<東京怪談ノベル(シングル)>


拾い物

 暑くもなく寒くもない穏やかな一日とあっては、欠伸を止める手立てはない。薬草店でのバイトが終わった夕方、オーマ・シュヴァルツは帰路についていた。一家の大黒柱兼主夫としては、今日の夕食を何にするかという重要事項をそろそろ決定しなければいけないのだが、あまりにも穏やかな空気のせいで、頭が今ひとつ働かない。
「‥‥ねみぃ」
 誰にともなく呟いて足を止めた、オーマは道の道端で軽く空を仰いだ。すでに夕刻のえんじ色に染まった太陽に向かって瞬きをし、眼鏡を外して乱暴に目をこする。じわりと滲んだ涙が手を濡らしたが、それも乱暴に服で拭った。
「カレー、オムライス、スパゲティ。いっそ天ぷらか刺身、いや魚の煮付けか」
 ぶつぶつと夕飯の献立を呟きつつ、オーマは一度外した眼鏡をかけなおした。そして、空を仰いでいた目を何の気なしに足元に向けた。
「‥‥フライドチキンかから揚げ。鳥そぼろ丼って手もありか」
 立ち止まっていたオーマのちょうど足の下、目線の先に灰色の小さな塊があった。ぼんやりとした塊には小さなくちばしと、大きな目が二つついている。鳥の雛だ。
「俺は、おまえみたいなのを産んだ覚えはねぇぞ」
 雛は、一声たりとも鳴かず、無言でオーマを見上げているばかりだ。雛に倣って上を見上げると、立派な枝を張り出して伸びる木が目に入った。木の葉の影から、鳥の巣が覗いている。この雛は、あの巣から落ちたのだろう。
「間抜けなやつ」
 もしかしたら、この穏やかな陽気に誘われて眠っているうちに、巣から転げ落ちたのかもしれない。今日は、そんな想像をさせるような陽気なのだった。
「‥‥何だよ、その目は」
 灰色のぼんやりとした毛に包まれた雛は、瞬きもせずに無言でオーマを見上げてくるばかりだ。そして、その視線の先には、おそらくは雛が落ちたのだろう巣がある。
「眠いんだよ、俺は。しかも、うちにはおまえみたいに口あけて夕飯待ってる奴らがいるし、おまえみたいなフライドチキン候補に関わりあってる暇なんて」
 雛を見下ろして一息にまくしたてたオーマだったが、やがて唐突に口を閉じ、そして空を仰いで嘆息した。
「‥‥分かったよ。ちょっと待ってろ。今、巣に戻してやるから」
 オーマが言うと、雛がぱちりと瞬きをした。
「俺の言ってることが分かるってのか、このから揚げ未満」
 おまえみたいに肉のなさそうな鳥なんてから揚げにする価値もねえな、と嘯きながら、オーマはしゃがみこんだ。雛は、逃げようともしない。ただ、真っ黒な目で上を見上げている。そんな雛に、オーマは大きな手を伸ばした。すると、それまで殆ど動かなかった雛がぶるりと大きく体を震わせた。雛を掴み上げかけていたオーマの手が止まる。
 そういえば、とオーマは口の中で呟いた。
 鳥類というのは他の生き物の匂いに敏感で、たとえこれまで育てていた雛であっても、他の生き物の匂いがついてしまうと、一切育てなくなってしまうという。ということは、仮にこの雛を巣に戻したとしても、オーマが雛を掴んで匂いがついてしまえば親鳥は雛を見捨てるということだ。
「‥‥おい」
 オーマは、ぴくりとも動かずに上を見上げるばかりの雛の眼前に、指を突きつけた。
「黙って人の顔見てるんじゃねえぞ、こら。人生達観するには、まだ早すぎるだろうが」
 黙って自分の境遇を受け入れようとでもいうのか、まったく動じていないように見える雛に僅かな苛立ちを覚え、オーマは軽く鼻を鳴らした。いや雛だから人生ではなく鳥生か、などとどうでもいいことを考えてしまった自分にも苛々する。
 その途端、雛の鼻先に突きつけたオーマの指先を、突然雛が突付いた。軽く小突いたなどというものではない。それはもう、力いっぱい突付かれた。思わずうめき声が出る。
「この、くそ鳥が! いいか。今この瞬間、お前の人生の終焉はフライドチキンで決定だからな。思いっきり薄力粉を揉みこんだ挙句にこんがり揚げてやる」
 まさか言葉が通じたわけではないだろう。だが、雛はついと上を見上げていた視線をついと逸らして、オーマの顔を初めて見上げてきた。黒く大きな目は、オーマを見ているというよりはもっと何か別のものを見ているようで、見つめられていると居心地が悪い。ああ、とも、うう、ともつかない声で短くうめくと、オーマはがりがりと頭をかいた。鳥の気持ちなど、分かるはずもない。だが、何となく分かってしった気になる自分が、奇妙に腹立たしかったのだ。
 これは、子供が親を探す目だと、オーマは思ってしまった。頭が上がらないと表現してもいいほどに溺愛している娘のことが脳裏をよぎり、オーマは眉間に皺を寄せた。
「‥‥おい、から揚げ候補。恨むなら、巣から転げ落ちるなんて間抜けな自分を恨めよ」
 言うなり、オーマは灰色のぼんやりとした産毛に覆われた雛を、大きな両手で掴み上げた。途端に、雛が暴れだす。
「恨むならてめぇを恨めって言っただろ。落ち着け! 俺の手を突付くな!!」
 いくら怒鳴っても宥めすかしても、雛は一向におとなしくならない。それでも、オーマは雛を離さなかった。この雛はもう親に育てられることはないのだと思うと、妙に感傷的になってしまったからかもしれない。あるいは、もって生まれたやや捻じ曲がった性格のおかげで、暴れる雛に対して絶対に離してやるものかと意地になってしまったかもしれない。
 おかげで、オーマの手はすっかり傷だらけになってしまった。
「よし、分かった。てめぇはフライドチキンとかから揚げどころじゃ許せねえ。まずはミンチにして鶏肉だんごの運命だ」
 ぴい、と雛鳥が突然甲高い声を上げた。雛を掴んでしゃがんだまま空を見上げると、一羽の鳥が空を舞っていた。灰色の羽が、えんじ色の日差しに染まっているのが見て取れる。
 ぴいぴいと、雛はそれまで鳴かずにいた分と取り戻そうといわんばかりに、けたたましい声を上げ続けた。えんじ色の日差しが藍色の空に掻き消えても灰色の鳥は空を飛び続け、雛は泣き止まず、オーマはその場で灰色の鳥と雛を交互に眺めていた。
 しばらくすると、夕焼けは消え、辺りは薄闇に閉ざされた。空を飛んでいる鳥も見えなくなり、雛も鳴きつかれたのか、あるいは暗くなると眠るという雛鳥の習性によってなのか、すっかりおとなしくなった。
 オーマの手の中にいる雛は、あまりにも小さく、小動物らしい小さく早い鼓動はあまりにも頼りない。
「帰るぞ、鶏の肉だんご候補」
 そう呟き、オーマは立ち上がった。雛鳥の親は、もういない。巣から落ちてオーマの足の間に転がっていた雛は、オーマの手の中にいる。
「産んだ責任は、とって美味しく頂いてやるよ」
 ただし、とオーマは重々しく呟いた。
「もう少し、太ってからな」
 太らせるためには、まずは虫取りをしてその虫を雛に与えて大きく育てなければいけない。引き締まった肉にするためには、きちんと飛ぶように仕込まないといけないだろう。
 オーマは明日からの毎日を思い、軽く嘆息した。そして、まずは家に帰り、妻と娘にこの雛を家に置くための了承を得なければいけない。その後は、さっそく夕食の準備だ。
「早くでかくなって、立派な食材になれよ」
 雛が大きくなった頃に、情だとかいう余計なものが多分に移っていないことを祈りながら、オーマは軽く空を仰いだ。
 鳥はもういなかったが、空には月がかかっていた。