<東京怪談ノベル(シングル)>


君に出来る事、僕に出来る事


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 その日、オーマ シュヴァルツは普段と同じ朝を迎えていた。
 輝く朝日に向かって背伸びをした後で、洗濯をして、食事の支度をして・・その時、遠くで何かが爆発するような音が聞こえた。
 しかし、それはあまりにも小さな音で・・さしてオーマの心に留まることではなかった。
 野菜を洗う水音で、そのほとんどをかき消していたのだから・・・。


■□■

 バタリと大きな音を立てながら、扉が開いたのはもう日が昇りきっていた時だった。
 切羽詰ったように響く音に、オーマは何事かと玄関へと急いだ。
 大きな玄関に、呆然と立ち尽くす小さな少年。
 琥珀色の瞳は怯えるように震え、はだしの足には血が滲んでいた。
 そして・・全身に飛び散る赤い・・。
 「なっ・・!!おまえっ・・」
 「僕の血じゃっ・・貴方がお医者さんですかっ!?ママがっ・・妹がっ・・!お医者さんっ!助けてっ・・!!」
 少年はオーマの腰にしがみつくと、ぎゅっと服の裾を掴んだ。
 オーマはしゃがみ、少年と視線を合わせると優しく問いかけた。
 「どうした?何があった?」
 頭を撫ぜ、興奮している少年を落ち着かせる。
 少年は2度3度深呼吸をすると、頬についた血をグイと袖で拭った。
 「朝・・家の近くで何かが爆発して・・家がなくなっちゃって・・。起きた時には、ママと妹が・・真っ赤で・・っ・・。」
 少年の琥珀色の瞳に大粒の涙が滲む。
 「それで、お前さんの家はどこなんだ?」
 「外・・。」
 「エルザードの外って事か?」
 少年がコクリと首を縦に振り、その拍子に涙が頬を伝った。
 それでも泣くまいとして、キッと瞳に力を込めるものの・・一旦零れてしまった涙は留まる所を知らずに零れ続ける。
 オーマは少年を優しく抱きとめると、チラリと表を見つめた。
 太陽は既に頂上にいる・・。
 つまり、少年の家が謎の爆発で崩壊してから軽く見積もっても3時間から4時間はたっている。
 最悪4時間以上・・。
 少年の身体に飛んだ赤の色彩が、一瞬だけ頭の奥をよぎる最悪な事態を肯定させる。
 オーマは奥歯を強く噛んだ。
 まだ・・まだだ。
 まだ“そう”と決まったわけじゃない・・。
 自分自身に言い聞かせるように、何度もその言葉を復唱する。
 希望を失わない事は、自己を持つ全てのものに与えられる権利の一つだった。
 その反面、最悪な事態・・すなわち、希望を打ち砕くような想像を働かせてしまうのは、自己を持つ全てのものに起こる悲しい現実でもある。
 いつも希望を失わない人々が、それが打ち砕かれる夢を見た事がないなんて・・そんな素敵な事は起きない。
 いつだって薄皮一枚を隔てて引っ付いているもの・・それは、希望と相反する絶望。
 けれど・・絶望に飲まれる事は許されなかった。
 医者であるオーマは、目の前で絶望に打ちひしがれている患者に、いつだって希望を与えなければならない。
 オーマが絶望に飲まれてしまったならば・・その患者は・・?
 大丈夫だ、俺が助けてやっから、もう大丈夫だ。なーんも心配しねぇでも、大丈夫だって!
 そう言って患者を勇気付ける裏では、自分ですらも勇気付けているのだ。
 ・・大丈夫だ。焦らず、状況を見極めて・・大丈夫、やれば出来る。
 患者にしてあげられる事は、治療だけじゃない。
 希望をあげることも、勇気をあげる事も・・医者にとっては大事な仕事だった。
 それに・・医者である無しに関わらず、オーマは諦める事が嫌いだった。
 諦めてしまったら、そこで終わってしまう気がして・・。
 ふと、オーマの胸で泣き崩れる少年の足元を見つめた。
 裸足でボロボロになった足。所々血が滲んでいる・・。
 きっと一心不乱に走ってきたのだろう。裸足なのも気にせずに、ただ前を向いて・・。
 「よし・・それじゃぁ行くか。」
 オーマは少年を胸から放すと、その小さな頭をぽんと軽く叩いた。
 「すぐに支度しくっから、早い所ママと妹とやらのところに行くぞ。」
 「・・うん・・。」
 オーマはそこで待っているように少年に言うと、急いで必要なものを見繕って鞄に詰めた・・。


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 丁度エルザードの町から少しはなれた場所、小高い丘のある場所に・・その惨劇は広がっていた。
 明らかに何かが爆発したような跡が広がり、周りに茂る木々がのけぞっている。
 そして・・。
 「ママ・・!」
 つぶれた家の下でグッタリと力なく倒れている2つの人影・・。
 オーマは直ぐに近寄ると、呼吸を確かめた。
 まずは女性の方・・ほとんど虫の息だが・・確かにある!
 今度は少女の方・・こちらは、幾分母親よりはしっかりとしている。
 オーマはそれを確かめると、2人の上にのしかかっている瓦礫をどけた。
 少女の方はそれほど出血は見られないが・・母親の方は酷い出血だった。きっと、彼についていた血は母親のものだろう。
 オーマは脇に置いたバッグから包帯を取り出し、出血部分に巻いた。
 きつく包帯を巻き、近くの動脈を止める。
 夥しい出血の出所は、右足の太ももからだった。
 瓦礫が落ちてきた時に何かが刺さってしまったらしい・・。
 一応の応急措置を済ませると、今度は少女の方へ身体を向けた。
 こちらはかすり傷程度だった。
 けれど・・意識はない。
 「こりゃぁ、ちゃんと検査してみねぇとな・・。」
 オーマは小さく呟くと、エルザードの町並みへと視線を延ばした。
 「・・ママ・・!」
 少年が2人の顔を交互に覗き込み、閉じた瞳の奥を見つめる。
 絶え間なくかける呼び声は、乾いた地面に吸い込まれ・・吸収される。
 ・・・この子は強い。
 オーマは心の底からそう思った。
 取り乱さず、焦らず・・彼はきちんと目の前の状況を理解している。
 そうでなければ・・・彼はオーマの所に来る手段を持たなかった。
 帰って、直ぐに検査をして・・必要ならばオペをして・・。
 広げっぱなしだったバッグの中身を押し込むと、オーマは顔を上げた。


■□■

 母親の足は、出血に比べて大した事はなかった。
 けれど後半日あのままあそこにいたならば、確実に命を落としていた。
 ノエラのほうは病院についた後直ぐに意識を回復した。
 朦朧とする意識の中で“ママ”と“お兄ちゃん”という言葉を何度も繰り返し、虚空へ手を伸ばしていた。
 その度に、彼は『ここにいるよ。』と言いながらその手をぎゅっと握っていた。
 オーマは母親の足の治療が終わると、その光景を少し離れた場所で見つめていた。
 「ママ・・。お兄ちゃん・・。」
 「ここにいるよ。大丈夫。お兄ちゃんはココだよ。」
 少女の華奢な手を取る。
 「・・・ママ・・。」
 「・・ゴメン・・僕は、ママじゃない・・。」
 「ママ・・。」
 「・・・ママ。」
 「・・ママ。」
 「ママ・・・。」
 繰り返される“ママ”と言う言葉。
 もしも隣の部屋で眠っている母親が聞いたのならば、どれほどまでに心打つ響きなのだろうか・・?
 母親の意識は、まだ回復していない・・。
 オーマはそっと2人の元を離れた。
 その背中に聞こえてくる、小鳥たちが囁くような声。
 祈るように紡ぎだされる・・大切な人の名前。


 落ちかけた夕日はエルザードの町並みを淡く染め上げている。
 段々と近づく夜の気配にオーマは空を見上げた。
 「オーマ先生。」
 かけられた声に振り向くと、そこには彼がいた。
 着替えたのだろうか・・。少しブカブカの真新しい服を着ている。
 「おう、妹のほうはもう良いのか?」
 「うん。今、また寝ちゃったから・・。」
 「そうか。」
 2人は近くのベンチに腰を下ろした。
 彼はオーマの隣にちょこりと座り、じっと自分の膝を見つめている。
 「あ〜そう言や、足は大丈夫だったのか?」
 「うん、看護婦・・さん?が、やってくれた。」
 「あ〜。」
 オーマはふと頭に浮かんできた人物・・いや、人なのか?・・を、思い浮かべた。
 「オーマ先生はさ・・」
 「待った、その、オーマ“先生”っつーの、はずしてもらえねぇか?なぁんか、くすぐったくってよ。」
 「うん、それじゃぁ、オーマさん?」
 「あぁ。」
 「オーマさんは、凄いよね。2人を助けちゃって。」
 「そうか?・・それが職業だしな。」
 「でも、凄いよ。僕・・何も出来なくって・・。」
 彼は一つだけ悲しそうにため息をついた。
 膝の上に置いてあった掌を、ぎゅっと握る。
 「ママ達が苦しんでるのに、見てるだけしか出来なくって・・。」
 オーマはまじまじと隣で俯く少年を見つめた。
 まだ、9か10かそのくらいの少年。
 それなのに・・考えている事は大人びていた。
 オーマの元に走りこんできた時は、幼い少年だと思った。
 泣きそうになりながら、裸足で走ってきて・・オーマの前で涙を流した。
 現場に駆けつけた時、彼は状況をよく理解し・・そして、オーマは彼の事を強いと思った。
 決してみだりに取り乱さず、パニックに陥らない彼の事を・・。
 オーマは彼の髪をくしゃりと撫ぜた。
 「おめぇさんは、強いな。」
 「え・・?」
 「普通、ああ言う場面に遭遇するとパニックに陥って、するべき事が分らなくなっちまう人が多いんだ。だが・・お前はちゃんと俺の元に走ってこれたじゃねぇか。」
 「でも、僕・・何も出来なかった・・」
 彼の声は苦しそうだった。
 オーマはベンチから立ち上がると、目の前にしゃがんだ。
 視線を合わせ、優しく微笑んだ。
 「あのな、人には出来る事と出来ない事があるんだ。例えば、お前が湖に落ちたとするだろう?んで、自力では岸まで行けないとする。」
 「僕、泳げるよ・・?」
 「だから、例えばの話だっつの。・・ま、良いや。それじゃぁ、そうだな・・例えば、お前の背中に虫が止まってるとするだろう?」
 「・・うん・・。」
 少年が少しだけ、背中を気にするそぶりを見せるが、無論オーマの話は“例えばの話”なので、背中に虫なんてついていない。
 「自分では、背中の虫は取れない。・・な?」
 「うん。どこについてるのか、わかんないもん。」
 「あぁ、そうだ。けど、俺には取れる。」
 オーマはピッと、彼の背中を払った。
 「今、お前は自分の背中が見れなくて、虫を払うことが出来なかった。だな?」
 「うん。」
 「俺はお前の背中を見ることが出来たから、虫を払う事が出来た。」
 「うん。」
 「けどな、俺がお前の背中の虫を払えない場面だって多々ある。」
 「どうして?」
 「例えば、お前が走り回っていた場合、俺は背中の虫を払う事が出来ない。だろう?」
 「うん。ずっと追いかけなくちゃいけないものね。」
 「そうだ。まずは止まって、俺に背中を見せてくれなきゃならねぇ。そうしないと、俺は何も出来ない。」
 「・・うん。」
 「今回のことだってそうだ。」
 オーマはしっかりと、彼の瞳を見つめた。
 少年も、精一杯の力でオーマの瞳を見つめる。
 「お前が俺の所に来なければ、俺はママと妹を救えなかった。その状況を、気付く事すらできなかった。」
 「・・うん・・。」
 「よく思い出してみろ、目が覚めて、2人を見て、お前には何が出来た・・?」
 視線が宙を泳ぎ、数時間前の過去を思い出す・・。
 「気が付いたら、2人が倒れてて、血が出てて・・。周りに誰もいなくって、だから・・だから僕は・・」

 『お医者さんの所に行かなきゃって・・』

 オーマは彼に向かって微笑むと、くしゃくしゃとその頭を撫ぜた。
 くすぐったそうに微笑む彼の顔は・・年相応の無邪気さを含んでいた。
 「それが出来たのは、お前ただ1人だ。」
 「うん・・。」
 「あのな、生きてると、色々な選択肢がまとわり付いて来るんだ。今日の事もそうだし、きっとこの先も何かしらの選択を迫られる時がある。」
 オーマは立ち上がると、暗く染まったエルザードの町並みを見つめた。
 家々の明かりが、揺れるように幾つも幾つも点っている。
 「そんな時、迷ったって良い。考え込んだって良い。けどな、その時自分が思う一番良い選択肢を選べ。そうすれば・・きっと次に繋がる。」
 「うん・・!」
 彼は一つだけ大きく頷くと、オーマに走り寄った。
 オーマが彼を抱きとめ、彼は小さな手で胸にぎゅっとしがみ付いてきた。
 「僕ね、僕・・。」
 「ん?」
 「将来、お医者さんになるんだ。今日みたいに、誰かが怪我しても、オーマさんみたいに治してあげるんだ。」
 「そっか・・。お医者さんか・・・。」
 「うん。それでね、オーマさんが怪我した時も治してあげるからね!?」
 「そりゃ、ありがてぇな。」
 彼がオーマを見てニコニコと微笑み、オーマもつられて微笑む。
 まだまだ先の長い彼の将来、選択肢はいくらでもある。
 けれど・・無数にある選択肢のうちから医者という一つの選択肢を選んだのは・・。
 「それでね、僕・・患者さんに言うんだ。今日のオーマさんみたく、選択肢はいっぱいあるって。一番良い選択肢を選ぶんだよって。」
 「あぁ。・・・良いお医者さんになりそうだ。」
 医者と言う、一つの選択肢を選ぶ。その背を押したのは、オーマだった。
 「ママ、明日には目を覚ますかな・・?元気になるかな?」
 「あぁ。2人とも、直ぐに元気になるさ。」
 「ママ達が元気になったら、僕・・お医者さんになるんだって、お話してあげるんだ!」
 そう言って笑う彼の顔は、少し先に見える町の灯りよりも輝いていた・・。

□■□

 数週間後、意識を取り戻した母親と元気になった彼の妹、そして医者になるという一つの目標を見つけた彼は、近くの家に住む事になった。
 あの爆発事故はいまだ謎のままだったが・・。
 「この度はありがとう御座いました。」
 「いや、良いって事よ。」
 「・・オーマさん、また来ても良い・・?」
 「あぁ、何時でも来いよ。今度は足からの出血の場合の止血法を教えてやる。」

 大きく手を振る彼と、小さく頭を下げる母親。妹は母親の手につかまって、遥か先を眺めている。
 その背中が道の中ほどまで進んだ辺りで、彼がこちらへと走ってきた。
 「どうした?忘れもんか・・・?」
 「ううん。」
 彼は首を振ると、斜めに提げ持ったポシェットの中から小さな石を取り出した。
 それは、光に当てると七色に光る・・とても綺麗な石だった。
 「これ、オーマさんにあげる。」
 「・・いいのか?」
 「うん!」
 コロリと、小さな石が大きなオーマの掌に乗り七色に光る。
 「僕、これから先・・何度もいろんな事に迷うと思う。でも・・僕、一番良い選択肢を見つけるから。」
 「あぁ。」
 「オーマさんも・・・」
 「あぁ。そうだな。」
 最後まで言い切る前に、オーマは頷いた。
 その先に何が続くのかは、容易に想像できたから・・。
 「それじゃぁ、また・・来ます。」
 今度こそ本当にオーマに背を向け、走り出した。
 そして・・・3人の姿が道の向こうへと消えた・・。
 オーマは掌に乗った石をマジマジと見つめた。
 七色に光り輝く石は、様々な色彩を別々の方角へと発している。
 赤は南へ、黄色は東へ、青は北へ、橙は西へ。
 南南西は紫、西北西は・・・。
 オーマはその光り全てを拳の中に閉じ込めた。
 ・・しばらく3人が消えた道を見つめた後で、扉の中へと入って行った・・・。
 
   〈END〉