<東京怪談ノベル(シングル)>
希願
自分たちの世界とは異なる世界――異界。
その一つであるここ、聖獣界に足を踏み入れて早……忘れるほどの時が経った。
いまでは自分たちのいた世界を『異世界』と呼ぶほどに、この身はこの地に落ち着いている。
オーマ・シュヴァルツは、ふと、唐突に、実に何の脈絡もなくそんなことを思い起こしていた。
いまでこそ馴染みきってしまったこの世界に、当初はどんな思いを抱いていただろう。
例えば、期待。好奇。あるいは高揚を感じていたかもしれない。
それとは対に、戸惑いや不安、はたまた恐れを感じてはいなかっただろうか……。
何の気なしに思案したが、すぐにやめた。
幾ら考えたところで、いまとなっては脚色された『思い出』だ。時を遡る術でも持たぬ限り、あの頃の自分を見つけることは、できない。
「ま、判ってたって考えずにはいられないっつーのが、ヒトってもんか」
不意に口をついた自嘲のような呟きに、オーマは肩を竦め、いつもの――いや、この地においての馴染みの道を、行く。
目新しいものの一つもない道のりを。
この道を何の迷いも、疑いもなく行くようになったのは、さて、いつの頃からだっただろう。
こんな、怪しさ極まる道を。
「改めて見ると、えれぇ際どいところなんだなぁ……」
己の持ちたる能力によって生み出した、この場所。
精通した分野をフルに生かして営む、この場所。
それは腹黒でイロモノを自称する自分が意和なくその場に収まることができるような、そんな場所。
そこを普通――俗に『一般』と呼ぶ視点から見てみれば、さぞ、怪しく見えることだろう。
あえて、何がどうとは言わないが。
だが、なかなかどうしてこの『異端者の集う場所』は、この世界にしっくりと収まっているではないか。
あくまで己の観点から見ての、ことだが。
羨望と畏怖とを同時に湛えたこの身は、元来自分がいた世界においては忌み嫌われる存在であり、同時に『人間と敵対する存在』に唯一対抗できる切り札のような存在でもあった。
それが、この地へきてみれば、どうだ。
相変わらず『人間の敵対者』を唯一封印している身ではあるが、少なくとも、忌まれる存在ではなくなっている。
むしろ好意を持ってくれる者が多いのではなかろうか。
友人、師弟、ライバル、部下やペット……。
実に多くの者と関わりを持ったと、自分でも思う。
そしてそこに垣根はない。種族が違おうが、関係ない。互いが抱く事情も、使命も、価値観も、全て受け入れての、付き合いだ。
まぁ……例外がいないとも限らないが、概ねそんな者だろう。
「――って、俺が言いてぇのはそんなことじゃねぇんだよ」
堂々巡りを始めそうな自分の思考に区切りをつけ、オーマはふと、立ち止まって空を仰いだ。
瞳に映る、青い空。そこ浮かぶ、白い雲。黒い粒のように点在しているのは、鳥などの生き物だ。
オーマの視界に広がっているのは、無限。
隔てるもののない、世界。
「境界のない付き合いってのは、難しいもんじゃねぇハズなんだけどなぁ……」
自嘲を超えた、皮肉。
願っても望んでも、全てが思うように行かないのは長く――生まれた瞬間さえ忘れるほどの時を経た中で、痛感していることだ。
それでもまだ、願っている自分が、ここにいた。
彼の者との共存を。
可能であるはずの希望を。
いまはまだ、叶いきれぬ望みではあるけれど。
「ま、諦めないで行こうかね」
視線を空から地へと下ろし、ぼりぼりと頭を掻いて口の端を吊り上げると。オーマは、止めていた歩みを、再び進めだした。
と、何やらけたたましい音とともに、喚くような嘆くような何とも気分の悪い声が、聞こえてきた。
そう遠くない場所で、喧嘩でもしているらしい。その方を気にしながらもいそいそと通り過ぎて行く人々の間から、騒ぎの中心が、見て取れた。
見たところ、一対多数。しかも喧嘩というよりは……一方的な搾取に近い装いだ。
「えらく意気込んでまぁ……」
いっそ見ぬ振りをしてしまっても構うまい。そうすることは、時間も労力も取らず、楽といえる判断である。
だが、見つけてしまったものを無視できるほど、オーマはヒトというものに無関心ではなく。
とっさに足を踏み出した自分に、ほんの少し笑みを浮かべると。
「おうおう。ちょっとごめんよ」
騒ぎの渦中へ踏み込んで行くのであった。
何の気なしに、まるで、当然のことのように過ぎて行く一日。けれど改めて振り返れば一つ一つに深い思い入れもあるようだ。
そしてこれからも、オーマの記憶にはこの異界における『ありきたりの生活』が『当然のように』刻まれていくのだろう。
そう。いつか、彼がこの地を離れる、その時まで。
いつか、彼がこの地を離れた、その後さえ。
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