<東京怪談ノベル(シングル)>
いつかの終わりを今は忘れて
他愛もない日常でいい。
それ以上のことなど望まない。
ほんのささいな幸福でいい。
ただ恋人の傍にいられるというのなら、
それ以上の幸福はどこにもない。
僅か一欠片の幸福でも彼と共に在ることができるなら至上の幸福。
最後の記憶さえも曖昧だった。サイバノイドとして生きることを余儀なくされたその瞬間は近いようでとても遠い。原因は事故による大火傷。瀕死の状態だったリラ・サファトを救ったのは実父だった。けれどそこにリラの意思はない。そのままであれば死んでいたというのに、気づけばサイバノイドとして生きていかなければならなくなっていた。その選択が父の愛情だったのか、それとももっと別の何かだったのか、考えたところで答えが出るものではない。
自由のない生活。ひっそりと息を潜め眠るように過ごす日々。自分の生きる意味を見失い、人間なのか機械なのかさえも自分では決められない日々だった。当然のように自分は人間なのだと信じられた日々が懐かしかった。空白を抱くようにして、瞬く間に消えてしまう一つ一つの時間のなかで刹那的に生きていた。
そこに幸福なかった。
人間でも機械でもなく、自分でも誰でもないまま何か強い力に縛られている。
そんな気さえしたものだ。
自分がわからないという不安。
意識だけが鮮明で、それ以外の総てが指先から零れ落ちていくようだった。ただ一つの答えを逃すまいとどんなに必死にかき集めてもそれが自分だったことはない。どれもこれもが模造品で、かき集めた掌を眺めては絶望の形を見るような心地を味わった。意識以外に頼れるものはなにもない。それに気づくとどんなものにも執着を持てなくなってしまった。助けを求める相手さえなかった。自分を証明してくれるものなど何もなかった。ただありのままのリラを受け入れてくれる人は、サナトリウムのなかには一人として存在していなかった。
だから何もかもを捨て去るような気持ちで刹那刹那を生きるようなことをしていたのだろう。あの日々のなかにはささいな日常を守ろうと思う気持ちなど微塵も存在しなかった。大切だと思う温かな気持ちなどすっかり忘れてしまっていた。自分さえもわからないのだと諦めのような気持ちを抱えて、いつまで生きていなければならないのかと考えたこともあった。
そんな生活のなかから連れ出してくれた人の手を今も覚えている。
新しい世界を見せてくれた手だった。初めて差し伸べられた一つの眩しいくらいの標。それは強くリラの手を引き、ずっと遠く、何もなくとも幸福に生きられる世界があるのではないかということを予感させてくれた。サナトリウムの外など知らなかった。そこに何があるのかなんてこと、考えてみたこともなかった。それがきっかけ一つで不意に総てが自分のものになったような気がしたのは、それだけリラが外の世界を希求していたことの証明だろう。
新たな世界を自分の足でしっかりと踏みしめて歩いていけると思った。
ゆっくりと歩きながら今まで触れることも、知ることもできなかった多くのものを見つけ、そして最後には自分を見つけることもできるのではないかと思った。
しかしその手と逸れた。曇っていた視界が不意に開けたその刹那に射した光の眩しさに目を細める同時に標も失っていた。ふとした拍子にはぐれ、どんなに手を伸ばしてももうそれは傍になかった。標を失い、不意に孤独なのだと気づいた時、途方に暮れるほかなかった。
そして自分の弱さを知った。
一人では生きていかれないのだと、強く孤独が突きつけてきた。茫漠とした闇に引きずり込まれるようで、感情の揺らぎさえもどこか遠いもののように感じられた。自分がわからなくなると同時に、立っている場所を見失った。うずくまることも走り出すこともできず、ただその場に留まり続けることしかできなくなる。不安で泣き出したかったというのに泣き方がわからなかった。声を上げ、助けを求めたかったというのにその術がわからなかった。わからないことばかりが多すぎて、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
孤独。
初めて知ったそれを癒してくれた彼を大切に思うことはきっと間違いではないだろう。
リラは思う。
差し伸べられた標よりも強く、柔らかな温度で心を癒してくれた人と出逢った。
それはきっと一瞬の奇跡。
偶然の巡り合わせ。
それがつれてきたものは紛れもない幸福だった。忘れていたものを取り戻すようにして、彼が傍にいてくれるという現実を愛していこうと思うことができるようになった。
鮮明になる感情がとても愛しい。
哀しいと思うことさえも、愛しく思う。
きっとサナトリウムでは忘れていた強さを彼が教えてくれたのだとリラは思う。失くしていたものを思い出させてくれた。強さを忘れて乾いた心。それにやさしく囁きかけてくれた彼の声の温度と滑らかさ。怒鳴りつけるでもなく、言葉を尽くすでもなく、傍に在るというただそれだけのことで丁寧に、慈しむようにリラの乾いた心を潤した。
安らかな眠りと穏やかな日常。
彼がいてくれることだけで得られる総てが愛しくてたまらなかった。
そんな彼も淋しい人なのだと気づいたのは出逢ってしばらく経ってからのこと。ふとした瞬間に笑顔に射す影。まるで自分に云い聞かせるかのようにして繰り返される傍にいるという言葉。
それが彼の淋しさをリラに教えた。
そして初めてリラは不安という感情を知った。
―――いつまでも、傍にいることはできないかもしれない。
穏やかさに満たされた心に落ちてきたそんな不安はひどく冷たい恐怖を伴った。もう泣くことなどできないのに、何度泣きたいと思ったかわからない。涙を流さなければ哀しさも苦しさも伝わらないと思っていた。だから言葉を押し殺せば伝えずに済むのだと思った。幸福を教えてくれた彼だったから、そんな苦しみは絶対に伝えたくなかった。
だからただ苦しかった。
永遠を約束できないことが、とても辛かった。
自分のためにも、彼のためにもいつまでも傍にいたいと思うのにままならない。そんな現実が怖く、残酷だと思った。
だからただ痛みを堪えるように笑おうとした。現実に負けないように、幸福を壊してしまうものを跳ね除けることを望むようにただ必死に笑っていた。
けれど苦しかったことには変わりはない。どんなに笑っても、笑うその数だけ苦しくなった。心が軋んだ。涙を流すことができたならきっと毎日のように涙を流していたことだろう。
涙を流すことができなくなったことに感謝したのはその時だ。
彼の前で泣くようなことはしたくなかった。
彼の前ではただ笑っていたかった。
せめて傍にいられる限りはずっと、どんなに辛く苦しくとも笑顔を見せて、笑顔で答えてもらいたかった。
苦しいのなら笑わなくていいのだと云ってくれたのは果たしていつのことだったろうか。
どれだけ長い間、苦しみと辛さを抱えていたのだろう。
気づかぬ間にリラの心は傷にまみれていた。
結局それを癒してくれたのも彼だった。
何も変わらなくていい。
今のままでいい。
傍にいられる間は、飾ることなく、ありのままでそこにいてほしい。
そう云った彼の言葉を今もリラは僅かな狂いもなく覚えている。
穏やかな声だった。
やさしかった。
だから瞬く間に傷は癒えた。
少なくとも今は傍にいることができる。
傍にいてもらえる。
思うとそれまで抱いていた不安が静かに緩和されていくのがわかった。傍にいてくれること、手を繋げること、一緒に歩けるということで感じるささやかな幸せ。たとえその裏側に未来への不安があったとしても、少なくとも今は一緒にいることができるのだと強く思うことができた。十分な設備のない世界で、一度は死ぬ筈だった躰がどれだけ保つのかどうかはわからない。成長するということを忘れ、彼と同じ時間を生きることのできない哀しみがないわけではない。いつか突然別れなければならない日が来るのではないかということも考えないわけではなかった。
それでも彼はリラに笑ってくれた。
特別なことはしなくてもいい。
ただ傍にいて、何気ない日常を共に過ごしてくれるのならそれ以上のことは何も望まないと云った。
彼の望み。
それはただリラと共に在ることだった。
やさしい恋人。
淋しさを知っているからのやさしさはいつも少し哀しい。
けれどそれを癒すことがきっと自分にはできるのだとリラは思った。だから彼は自分をありのままに受け入れてくれるのだと、彼のやさしさがリラにそれを教えたのだった。
いつか見失った自分を彼の前にいるというそれだけで感じることができた。
確かに自分はここにいるのだと確信できた。
何もかも、彼がそこにいてくれたからだった。
だから守っていきたかった。
一つ一つを慈しみ、大切なものとして記憶していきたいと願う。
飾ることなくただありのままの自分を受け入れてくれる恋人のために、そしてその恋人の傍にできるだけ長く在るために、このただ何気ない日常をリラは何よりも大切なものとして抱きしめる。
いつか見失ってしまったと思った標。
それは知らぬ間に恋人に受け継がれていたのかもしれない。
これからもずっと恋人は命在る限り永遠にリラの標として傍にいてくれる筈だ。
恋人として、そしてそれ以上の存在として、何気ない日常の一つ一つをまるで特別なものに変えてくれる。
だからリラはそれを愛する。
恋人を愛するように、慈しむように、ほんのささいな出来事もリラにとっては総てが大切な日常の出来事だった。
彼に出会い、愛することを知り、世界の美しさを知った。
だから、自分がいるここにある他愛もない日常こそがとても愛しい、大切なもの。
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