<東京怪談ノベル(シングル)>


『幸福な銀貨』


 淡いむらさき色のベールが街をおおっていく。春のたそがれは、物悲しくて、そして優しい。
 フィセル・クゥ・レイシズは、家への道を早足に辿っていた。酒場で受けた依頼をこなして小金を稼ぎ、その一部で妹に頼まれた食材を購入した。ゴワゴワした紙の袋の中で、じゃが芋やオレンジが踊る。キャベツに人参、林檎、竹皮に包まれたひき肉。妹は、今夜は何を作ってくれるのだろうか。
 街路が霞んで見えるのは、桜並木の枝の上で蕾が膨らみ始めたからだろう。フィセルはエメラルドの瞳を細める。

『予定より、少し遅くなっただろうか』
 フィセルは買物が苦手なので、手間取ってしまった。市場のおやじに声かけようと思うと、隣の婦人に先を越されてしまい、フィセルは言いそびれる。その婦人の買物が終わったので口を開こうとすると、後ろの婦人がフィセルより早く欲しい物を告げる。いつまでたっても買えそうになくて、途方に暮れていたところに、おかみさんが気づいて、「あんた、あのにいちゃんに注文聞いてやんな。さっきからずっとお待ちだよ」と亭主を肘で小突いてくれた。
 動作も機敏だと思う。判断も早い方だ。フィセルは一流の剣士である。だが、ご婦人たちの中に入って、我先に自分の意志を主張するのは不得手だった。

 妹が待っているので、近道を選んだ。廃墟となった倉庫の敷地を斜めに突っ切るのだ。立ち入り禁止の札も無く、ロープが張られているわけでもないので、気軽に雑草の庭を通り抜けできた。倉庫自体は、もう屋根の一部も剥がれ、壁のレンガが崩れている箇所もある。金属の扉はひしゃげて開いたままで、風が吹くとブランコの音のように軋み声を上げ、寒々とした気分にさせた。
 だが風はもう柔らかい春のもので、フィセルの金色の前髪をふわりと舞い上がらせる。この額には、古代竜族の証・竜眼が隠されているが、今はただ陶器のようになめらかな肌だけがあらわになる。左耳の横から下がる一本の三つ編み、その毛先も胸元で揺れた。
「すみません・・・」
 消え入るような声が聞こえた気がして。フィセルは立ち止まった。辺りを見渡す。気のせいか?
 数歩歩いたところで、また「そこのにいさん・・・」と呼ぶ声がした。しゃがれた男の声だった。空耳では無いらしい。フィセルは、目を凝らしてさっきより念入りに近くを見回した。
 崩れたレンガの陰。壁にもたれ、ローブを毛布のようにまとい、膝を抱えた男。ローブも服も髪も、闇のように黒い。病人だろうか、顔色は土気色で、長い前髪が汗と汚れで額や頬に張り付いていた。
「どうした?医者を呼んで来ようか?」
「とりあえず、オレンジを一個くれませんか。喉が乾いて・・・」
「了解した」
 フィセルは紙袋から、香りのいい艶やかなそれを一個取り出し、食べやすいように剣で二つに切ってやった。病人のようなので、丸齧りするのは難儀だろう。
 男は、礼を言う間も惜しんで、半球にかぶりつき、果汁を吸い取った。口髭に果肉が絡まるのも構わず、男は夢中でもう半分も啜り尽くした。
「もう一ついるか?」
「い、いえ。あまり食べるとまた嘔吐と下痢が・・・」
 男は脱水症状を起こしていたようだ。
「おかげで助かりました。気分がよくなりました。自力で医者には行けそうです」
「何なら医者まで付き添ってやるが」
「いえ、だいぶしっかりしてきましたから。それに、その荷物。ご家族が、食材を待っておられるのでは?」
「あ、まあな」
「オレンジの代金、いくらお支払いすればよいでしょう?」
「いや、いいよ」
「でも・・・」
「3個での値段だったし、他にも買ってまけてもらった。正確な金額もよくわからない。あれは差し上げるよ」
「では、お礼に、せめてコレを受け取ってくれますか」
 男はローブで両手の果汁をぬぐってから、懐から一枚の銀貨を差し出した。王の肖像と獅子を型取ったコインの表が天を仰いでいる。男がひょいと指でひっくり返してみせると、そちらも王と獅子。両方『表』の不良銀貨だった。
「これには銀貨の金銭的価値はありませんが・・・代々魔法使いだったわたしの家に伝わる『幸福の銀貨』です」
「幸福の銀貨だと?」
 そのうさん臭さに、フィセルは眉根を寄せた。
「銀貨を握って、相手の顔を思い浮かべながら、幸せを祈ればいいのです。祈られた相手に、きっと幸せが訪れるという、魔法の銀貨です。ただし、願いを唱えられるのは、一人の人間が一回だけ。それも、『幸福を祈る』ことにしか使えません。もちろん、自分の顔を思い浮かべて祈ってもいいですよ」
「そんなすばらしい魔法のアイテムを、なぜ私などにくれる?たったオレンジ一個で」
「一生に一度しか使えないんです。わたしはもう使った。わたしが持っていても、もう利用できません」
「ご家族に譲ればいいだろうに」
「いませんから・・・」
 男は目をそらせた。
「すまないことを言った」とフィセルは素直に詫びた。フィセルも早く両親を亡くして、妹と二人きりの身の上だった。
「いえ、いいんです。わたしは、誰のことを祈ろうか選択できずに、迷ってばかりで。そのうち洪水が村を襲い、家族は死んでしまいました。
 父と母、どちらのことを祈ろう。いややはり、今付き合っている恋人のことを祈ろうか。いや、今の彼女とはそう長く付き合わないかもしれないし、次の恋人のことを祈ろうか。いや、妻になる人を見つけたら、その人の為に祈ろうか。
結婚したらしたで、今度は、生まれて来る子供の為に祈ろうかと思い、次の子供の方が可愛いかもしれないと思い・・・。
 わたしはただの欲張りです。最高の使い方ができる相手を求めるうちに、こんなことに」
「え?では、あなたはいつ使ったのだ?」
「さっきですよ。具合が悪くてあまりに苦しかったので、大袈裟ですが、このまま行き倒れて死ぬのかと思いました。自分の為に祈りました。そしたら、あなたがオレンジの香りをさせてここを通り掛かった」
「・・・。」
 男は、茫然とするフィセルの、紙袋を抱えた掌に、幸福の銀貨を押し込んだ。
「使えるのは一生に一度きりですかからね。よく考えて使ってくださいね」

「いや、考える必要はないさ」
 フィセルはそう断言すると、銀貨の入った拳を握って、目を閉じた。妹の顔を思い浮かべる。現在居もしない恋人や、将来現れるかもしれない(現れないかもしれない)妻の幸せを祈るより、今、一番大切な人の幸せを祈った方がよっぽどいい。
「にいさん。もう使っちまったんですか〜」
 男があきれた果てたような声を発した。
「自分に、じゃないですよね?」
「まさか」とフィセルは笑った。
「にいさんとそのお相手には、銀貨なんて必要無かったですね。『一番大切だ』と、即、決めることができる人がいるなんて、にいさんは幸せもんだ。
 それに、そんなに想われている、お相手もね」
 フィセルの唇は笑みを作った。男にオレンジ一個分の幸福をもたらした魔法の銀貨。たいした力は無いのかもしれない。可愛かったのでさっき思わず買ったマーガレットの髪止め。もしかしたら、それを受け取った時に笑顔になる、それぐらいの幸福かもしれない。
 それでも、妹の幸せを祈っただけで、フィセルの心にはふわりと暖かい風が流れ込んだ。少なくてもフィセルは、この一枚の銀貨のおかげで、幸福な気分になれた。
 男から聞いた話を妹にすれば、頬を膨らませて、『なぜ、ご自分の為に使わなかったの!』と怒るだろう。『なにも私に使わなくても。一度しか使えないのに、もったいないです!』、と。妹には内緒にしておいた方がいいかもしれない。
 そうだ、今銀貨を渡せば、妹はきっとフィセルの為に使ってしまう。暫くフィセルが保管し、嫁に行く時にでも渡してやろう。

「ここから一番近い病院はわかるか?」
 フィセルは一度荷物を地に置いて、男が立ち上がるのに手を貸した。薄汚れていたので老けて見えたが、中年と呼ぶにもまだ早い年齢のようだ。
「あなたは、死を意識したから初めて自分の為に使おうと思った。だが、ずっと、人を幸福にしたいと思い続けて来た。
 きっと、銀貨を受け取るや否や自分の幸せを祈る人もいるだろう。そんな人は、きっとあまり幸福じゃないと思う」
 慰めになるかどうかわからなかったが。フィセルはそう口のうまい方では無い。男は黒髪を頬に張り付かせたまま、かすかに微笑んだようだった。

 男と別れ、フィセルは家路を急ぐ。宵闇は、布に染料をしみ込ませた時のように、急速に空の高い位置まで色を広げていた。銀貨はポケットに滑り込ませた。
『遅かったから、心配したじゃないですか!』
 上目使いに睨む妹の顔が浮かんだ。
『あ、いい林檎を手に入れましたね』
『まあ、私に髪止め?ありがとう。でも、ご自分のものはお買いにならなかったの?』
『・・・じゃが芋の種類、間違えたでしょう?』
 くるくると変わる妹の表情と、涼やかな声を思う。自然に足が早まった。
 フィセルはもう、銀貨のことを忘れていた。

< END >