<東京怪談ノベル(シングル)>


黄昏時

 ――今日もまた、黄金色の時刻が迫って来る。
 一日のほんの一時、昼と夜が出会う、その隙間を埋めるかのように。

「――でさー」
「…だな、そう言う事は…」
 ざわざわ、と。
 夕餉の匂い溢れる大通りは、家路につく者と、これから夜を楽しむ者とが入り混じり、昼とはまた違った賑わいを見せている。そんな中、ゆったりとした動作で歩く1人の少女に、誰が目を止めるだろうか。
 ほんのりと口元に笑みを浮かべながら、春にはまだ少し間があるひんやりとした空気を楽しむかのように。
 まるで黄昏が凝って形作られたようなその金色の瞳は、同じ色の世界においては同化し、目立つ事は無かった。

*****

 また、夜が来る。
 周りの者に聞こえないよう、小さく溜息を吐いた1人の女性が格子窓の外を物憂げに眺めている。
 冬だと言うのに、肌の露出が大きく、薄物を何枚も重ね合わせた衣装をだらしなく纏いながら、頬杖を付いて。
 彼女は――同じような表情で、夜が来るのを待っている彼女たちは、この館で働いている。昼間は眠り、夜はこの館を訪れる『恋人』を迎えるために。
 …眠りから覚めた彼女たちが一番多く目にするのが、この黄昏に染まった街だった。
 何度見ても引き込まれる。
 悩み事がある者ほど、この…何もかもが溶けてしまいそうな色の中に囚われてしまうのだと、新人の頃先輩から聞いた言葉を思い出しながら、彼女は今日も外を眺めていた。
「今日はゆっくりなのね。早いうちに支度しちゃった方がいいんじゃない?」
 さらさらと流れる衣擦れの音と共に、すぐ近くに座った気配。
 掛けられた声の調子に、顔を見ずとも同僚がどんな表情をしているのか見当が付き、ほんの少しだけ眉を寄せてちらっとそちらを向いた。
「私にそんな怖い顔をしても無駄よ」
 にこにこと、楽しそうな笑顔を浮かべる同僚――からかうような表情を浮かべた彼女が、すとんと隣に座る。
「またあの男の事考えてたのね」
「……いいじゃないの。考えるのは自由でしょ?」
「そりゃあね、自由よ。自由だけど、それで悩んでもしょうがないでしょ?」
「悩んでる…わけじゃないわ」
 以前は毎日のように訪れていたのに、最近は滅多に顔を見せない事を恨んでいるわけじゃない。
 いつか一緒になろう、なんて調子の良い事を言われた事を、小娘のように信じきって待ち侘びているわけじゃない。
「あなた自身が黄昏てるのに、悩んでないわけないじゃない。…そんな目をして外を見てる子たちを、ずっと見てきたんだから」
 ――そう思っているのに、こんな言葉だけであっさりと打ち砕かれてしまう。
 言葉なんて、当てにならない。
 そんな事は分かっていた、つもりだった。
 それでもこの時間になると、自分の心が外の景色に溶けてしまう。――あの男の誠実さを、あの言葉を信じようとしてしまう。
「大概、いい事も悪い事も経験してきたつもりだったけどねぇ。この道ばかりはしょうがないわよ」
「そうかもしれないわね」
 今夜は来るだろうか。
 来て、また一時の夢を見せてくれるだろうか。
 ふぅっともう一度溜息を付きながら、窓越しに外を歩く人々を眺めて行く。

 黄昏に染まった街――その中を動いている人々の心を推し量るように。
 窓の向こうから、金色の瞳を向ける1人の少女には気付かないまま。

*****

「お疲れ。どうだ一杯」
「おう、行こうか」
「他の連中はどうする?」
 作りかけの建物の前で、日が暮れる前に今日の作業を終わらせた男たちが、これから酒場へ繰り出そうと笑顔で話している。その脇を、
「悪い、俺パス」
 そう言いながら足早に去って行く若い男の姿があった。
「なんだありゃ。最近付き合い悪いな、あいつ」
「ほっとけ、きっとどっかにいい女でもいるんだろうさ」
「ああ、それなら分からぁ。俺もかあちゃんがいなけりゃ同じ事してたかもしれねえしな」
「何言ってやがる、互いにべた惚れしてる癖に」
 ――仲間たちの声がわいわい遠ざかって行くのを背中に聞きながら、足早に家路へ向かう青年が、途中でふと足を止める。
 どうしても、あの建物を目で追ってしまう。
 ――あいつは今日も格子窓から外を覗いているだろうか。
 そう思ってしまえば、もう目を離せない。
『あの時間はね、あたしが一番素直になれる時間なの』
 気だるそうに頬杖を付いて、窓の外を行き交う人々を眺めながら、頭は別の事を考えている。
 そう語ってくれた彼女に会えなくなってもう何日だろうか。
 来なくなった自分の事を、会っていた時につい口にしてしまった言葉を、まさか信じてはいないだろうけれど。
 ――信じてくれる筈もないだろうけれど。
「まだまだか…」
 今の稼ぎでは、毎日会いに行ける程の余裕は無い。仲間との付き合いを絶って少しでもと蓄財に回しているが、どう足掻いても彼女を迎えに行けるだけの資金にはほど遠い。
「………」
 いっそ街を出て、危険だが見入りの良い仕事に就こうか。
 この時間になると、いつもそう思う。
 今貯めた金を資金にして、街を出る前に彼女に会いに行って――迎えに行くまで待っていてくれと、言葉を掛けて。
「――ふぅ」
 戯言と自分でも分かっている。
 第一、何の約束をした訳でもない彼女に、待っていてくれなどと言える筈が無い。言われた方にしても迷惑な話だろう。本当に成功するか分からない、または無事戻って来れるかどうかの保障も無い男に縛られるなど愚かな話なのだし。
 それでも、僅かな可能性にすがりつつ、男は今日も黄昏の中、迷い続けている。

 ふと。

 同じように、あの建物を眺めている人影に気付いて男は不思議そうに瞬きした。
 後姿だけだったが、それはどう見ても少女。男のように感慨に耽りながら見る建物とは思えないのだが、たまたまだろうか。…いや、単に黄昏に染まる建物に見とれているだけなのだろう。
 男の視線に気付いたのか、少女がくるりと振り返って――その瞳の色にどきりとした。
 この世界に同化したかのような金色の瞳。ほんの少し動いただけでも輝きが変るように見えるその目や、すっと動き出した時のしなやかな動作がどことなく猫を連想させる。
 少女は別段男に声を掛ける事も無く、そのまま何気なくちらと目を合わせただけで通り過ぎて行った。

*****

 闇がゆっくりと降りてくる。
 黄金色の世界は奇蹟のように闇に塗り潰され、それに合わせて道行く人々の姿もいつの間にか消えて行く。
 同時に、迷いが消えた。
「――よし。言おう」
 今まで貯めた金で、当座は何とかなる。
 彼女に笑われても構わない。とにかく、自分の気持ちを口にして――全ては、それから。
 そう思い定めた青年は、今までと違いしっかりした足取りで彼女の居る建物へと向かって行った。

 黄昏が終わる前に。

 一対の目に見送られて。


-END-