<東京怪談ノベル(シングル)>
□枯れず死せず続き捧げる□
「うっし、婆さんあとちっと通ってくれればじきに治るぜ。そんじゃ薬出しとくから、また三日後にな。んじゃ次の奴ー」
深々と頭を下げて出て行く老婆に軽く手を振ると、オーマ・シュヴァルツは手を洗いながら待合室へと声をかけた。
季節の変わり目にさしかかったせいか、今日はいつになく来院する患者が多い。
朝、診療所の前にいつもの倍近くの患者が並んでいるのを見たオーマは慌てて開業の準備をした。
いつもより二時間も早い開業だったが、もう太陽が中天にさしかかろうというのに未だに患者が残っているという事実に、オーマの腹が辟易したような情けない音をたてる。起き出してすぐに開業の準備に追われてしまった彼は、まだ一かけらのパンも口にしてはいなかった。
しかし、この腹の虫からももうすぐ開放されるだろう。とオーマは診察室を区切るカーテンの隙間から待合室を眺める。診療待ち用の古ぼけた長椅子に座っているのはあと一人だけだった。
最後の一人である青年はオーマの声にのろのろと顔を上げて立ち上がり、カーテンをくぐった。
「で、どうした。どこが悪い?」
ぎしり、と椅子をきしませてオーマが問いかけると、青年は「はぁ」と間の抜けた声を出して俯いた。
「どこが悪い、っていうわけじゃないんですけど……いや、これも悪いって言うのかな……」
「はぁ?」
煮え切らない発言にオーマは眉をひそめるが、青年は自分の世界に入ってしまったかのように呟き続ける。
「胸悪いっていうか……いや悪いなんてそんな、違うな。ええと……良いっていうか、そうだ、良い意味で胸が苦しいって言えばいいのかな。でもこれじゃ何かおかしいしな……」
「おい」
「でもこれ以外にいい表現って見当たらないし……」
「こら」
「評判ではここ腕は確からしいけど、ちょっとアレだっていう噂もあったしな。こんな表現じゃ追い出されるかな……。でもこれ以外にどう言えばいいのか僕、分からないし……」
「おまっ……アレって何だ、アレって!!」
「え?」
そこでようやく青年は目の前にオーマがいるのに気付いたかのように、顔を上げた。
「あれ、ここ……診察室ですか? 僕、いつのまに入ってきちゃったんだろ」
「いつのまにもクソもあるか!! テメーきっちり自分から入ってきたんだろーが。……ったく、さっきから何ブツブツブツブツ呟いてやがる。もの言うならはっきり言いやがれ、はっきり!! こちとら腹減って気が立ってんだよ」
「はぁ。……すみません」
ぽかんとした顔で呆然と呟く青年に「もういいもういい」とひらひらと手を振り、オーマは改めて問いかける。
「で? どこが悪いってんだ。今度こそちゃんと言わねぇとそこの窓からケツ蹴って追い出すからな」
「はい。……あのう、胸が、……痛いんです」
「胸?」
はい、と頷いて、青年はぼそぼそと語り始めた。
胸が痛むようになったのは半年ほど前からで、とある場所を訪れると必ず胸に微かな痛みを感じるようになったのだという。
「始めは気のせいかなーって思ってたんですがその場所に行くたびにそうなるんで、これは気のせいじゃないよなって思ったんです。で、知り合いのおばさんに相談したら、この診療所がいいよって教えられて……」
「ふーむ、特定の場に行くと感じる痛み、か。怪しげな言い伝えがある所とか、もしくは何者かの呪いの場に踏み込んじまったって考えるのが妥当だな。お前さん、その場に何かよくない噂がたっているとか、そういう話を聞いた事はないか?」
「いいえ、特には」
「それじゃあ、近くに墓地とか魔術師の研究施設とか……」
「それもないです。だって商店街のど真ん中ですし」
「ど」
ど真ん中?
商店街の?
思いもしない場所の名を出されつい絶句してしまったオーマを尻目に、青年は「そうなんです」と淡々と首を縦に振る。
「ええと、言ってませんでしたっけ。僕、パン屋で働いてるんですけど、毎朝小麦を受け取りに粉屋さんへ行くんですよ。で、胸が痛くなる場所っていうのが、その粉屋さんに入った時なんです」
「粉、屋」
「ええ」
てっきり呪いやそっちの類かと思考を巡らせていたオーマは、これまた予想外の店屋の名を出されてついその言葉を反芻した。
粉屋。いやいやいや粉屋だからと馬鹿にするものではない、何か事件に巻き込まれているとも考えられるではないか。オーマは軽く咳をして、話を続ける。
「んで、お前さんはその粉屋に入ると必ず胸がその、……痛くなるっていうわけか」
「はい。それも、そこの看板娘の子を見ると急に」
「………………は?」
「笑顔がとても可愛いんですよ。自分だって早朝から頑張っているっていうのに、僕が行くと必ず『おはようございます、今日も一日頑張ろうね』って言ってくれるんです。その言葉を聞くたびに僕の胸は痛くなって……」
「いや、待て。もういい。もーいい」
オーマは肩の力が一気に抜ける音がしたような気がした。
つまりは、
「お前さん、そりゃ恋だろ。なら俺が出せる処方箋はたった一つだ、さっさとその粉屋の娘に告白してきっちり返事もらってこい。そうすりゃ返事が良かろうが悪かろうが胸の痛みはなくなるだろうよ。ったく、恋してるって自覚ぐらいきっちり自分で持ちやがれ」
きしむ椅子を回してこれ以上何も語るまいとカルテに向かうオーマの背に、しかし青年は声をかける。
「恋、ですか」
「おうよ。だからその胸の痛みにケリつけたいんならさっさと――――」
「でも僕、自分で言うのもなんですけど意気地が無くて」
「それは見てりゃ分かる」
「はぁ、やっぱりですよね。これって恋なのか……だけど告白なんて、大それたこと……」
まるで重病人のようなオーラを背中に感じてオーマが振り向けば、そこには案の定、ぐったりとうなだれている青年の姿があった。
「しかしな、伝えないことには何も始まらねぇんだぞ。お前さん、その胸の痛みをどうにかしたくってここまで来たんだろうが。なら、俺が指し示してやれる道は『潔くぶつかって来い』っていうのしかねえよ」
「それは分かったんですけど。でも、いきなり行って『貴女のことが好きです!!』って言うのって、すごく勇気がいるというか……恥ずかしくありませんか」
「馬鹿野郎、その恥ずかしさを乗り切った奴だけが好きな相手を掴まえられるもんだ。恥ずかしいって怖がってるようじゃ、一生その痛みと付き合っていくしかねぇな。んじゃ、とっとと金置いて帰れ。俺ぁこれからメシなんだ」
「…………はぁ、分かりました。それじゃ、失礼します」
青年が出て行った後、一旦『昼休み』の札を出したオーマは朝食兼昼食を頬張りながら去り際の後ろ姿を思い出していた。
相手がどんな娘なのかなどオーマには知る由もなかったが、あの終始低い精神状態ではまとまるものもまとまらないような予感があった。もちろん人の好みはそれぞれであり、またあの青年の一面しかオーマは知らないので断定はできなかったが、しかし。
「……ま、後はあいつ次第だし俺が気に病む事でもねぇか。人の恋路は、それぞれのモンだしな」
そしてオーマは気分を切り替えるように、新しく注いだ茶を飲み干した。
あくる日。
いつものように診療所を開いたオーマの目に飛び込んできたのは、上着の袖が千切れ履物を片方なくし、おまけに身体は擦り傷だらけという惨憺たる青年の姿だった。
青年は昨日と同じく、どこかぼんやりした様子でオーマに向かって頭を下げた。
「どうも、おはようございます」
「お、おう。お前さん、一体どうしたんだその傷。……まあ話は治療がてら中で聞こう、入りな」
「はい」
診療室に通された青年はオーマの手当てを受けながら、静かに語り始めた。
「確か昨日も言ったような気がするんですけど、僕って意気地がないんです。だから言葉にするなんてとてもできそうにもなくて……。それで、今話題になってる花、……ええと、なんでしたっけ」
「ルベリアの花か? 先ごろ、この界隈に一斉に咲いたやつ」
「ああ、そうですそれです。なんでも、想い人に贈ると永久の想いと絆で結ばれるとかいう噂の。同僚の女の子に話を聞いたんですが、この街でその話を知らない女の子はいないって言われて……やっぱり有名なんですね。それならその花を贈れば、言葉の代わりに僕の気持ちを伝えられるんじゃないかと思ったんです。でも、採れなかった」
その言葉に、オーマは首を捻る。
ルベリアの花はそういった噂のせいで商品価値を見出した者に採りつくされそうになった事があるが、規制がかかるのが早く、ほとんどの花は今も無事に咲いている筈だ。第一、オーマ自身もそこかしこを歩くたびに、忘れもしないルベリアの香りが漂ってくるのを知っている。
なのに目の前のこの青年は、その手に花を握れなかったのだという。
「採れなかったってのは、どういうことだ」
包帯を巻きながらの問いかけに、青年は顔を上げてぽつりと答えた。
「この手当てが終わったら、よかったら一緒に来てもらえませんか。……きっと話だけじゃ、信じてもらえないと思うんで」
手伝いの人間に言付けをしてオーマは青年と共に聖都の門を潜り、城外へと足を踏み出した。
一時期ほどではないが、そこかしこに独特な偏光色をした花が群れ、息づいている。ルベリアという美しい響きの名を与えられた花は、歌うように風に揺れていた。その度にきらきらと太陽に反射し、その一帯の空気が光をまとっているかのような光景は思わず足を止めてしまうのに十分な力を持って、けれど静かにそこにあった。
「見ていて下さい」
青年はざくざくと無造作に歩いて花の近くへと寄っていき、包帯を巻いた手をそっとその中のひとつに伸ばした。
――――が。
「うぉわっ?!」
思わず声をあげ、オーマは青年の首根っこを掴みその場から飛びすさる。
たった今青年が手を伸ばそうとしていたルベリアの花は、もうそこには見えない。あるのは巨大な鳥と、その手綱を引いている甲冑姿の人物だけだった。
「危ねぇじゃねえか!! どこ見て着地してやがる!!」
オーマの怒声に、初めて気付いたかのように鳥の上の騎士らしき者は兜に覆われた顔を眼下へと向ける。
「すまない、こちらも敵を追っていたのでな。この辺りで見たと思ったのだが……くっ、逃げたか。足の速い奴め!!」
騎士は舌打ちをすると現れた時と同じように飛び上がり、あっという間に空の果てへと消えて行く。
オーマは半ば呆然としてそれを見送っていたが、やがて青年へと目を下ろした。青年もまたオーマを見て、溜め息をついていた。
「……僕がボロボロになったのは、こういう事なんです。何故かは分からないんですけど、僕がルベリアの花に手を伸ばすと必ずああいう風に何かしらの邪魔が入ってしまって。……ほら」
青年が指差した先にあったものは、踏み荒らされたルベリアの花だったものが地面に横たわっている姿だった。そこには先程の輝きなどどこにもない。
晴れた日には似合わないその無残とも呼べる光景を見つめながら、淡々と青年はオーマの手から離れると、茎の折れたルベリアに触れて散った花びらをそっと撫でた。慈しむような仕草だった。
「こうやって、既に死んでしまったルベリアなら触れられるらしいんですけどね。……ごめんな、僕のせいでまた死なせた」
「別に今のはお前さんのせいじゃねえだろ、今の騎士が……」
「でも、僕が手を伸ばさなかったらこんな事にはならなかったのかもしれないから、謝るぐらいはしないと」
膝に付いた土を軽く払い、青年はオーマのもとへと戻ってきた。表情は相変わらず静かだったが、けれどその中に僅かに暗い色が宿っているのを、オーマは見逃さなかった。それが花を手に入れられなかった悲しみなのか、それとも花に対する哀しみなのかまでの判別はつかない。それほどまでに、青年の面に浮かぶ表情というのは薄かった。
「……思いを伝えるだけの勇気がない僕は、ルベリアが欲しいです。でも僕が触れられるのは死んだ花だけ……もうこれ、告白するなっていう事ですかね。それに採ろうとする度にこんな目に遭うんじゃ、花たちを無駄に死なせるだけでしょうし」
オーマはその言葉にしばらく考え込むように腕を組むと、やがて先程の青年と同じように花へと歩み寄り、かがんで土を掘り始めた。
太い指でかき出した土の中にあるものを見つけ、オーマの口に笑みが浮かぶ。
「そう悲観したもんでもないぜ、青年よ」
「はい?」
身体をずらしてオーマは青年に、土の中でうっすらと輝いている根を見せる。それは花弁ほどの輝きはなかったが、しかし確実に、生きていた。
「分かっただろ、この花たちはまだ完全にゃ死んじゃいねえ。急いで園芸家にでも頼めば十分どうにかなる代物だ、行くぞ!!」
「えっ、あ」
青年の腕を掴み、引きずるようにしてオーマは駆け出した。一陣の風が吹き、散った花びらがふわりと舞い上がる。
偏光色の花びらが空へと舞い上がり、その中を迷いのない大きな背中が駆ける様を見て、青年は息を呑んだ。迷ってばかりの意気地のない自分とは全く違い、逞しい背中をしている男はただ前を見据えたまま、声を張り上げる。
「せっかく芽生えた恋心ってやつを、そう簡単に手放したりするもんじゃねえよ。お前さん、昨日もそんなにボロボロになってまで花を採ろうとしたんだろ? 惚れた女の為にそこまでできるなんざ上等じゃねえか、それだけの想い、相手に伝えない手はねぇ!!」
「……できる、でしょうかね」
「おうよ。相手の返事はともかくとしてだ、気持ちを伝える事なんざやろうと思えば誰にだってできんだよ。そこに本当に伝えたい気持ちってのがあるんならな。……っと、ここだここだ」
砂煙をたてて立ち止まったオーマの視線の先には、朝だというのに薄暗い路地があった。人目につかず、独特の雰囲気を放っているそこへとオーマは躊躇いもなく足を踏み入れ、青年も不思議そうにしながらも後へと続く。
路地は青年が予想していたよりも長く曲がりくねっている上に分岐もひどく多かったが、オーマは一度も迷う事無く歩を進めた。
ふと、青年は石畳だった地面がいつのまにか土へと姿を変えていることに気付き、足を止めた。同時にオーマも立ち止まる。ただしこちらは青年と同じ理由ではなく、目的のものを発見したからだった。
そこは、それまで二人が進んでいた暗く湿っていた路地とは一線を画していた。
まるで夜の中に突然太陽が飛び込んできたかのように薄暗さは消え失せ、ぽっかりと開けた空間には燦々と朝の陽光が降り注いでいる。
「…………あ」
土の敷かれた地面の上、オーマの視線の先には、木製の小さな家が一軒建っていた。古びた扉は大きく開かれ幾つものバケツや花瓶が置かれており、そこからは数えようとするのが馬鹿らしく思えるほどの花が、上に向かって伸びている。
どの花も、太陽の恩恵を一身に受けようとその身を真っ直ぐに伸ばしているその様に、青年は溜め息をついてきれいだなと呟き、そして想う娘に似ていると思った。
「まったく、ここはいつ来てもいい品揃えしてやがるぜ。ま、俺の女房にかなう花は見当たらねえがな」
「シュヴァルツの旦那よ、のろけに来ただけならよそ行ってくれ。花たちが機嫌を悪くしちまうだろうがよ」
顎をさすって言ったオーマへと、枯れた低い声が飛ぶ。青年が声のする方を見れば、じょうろを手にした老人が奥から出てくるところだった。しっかりとした足取りで花に水をやっていく老人へと近寄ると、オーマは苦笑しながらその曲がった背中を軽く叩く。
「相変わらずだな、爺さん。今日は別にのろけに来たんじゃねえから安心しろよ」
「みたいだな。そっちの坊主は? ……何やらルベリアの香りがするが」
「え?」
青年は思わず鼻をひくつかせるが、回りの空気はもとより、彼自身からも花の香りはしない。
そんな青年の様子を見て、オーマは笑った。
「この爺さんは鼻が人一倍いいから、あんま気にすんな。俺でさえ分からない匂いもあっという間に嗅ぎつけやがるジジイだからな」
「誉めてんのかけなしてんのか分からねえよ、シュヴァルツの旦那。それはまあいいとして、わしに何の用だい」
「ああ、それが――――」
城外へと出て、鳥に踏まれ折れた花々や土を調べていた老人は、やがて息をついて立ち上がった。
「ふん、やられてるのは地上に露出していた部分だけだな。まだ完全には死んじゃいないよ。まあ人間で言う『治療』が必要なのは事実だがね。旦那、そこの鉢植え取ってくれ。それと坊主はそこにわしが持ってきた土をたっぷり入れてな。持ち帰って世話をしなけりゃならん」
「あの」
作業をする手を休めずに、青年は老人へと問いかける。
「他の場所……昨日、潰された花たちは……」
「さすがに一日経ってしまうともう駄目だ。ルベリアは生命力の強い花だが、あくまで基本が『花』である以上どうしても限界というもんはある。……さあさあしょぼくれている暇はねえよ、坊主。お前は今、この花を助けることだけを考えなきゃいけねえんだからよ」
「……はい」
皆が皆、手を土だらけにして鉢植えを抱え再び老人の住みかへ戻った時は、もう太陽が真上まで上っていた。老人のかけてくれたじょうろの水で手を洗い、オーマと青年は長椅子へと腰掛ける。その間中、ずっと青年の視線がルベリアの花へと注がれているのを知り、オーマは自分の胸元ほどの位置にある青年の頭をくしゃりと撫でた。
「大丈夫だ。このジジイは少々変わり者だが、こと花に関しちゃ右に出る奴ぁいねえから花は死にゃしねえよ」
「後半は当たってるが、前半部分は余計じゃねえかね。旦那」
不服そうに言いながら、老人は煙草の煙を勢いよく鼻から吹き出した。
その様をぼんやり見ていた青年は「いえ、疑っているわけじゃあないんです。……けど、やっぱりどうしてもちょっと心配で」と、改めて視線を花へと戻した。
「いつ、咲きますかね」
「さぁなあ、今の状態じゃまだ何とも言えんが……。再生の土壌に植え替えてやったからそう長くはかからんだろうとは思うが、こればっかりは花の生命力に賭けるしかないからよ」
「そうですか。……あの」
「うん?」
「僕に、この花の世話の仕方を教えてもらえませんか」
老人にしてみればそれは唐突な言葉だったようで、皺の向こうにある瞳がほんの少しだけ大きくなる。
「坊主が、か」
「はい。……もともとこの花たちが死にそうになったのは僕のせいですし、それに」
「それに?」
オーマが鸚鵡返しに問うと、青年は遠くを見た。それはちょうど今時分に煙が立ち昇る、商店街の方向だった。
「……こんな小さな花さえ守れないようじゃ、きっとこの世界でたった一輪しかない花のあの娘を守る事なんて、到底できないと思うんです。たとえ想いを伝えて受け入れられたとしても、ふられたとしても、どちらにしろこれから先、僕が彼女を見守っていきたい気持ちに変わりはないから」
きっとその先には娘の笑顔があるのだろう。オーマはそう思い、微笑みながら老人へと目だけで語りかける。が、それをするまでもなく老人は厳しい顔を緩ませて立ち上がると、やがて一枚の紙を手に戻ってきた。
紙を受け取った青年が、戸惑ったように老人へと問いかける。
「これは?」
「ご希望のルベリアの育て方さ。さすがにこれだけの数を坊主に任せるのは心配だから、とりあえず鉢はここに置いていけ。基本の世話はわしがしといてやるから、お前さんは仕事が終わった頃にでもここへ来てわしの手伝いをしてくれりゃあいい。どうだ?」
「いいんですか」
「いいも何も、坊主が希望した事だろうがよ。わしはそれに答えただけだ。さあ、そろそろ行った行った!! わしはこれからかわいい花たちの世話をしてやらにゃならんのでな」
その日以降、オーマの一日に新しい用事が増える。それは青年を老人の住みかまで連れて行くという用事だった。
老人は人目を避けて花を育てており、そこへの道はごく限られた者しか知らない。こればかりは青年にも教えられないというので、オーマが道案内を買って出たのだった。
――――そうして、時は経つ。
木々に新芽が芽吹く頃、新しい緑と色とりどりの花の中で、青年は鉢植えをじっと見つめていた。
「やったじゃねえか」
いつかのように頭に置かれたオーマの大きな手を振り払う事もせずに、青年はただ「はい」と頷く。天からまばゆく降り注ぐ陽光が、偏光色の花びらへと落ちた雫を朝露のように照らしていた。
幾つもの鉢植えの上には、ルベリアの花。再生した花たちは上向いて、花弁をいっぱいに広げ、生きている。
じっと鉢を見ていた青年はやがて立ち上がると、オーマたちへと向き直った。
「じゃあ僕、これからちょっと行ってきます」
「? どこへだ」
唐突な行動に目を点にしたオーマへと、青年は淡々と告げた。
「……言ってませんでしたっけ。ええと、これからちょっとあの娘へ告白しに。あ、お爺さん。その前にちょっといいですか」
「うん? 何だ」
「僕がまたここに戻ってきたら、その時はこの鉢、一個頂いてもいいですか」
「そりゃまあ、お前さんも一緒に育てたんだからそれくらいは構わんが……。何だ、坊主。お前このルベリアの花を告白の材料にしようとしてたんじゃなかったのかい」
「前はそうでしたけど、今はもう大丈夫な気がするんです。だから自分の言葉で言ってきます。それで、もし僕が彼女を連れて戻ってくる事ができたら、その記念にルベリアが欲しいんです。――――彼女にも、見せてあげたいから」
老人は煙草をくゆらせながらその言葉にゆっくりと頷くと、皺のよった指でそれでも軽快に、ぱちん、と指を鳴らした。僅かな地響きが襲ったが、それも程なくしておさまる。
「よし、行ってきな坊主。こっから先の道は真っ直ぐに戻しといた。行くも戻るも、ただ真っ直ぐに走っていけ。花は育ててもらった恩を絶対に返してくれるもんだ。きっと坊主の道の先にゃルベリアの祝福が満ちているはずさ」
「――――そら、行って来い!!」
オーマがいつかの日よりも背筋の伸びた青年の背を叩くと、青年はそれに押されるようにして駆け出した。
「……いつぞやより、背中が大きくなったみてぇだな」
老人が灰を皿に落としながら言うと、オーマはその隣に腰かけて笑う。
「男は何か覚悟を決めた時、大きくなるもんさ。もうあいつはルベリアに頼る必要はねぇ。ただ自分の言葉で何かを伝えるっていう覚悟の花が、あいつの中に確かに咲いているんだからよ」
土を蹴る音にオーマと老人は路地の奥へと目をやり、そして同時に微笑む。
一本道の果てに見えるのは笑顔を浮かべた青年と、そして、息を切らせながらも繋がれた手を決して離そうとはしない、少女の姿だった。
二人の道を照らすように、ルベリアの花が優しく煌めく。
――――春が、来る。
END.
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