<東京怪談ノベル(シングル)>
不老不死の神酒
空は曇り。
乾いた風は容赦なく肌を痛めつけて行くというのに、高ぶった気分ではそれも気にならない。
赤茶けた景色の中、男が一人。
見通しをよくするべく、かぶっていた土埃に汚れたフードを脱ぐとはらりと背中に流れ落ちる茶色い髪。
真剣な表情で前を見つめる瞳は琥珀のようにすら見える金の瞳。
ザッと風が吹きマントがなびくその下には、武術をたしなんだとはっきりと解る鍛えられた無駄のない体つき。
乾いてひび割れた唇をほんの少し舐めて濡らし、小さく呟く。
「……やっと」
目的の場所までもうすぐなのだ。
呟いたリンシャオ自らの言葉にすら、これが事実なのだと確信し胸が躍る。
それ程に、それ程までに、待ち望んでいた瞬間がもうすぐそこまで来ているのだ。
はやる心を抑え、マントの前を合わせて確実に前へと進む。
長い旅はもうすぐ終わる。
だからこそ、気を引き締め治さなければならないのだ。
惑わされてはならない。
後少しという時の油断は。何よりも恐ろしいものなのだから。
目的の物は只一つ。
不老不死の神酒。
これまで探し求めて来た物がそれだ。
切っ掛けはリンシャオが支えるシナの国王より下された命。
リンシャオが心から尊敬し、憧れの対象である人物からの頼みだ。
何よりも優先して行うべき事である。
もっとも、ここまでの長い道中では路銀を稼ぐために魔物退治の依頼を受けたり、情報を手に入れるのに頼み事を聞き入れたりもしてきた。
ここに来られたのも、一つの依頼を受けてその代わりに得た情報による物だった。
沢山の出会いと、様々な出来事。
その時の話も良い土産になるだろうが、本命はこれから手にする神酒。
無事に持ち帰る事が出来たら、主はどんなに喜んでくれる事だろう。
想像するだけで、胸が熱いとさえ感じ始める。
手にした地図と前を見比べ、しっかりとこれからどう進むかを頭に叩き込む。
現在地から先は獣がでるそうだ。
襲われなければいいと言うのは希望、目的を達成したいのは当然だが、出来る限り傷つけたくはないのだ。
無手のままで、マントをなびかせ一気に荒れ地を走り抜ける。
足場は悪かったが、鍛えられたリンシャオはそれを苦にする事も無かった。
しばらくの間は土を蹴る音と、僅かに舞い上がる土埃。
規則的に続いていた動きを止め、気配を探る。
近づいてきているようだ。
「……来る」
腰に下げていた剣を抜き、横になぎ払い立てに構える。
首筋を狙い飛びかかってきたのは、リンシャオが知る狼を一回りも二周りも大きくしたような獣だった。
「くっ……」
間近に見える大きな口と牙。
剣を握る腕に力を込めて振り払うように距離を取る。
続けざまに二匹。
今度は近づく前に走り剣を振るう。
こちらから手出しはしないつもりだが、襲われたとあっては話は別だ。
「帰らねばならない理由がある……」
腕や足や刀。
全身で間合いを計りながら、無駄のない動きで獣の間を縫って前へと進んでいく。
最初こそ数に物を言わせて一斉に飛びかかってきたり、ずれて攻撃を仕掛けてくるのはなかなかの物だと思ったりもしたが……それも慣れるまでの話。
幾らか交わせば次にどう来るのかも解ってくると言う物。
その上数も減ってきている今なら、完全に見切る事は容易かった。
これまでの相手はそれで何とかなっていたのだろう、なるほど確かに多方向から一斉に飛びかかってきては押されもしよう。
だが。
今はとても調子がいい。
望みの物が後少しで手にはいるのだから。
無事に神酒を持ち帰るというリンシャオ目的にのほうが、獣たちの本能よりも遥かに勝っているのだ。
あの方の願いを叶えるためなら何だって出来る、望みさえして貰えたのなら不可能だって可能にして見せよう。
王に望まれた事は、同時にリンシャオの目的なのだ。
幾らでも強くなれる。
どこにだって行って見せよう。
うなり声をあげて襲いかかってくる獣たちの間を走り抜けながら剣を振るう。
そろそろ敵いそうもない相手だと悟っても良さそうなものだと思うのだが。
間合いに入ってきた獣を切り伏せながら、先へ先へと進んでいく。
大分数が減ってきたようだ。
切れ味の悪くなった剣を振ってから、再び腕を振るい始める。
「……懲りないな」
このまま全滅するまで続けるつもりなのだろうか?
進行方向にある森に視線を走らせる。
あそこまで行けば交わしやすくなるが死角も多くなるのも事実。
有利か不利であるかの条件は大体同じだ。
他所う地の利があるのなら、有利なのは向こうではあるとしても、大分数は減っている。
気を抜く事さえしなければ対処できる事だろう。
何よりあそこを通らなければ目的の場所に付けないと言うのであれば、躊躇なんて言葉は皆無だ。
そう思っていたのに、獣たちの攻撃は森に一歩踏み込むと不意に終わりを告げた。
「………?」
まるで見えない壁でもあるかのように、ある所から獣たちは踏み出そうとしないのである。
結界などは張られていなかった。
だとすれば……考えられるのは只一つ。
ここから先は、獣たちにとっての聖域なのだ。
だから入ってくる事が出来ない。
目的の神酒がある場所は間近だと言う事。
「………」
剣をさやに収め、リンシャオは冷酒の納められている場所へと向かい歩き始めた。
しっとりと水気を多く拭くんだ空気は、落ち着いた心地よさすら感じる。
辺りを満たす神気は、一度深呼吸をするだけでいままでの旅の疲れを心地良い物へと変化して行く。
実物を見なくとも、ここに納められているものならさぞや良い酒なのだと、奇妙な確信があった。
戦いによって高められていた気がここに入った瞬間から水が引くように静まり、弓を引く瞬間のように五感が研ぎ澄まされて行くのである。
なんて心地の良い緊張感。
この森の中だけは外から隔離されたかのように、すべての物が息づき生気に満ちあふれているのだ。
「………」
辺りの木々に見入るように足を止め、大事な事に気付いて足を止めてからマントを脱いで土埃を払う。
神酒を手にする前に少しでもこぎれいにしたかったのだ。
「これでいい」
再び羽織り治し、歩き出す。
あまり代わり映えはしないかも知れないとしても、大切なのは心構え。
「後、少しだ」
呟いた時、リンシャオの表情に浮かんでいたのは幸せそうな笑顔。
待ち望むのは手にした瞬間の達成感。
持ちかえる事が出来たその時に、主から何か言葉を貰えたのなら……それが何よりの褒美となろう。
目的まで、後わずか。
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