<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


家路


 白い花が咲いていた。
芽吹き始めた葉に隠れるようにして咲くその小さな花に目を留めて彼は目を細めた。――春がすぐそこまで来ている。
「何を笑ってるんだい?」
 背後から声がかかる。一層笑みを穏やかにしてオーマは振り返った。それは柔らかなその声音の主が彼の妻だからに他ならない。
ふと見ていた花に視線を戻すとその小さな花に似合わぬ大きな手で摘み、シェラの髪に飾った。角度を変えて何度も確認をして一番の角度を見つけるとオーマは満足げな表情を浮かべる。そんな夫にシェラは視線をそらした。
「花ってガラじゃないよ」
「そうか?」
「そうだよ」
「似合ってるぜ」
「どうだか」
意地っ張りなシェラの言葉にオーマは笑った。
「嘘つきゃぁしねーよ」
 吐いて得になる訳でもなし。そう言うと男は見上げた。
 森をまっすぐに切り取った空が頭上にささやかに広がっていた。雲一つ無い青空に鳥が一羽、すいと横切る。高く鳴くその声にシェラもまた空を見上げて目を細めた。
「いい天気ね」
 そう言えばこんな風に二人なのも久しぶりかもしれない。
 そう思えばあの噂も例えガセだったとしても役に立っているのだろう。


 天使の広場にあるその薬屋は繁盛していた。オーマが勤めるその店に森を通った商隊の護衛達が立ち寄ったのも、その評判と品揃えゆえであった。
その中の一人の男がオーマを捕まえてあれやこれやと注文した挙げ句に世間話を始めた。
「あの森の真ん中辺りにある大きな泉を知ってっか?」
「あるってのは聞いた事があるな」
 客の話に律儀に彼は相槌を打つ。客はここぞとばかりに身を乗り出した。
「じゃあさ、そこで満月の夜に起きる不思議な事ってのは?」
首を振ったオーマに男は頼んでもいないのに訥々と語り始めた。
 ――それが起こるのはさ、決まって天気のいい満月の夜だって話だ。
なんでか? 知らねーよ。ただ満月が泉に写ってる夜じゃねーとダメなんだってさ。
あ? 知ってるじゃねーか? 詳しい理由を知らねーって言ってんだよ。
まあいいや、それでさ、そんな夜には見えるんだってよ。バケモンとか幽霊ってんじゃねーぞ。見えるのはな、故郷なんだ。
なんだそりゃって顔してるな、でもマジなんだよ。
俺のダチがさ、大陸の東の先の小っちぇ島の出でさ、つられて歩いて行っちまったんだよ。
驚いたねー突然姿が消えちまったんだから! 化かされてどっかに連れてかれた? 違う違う! だってヤツは三月ぐらいたった日に突然帰ってきやがったんだからさ!
 一通り話し終わると客は気がすんだのか帰っていった。しかし、与太話で終らせる気はオーマにはなかった。それが本当なら確かめる価値がある筈だ、そう思い彼は妻を伴って森へと向かったのだった。


 西の空はまだ夜の色に染まりきっていないというのに、天頂には気の早い星達が輝いていた。
 シェラはランタンの灯りを頼りに森の中を歩いていた。黄昏時を過ぎれば星明かりだけが辺りを照らしていた。満月は今頃地平線の辺りだろうか。
暗い。そう思う。果たして彼女は夜がこんなにも暗いものだと本当に理解していただろうか。もう少しすれば、ランタンの明かりなしには伸ばした腕の指先でさえ見えなくなる夜闇が待っている。街とは違う夜がここにはあった。
夜闇を時には味方と思う彼女でさえも街に慣れ、本当の夜を忘れかけていたのかもしれない。人口の明かりがそこにはあるのだから。
「本当に帰れるのかしらね」
 夫が仕入れてきた情報がどれだけアテになるのか判らない。そもそも二人が帰りたいと思う場所はこの世界ですらないのだから。
勿論今日道が見つかったからと言ってすぐに帰る訳ではない。街には娘を置いてきていたし、何より別れの言葉の一つも告げないまま消えてしまおうとは思えない程親しくなった人々もいる。
「そうだ。お土産を買って帰らなくちゃね」
 娘は勿論、娘を気にかけてくれと頼んだ相手や友人達、彼らの顔を思い浮かべながらシェラは笑う。きっと彼らは自分達の帰りとその目的の顛末を心待ちにしているだろう。
「何が良いかしらね」
 シェラはあれこれと通った村で見た物を思い出しながら、彼女を待つオーマの元へ歩き出した。


「あいつ、遅ぇな」
 揺らぐ炎を眺めながらオーマは一人呟く。
 ぱちぱちと枝が爆ぜる音を聞きながら、手元にある枝を折っては火にくべる。その度に小さな火の粉が少しだけ舞い上がった。
火にかけた鍋はぐつぐつと泡をたてながら香草の良い匂いを辺りに振り撒いている。そろそろシェラの帰る頃だろうと頃合を見計らってあぶり始めたチーズを挟んだパンは良い色に焦げ色をつけ、チーズもとろりと溶け出していた。その近くにある燻製肉もじわじわと染み出した脂がはじけている。春になりつつあるとは言え夜は冷え込むだろうと煎じた薬草茶は少し煮詰まり気味かもしれない。
 自分が用意した食事の横に出番を待ち構える食器は二人分。それらに満足して彼はもう一度呟いた。
「遅ぇなぁ」
 食事を作ると言ったシェラ――彼女に食事を作らせるなんてとんでもない事だ――を見回りに出したオーマは、彼女と自分の為の食事作りに先程まで精を出していた所だった。
重ねた二人分の食器に目を留め彼は小さく笑う。今日は二人分だが普段は家族の分だけの食器が彼の食卓には並んでいる。――時には友人達の分も並ぶ日もある。
そんな平和なそして楽しい食卓がいつのまにか普通になっていた。しかしそれはここだけではなく遠い故郷にも残してきた筈の物だった。
どちらも別れがたいその両方を果たして彼は手に出来るのだろうか。
 ぱきりと足元の枝を踏みながら馴染んだ気配が近付いてきていた。振り返って確認する事なくオーマは声をかける。
「お帰り」
「ただいま。周りには何もなかったよ」
 そこまで言ってシェラは夫を見遣った。気遣う色がそこにはある。そんな妻に隣に座るよう促して、オーマは香草茶をカップに注ぐ。
「何、考えてたんだい?」
「帰れるのかってな」
 静かな笑いを含んだ声にシェラは小さく肩を竦めた。
「帰れるだけじゃダメなトコが難しいね」
「だな。……しかし本当にあるのかねえ」
 ――彼らのいた世界とこの世界とを結び自由に行き来出来る道が。
 それが難題だと思う程に彼はそれを探し続けていた。諦めている訳ではない、しかし時には弱気になりもするし、それを口にしたい時もある――永く共に過ごし心を許した相手がいるなら尚更。
「あるさ。行けたんだ帰れない筈もないし、一度出来たんなら二度出来ない筈もない」
「そうか、そうだな」
 殊更断定的な物言いをする妻に目を細め、オーマは頷いた。


 月が二つ。一つは空に、一つは水面に。
 晧々と照り輝く月を模した水面はそこから湧き出る薄い靄に覆われていた。
 オーマとシェラはその岸に立ち、時を待った。
 いつ来るか判らないその時を待つうちにふと意識が水面から外れた、その時だった。
 ――貴方が帰りたい場所はどこですか?
 声に戸惑い隣にいる連れ合いを見ようとすればそこにいない。驚いて辺りを見れば、いつの間にやら水面の月のその上に立っていた。
「あたしが帰りたいのは……」
故郷と答えようとして彼女は言葉につまった。本当に帰りたい場所はそこなのだろうか。帰りたい事にかわりはなくても、一番帰りたい場所は果たしてそこだろうか。
「ねえ、どこにでも帰れるの?」
 ――家路につけば誰しも帰れるでしょう
「じゃあ戻ってこられる?」
 ――帰る為の道を戻るのですか?
「帰るだけなら意味ないじゃない」
 憮然として応えた言葉に声は戸惑うように間を置いた。
 ――ここは帰る為の道。貴方も家路を必要としないのですね
 貴方もそう言われてシェラははっと気が付いた。ここに一緒にいなければならない人、一緒に帰る人がいる筈の右に手を伸ばして呼んだ。
「オーマ!」
 伸ばした手が捕まれる。暖かい乾いた大きな手。その手の主を彼女はよく知っていた。
「……オーマ」
「ああ、ここだ」
 気が付けばいつのまにやら泉へ足を進めていたようだった。踝まで浸る水の感覚にシェラはぞっとした。
「いつのまに」
「どうもな、あの声の言うままにあそこまで行ったら帰れたらしい」
 事も無げに言う男にシェラは唇を曲げた。
「あそこまで行く前に正気に戻るわよ。……オーマは帰らなかったのかい?」
「そりゃお前もだろ」
「そうだけどさ」
「帰るだけの道じゃ意味ねーだろ」
 食い下がる言葉にオーマは軽く肩を竦めた。シェラは納得して頷く。
「家路って言ってたわ、あの声」
「故郷の家に帰るからだろ」
「そうじゃなくて」
 あの噂話のことよ、そうシェラは言う。うんと訊ね返したオーマにシェラは思いつきを口にした。
「ここの泉から帰っちまった人がいたって言ったね。三月ぐらいして戻ってきたって。その人の故郷から戻るのにそれだけかかったって事かい?」
「大陸の端なら二月位かかるから妥当と言えば妥当な日数だな」
「そう。あの泉を通るなら一瞬で帰れるけど、後は自力で何とかしろって事ね」
 確かに一瞬で帰れるのは魅力かもしれないが、とシェラは思った。それはオーマも同じだったようで、困ったように頭を掻いた。
「……世界跨いでも帰れるかはともかく、自力でこっちに帰れって言われてもなあ」
「それが出来てれば苦労してないわよね」
 顔を見合わせて夫婦はため息をついた。全く期待していなかったと言えば嘘になる訳だからこれではくたびれ損だとも言えた。
「さて、ずっといても仕方ねぇな。もう一度香草茶でもいれるか」
「そうね。……ねぇ、オーマ」
 先に立って歩き始めた夫の背中を追うように歩き出してシェラは言う。呼びかけた背中の応えを待たずに言葉を続ける。
「家路だって言われなかった?」
「ああ、言われたな」
「家に帰るんなら、どっちにしても故郷へは帰れなかったわね」
 妻の言葉にオーマは振り返って笑った。
「違いねえ。……夜が明けたら俺達の家に帰るか」


fin.