ませる。
 しばらく、靴底で雪を踏み躙りながら、歩く。寒々しく雪を被った木立に縁取られた路地を通った果て。幾つかの奇妙なオブジェが据えられたささやかな広間に、その少女は、いた。
 ぴたりと、唄が止まる。
「随分、大きなひとね。……あなたが、あたしの願いを叶えてくれるひと?」
 ぱっと、目に鮮やかな深紅の衣。艶を帯びてひかる漆黒の髪。
 オーマが見たことのない文様が縫い取られた衣装に身を包んだ、オーマの娘よりも年少の少女が、笑みもせずオーマを見返している。
 だが、無表情のなかにも、驚くほど淡い灰色の眸が期待できらきらと輝いているのにオーマは気付いた。
 オーマの性格的に、そんな子供をむげにできるわけもない。
「さあねえ……嬢ちゃんは、どう思う?」
 ひょい、とオーマは、肩を竦めた。


「バレンタイン?」
 ふたり並んで、ベンチに腰掛ける。
「そう。好きな男性に、チョコレートをあげる日なの」
 ぱたぱたと足をばたつかせながら、少女がつん、と顎を上げる。そんなことも知らないの、のポーズだ。小生意気で、愛らしい。
 彼女を見ていると、無性にオーマは誰かを思い出す。
 ――あいつは、これくらいの年齢のときは、どんな娘だったんだろうなあ。
 流れてしまった時間を、少しばかり惜しむ。これからの時間の貴重さに、少しばかり胸が軋む。
 大切で大切で、どうしようもない。
「別にそんなことは訊いてねえが……で、嬢ちゃんは」
「とおこ!」
「失礼……トーコ嬢ちゃんは、アニキにチョコレートをあげたい、と」
「あげてやっても好いわってお話よ!」
 更に、つんけんと少女はそっぽを向く。微かに赤らんだ頬が、言葉を裏切る。
 身動きのたびに、ひらひらと少女が纏う深紅の衣の袖が閃く。それもまた、オーマの心を掻き乱した。深紅は『彼女』たちの色彩でもある。
「嫌いなの」
 少女は、俯く。
 そんな少女の身体に身を添わせるように、黒い狼の姿があった。ふかふかした毛皮が、少女の冷えた身体を温める。寒空の下の少女を気遣いオーマが召喚したものだった。彼女の消沈した気持ちを宥めるのにも、役立つ。
 その毛皮に頬を埋め、少女は小さく呟く。
「兄さまなんて大嫌いだわ。兄さまがあたしを嫌いなのと同じくらい、嫌い」
 小さく身を縮めた姿が、やけに哀れ。
「それはどうかな?」
 にんまりと、代わりの自信を漲らせてオーマが笑う。
 すでに、オーマはこの少女の協力をする気満々になっていた。
 オーマのなかには、オーマが絶対に敵わないカードが、いくつも存在する。
 カードの絵柄は『家族』『肉親』『妻』『娘』……。目の前の少女は無意識に、そのカードをぱたぱたと引っ繰り返していく。
 彼女の幸せは、オーマの幸せの合わせ鏡だった。無視などできやしない。
「このゴッド親父が嬢ちゃんのために、いっちょガッツリ腹黒イロモノ協力してやるからな!」
「……頼りになりそうだわ……」
 オーマの台詞に少女は、胡散臭げな流し目をひとつ、寄越してくれた。


「ねえ……本当に、これを兄さまに降らせるの……?」
 籠一杯の、茶色い物体。
 そのひとつを摘み上げて、少女は不安げにオーマを見上げる。
「勿論」
 オーマが気障に片目を瞑ってみせる。
「それにしても……これ」
 少女は、溜め息を吐いた。
 それもそのはず。
 彼女の手のなかにあるのは、深い溜め息に相応しい代物だった。
 名付けて――人面チョコ。
 手のひらサイズのそれには、全て、少女の顔が刻まれている。
「気色悪い……」
「いやいや、桃色ラブてんこ盛りって感じだろ」
 顔を背ける少女の頭を、ぐりぐりとオーマが撫でる。
「別に、てんこ盛りにしなくても好いもの。それに」
 ぶるぶる首を振ってオーマの手を剥がし、少女は、自分の似姿チョコと顔を見合わせる。
 茶色い鏡は、眦の下がった、泣きそうな顔をした少女の容貌を映し出していた。
「あたし、こんな顔ばかりしているのかな?」
 少女の言葉に、オーマは苦笑する。
 少女の想いをオーマの情を同調させ、具現化した人面チョコ。その表情は少女が云うように、一様に冴えないものばかりだ。泣きそうな顔。寂しそうな顔。不思議と、怒った顔はない。
 どれも、ひと恋しげにも、思える。
 懲りずに、オーマはもう一度、少女の髪を撫でる。今度は、少女は振り払いはしなかった。
「ねえ」
 鬱陶しそうに顔を顰めて、オーマに訊ねる。
「どうやって、これを兄さまに降らせるの? ぶちまけるの? 兄さまの頭の上から、あなたが?」
 それが可能な長身を上から下まで検分して、少女は首を傾げる。
「いいや」
 ゆっくり、オーマが首を振る。
 少女が、目を瞠る。
「純情可憐愛情一本雨あられ、夜空からざんぶり降らせるのさ」
 獅子の姿に変身したオーマが、獣の顔を笑ませながら嘯いた。


 ふわりと、東京の空を獅子が飛ぶ。
 空から見る夜景はなかなかに壮観で、少女はすぐ、曇っていた顔を綻ばせた。
 少女の様子に、オーマもほっと胸を撫で下ろす。折角なら、子供はにこにこ笑っていて欲しい。親父としての願いである。
「嬢ちゃんの家はどこだい?」
 両手一杯にチョコの籠を抱えた少女は、指先だけで一方向を指し示す。
 そこには、えらくご大層な屋敷が広がっていた。
「こりゃまた……」
「無駄にでかい屋敷だって、云いたいんでしょう?」
 少女が唇を尖らせる。
「つまんない家よ。おんなじおうちにいながら、父さまに会うにも母さまに会うにも……兄さまに会うにも、いろいろめんどくさい。絶対にあたし、大きくなったらこの家を出て行くの」
「……そうか」
 なんとなく、がっくりとオーマの肩が落ちる。
 まるで、娘に家出を宣言されたようで、親父心が微妙に傷付いた気がする。
「あれが、兄さまの住んでいる離れよ」
 オーマの様子を気にせず、少女が指差したのは離れとは云いつつも一軒家程度の広さがありそうな赤い瓦屋根の建物だ。
 高度を下げて、オーマはその離れに近付いていく。
 少女が、声を上げた。
「兄さま!」
 不思議な声だった。
 それほど力強くもないのに、全てを突き抜けて響きそうな声。実際、びりびりとオーマの毛皮、一本一本が震えた。
 呪術の匂いを芯から纏った、呪術師の声だった。
 ほどなく、離れからひとりの少年が出てくる。
 幼い少女の兄としてはかなり育ち過ぎた、十代後半の、優しい顔立ちの少年だった。
 彼が見上げるのを待たず、少女は籠を真っ逆さまに、勢い好く中身をぶちまけた。
 ばらばらと、茶色い塊が彼目掛けて降り注ぐ。
「……雨って云うよりも、豪雨? マッスルラブストーム?」 
 容赦のない少女の振る舞いに、ぼそり、オーマが呟く。
 ごんごん、チョコの礫が地面を穿つ。その跳ね返りだけでも、大層痛そうだ。
「兄さまの、馬鹿! 馬鹿馬鹿!」
 少女がオーマの背で、喚く。
 人面チョコの散弾を翳した腕ひとつで堪えて、少女の兄はゆっくりと空に視線を向ける。
 少女とは似付かない、真っ黒な眸が少女に据えられた。
「透己」
 ふわりと、少年が微笑む。
「おいで」
 その両手が、広げられる。
「うわ……ッ」
 オーマが、呻き声を上げる。
 少年の招きに、少女がオーマの背から身を躍らせたのだ。
 低く飛んでいるとは云え、離れの屋根よりも遥かに高い。少女の柔らかい身体が地面に叩き付けられたら、どんな惨事になることやら。
 オーマはとっさに、少女の身体の下に回り込もうと滑り込む。
「……!」
 そこに、圧力が生まれた。オーマの動きを戒めて、遮る。
 見下ろせば、少年がじっと、オーマの姿を見据えている。
 オーマが絶句した隙に、とさ、と少女の身体を、少年は受け止める。まるで少女が体重のない妖精ででもあるかのような軽やかさで。
 かたちない力が、少女の身体を護る。
 オーマは、少年もまた、異能者であることを悟った。
「馬鹿じゃないか、全く」
 呆れたような、少年の台詞。びくり、と少女が身を震わせる。
「頭くらい、撫でてやれよ。折角の愛情チョコ」
 ぼそりと、獅子のすがたのオーマが呟く。
 少女の細い肢体を抱き止めて、それでも抱き締めもせず、少年はオーマを見返している。
 音にしないまま乾いた唇だけで、少年は言葉を紡いだ。なんだか、ふてくされたような風情。
 ――そんなに、素直になれません。
 おやおや、と思う。
 少年の冷たい暗闇色の双眸が、オーマの輪郭をなぞる。
「妹を……ありがとうございました」
 少年の、冴えた声が宵闇に添う。
 その瞬間、オーマの見知らぬ夜が、ぐにゃりと飴のように曲がった。


「オーマせんせい?」
 甘い色の髪の少女が、至近距離からオーマの顔を覗き込む。
「……!?」
 ぱっと、オーマは周囲を見渡した。
「どうかしたの?」
 あどけなく、オーマの患者は首を傾げる。
 オーマの手には、小さな紙包み。患者である少女の手作りだと云う、チョコレート。可愛くピンク色のリボンまで絡められている。
「ありがとな、嬢ちゃん」
 わしわしわし、と大きな手で、少女の頭を撫でる。キャー、と擽ったそうに、少女は歓声を上げた。
 リボンと同じ色のワンピースに手を振って、オーマは深く、椅子に座り込む。
 頭を背もたれに預けて天井を見上げる。少しくすんだ色。背中で椅子が軋む音。窓の外の日差しと柔らかな喧騒。オーマの日常だ。
 手のなかで、貰い物の菓子が弾む。
 少し意固地な娘の顔が、思い浮かぶ。
 真っ赤な異国の衣を纏った、少女の姿も。
 ――あの嬢ちゃんは、どうなったかね……。
 ひとつ、オーマは首を振る。どちらにしても、終わったことだ。もしかしたら、ただの夢だったのかも、知れない。
「これは、サモンにやるかな……」
 可愛い娘に、甘い菓子。
 彼女は、喜ぶだろうか。むしろ、膨れるかも知れない。
 それを眺めるのもまた、オーマには愉しみだった。


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登┃場┃人┃物┃一┃覧┃
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【 1953 / オーマ・シュヴァルツ / 男性 / 39歳 / 医者兼ヴァンサー(ガンナー)腹黒副業有り 】

ラ┃イ┃タ┃ー┃通┃信┃
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初めまして、こんにちは。カツラギカヤです。この度は不束ライターにご発注、ありがとうございました。ソーンからの受注は初めてだったので、大分緊張しつつ作成させて頂きました。なんとなく、オーマさまのキーワードは『家族』(今回は特に娘さん)だ! と決め付けて描いてしまった品ですが、少しでも、愉しんで頂ければ幸いです。オーマさまのぶっちぎりなところが出せずに、申し訳なくもあるのですが……。
繰り返しになりますが、今回は本当にご発注、ありがとうございました。また、機会がありましたら宜しくお願い致します。