<東京怪談ノベル(シングル)>


月に吠える


 手のかかる娘を寝かしつけたあとで、屋根に昇った。
 気に入りのカティ・サークはもう底の方に数センチしか残っていない。
 瓶口を引っつかんだままでどかりとてっぺんに腰を降ろすと、琥珀色の液体が揺れてちゃぷんと小さな音を立てた。

 月は限りなく満月に近い円である。満ちていくのか欠けていくのか、シュヴァルツにはとんと見当が付かぬ。最後に月を見上げたのがいつのことであったかすら、彼には思い出すことができなかった。
「――――ういせ、……と」
 瓶の蓋を回し開ける、ガラスと金属の擦れ合う小さな音が好きだ。その音はアルコールの芳香をダイレクトに連想させる。日の光りがさんさんと注ぎ込む温かなファミリー・キッチンを連想させる。
 酒と家族をこよなく愛する男、である。

 サークは瓶に、直接口をつけてあおった。
 口腔の粘膜を焼いた液体が咽喉を焼き、肚の中を熱くさせていく。
 夜風は冷たいくらいが丁度よかった。はだけた衣服の隙間をぬって肌を冷やす風が心地よい。
「…………風邪引くぐらいが丁度いいぜ」
 酒気を帯びた囁きが、風に流されて消えていく。

 どこの世界に息づこうと、己の場所から見上げる月は同じである。
 満ちては欠け、満ちては欠けを繰り返し、時の流れを生きる旅人たちの指針となり、惑わせる。
 原始、太陽は恵みであった。
 原始、月は運命であった。
 理りは森羅万象の前に共通であり、それはすべてが繋がりを持っていることの何よりも証でもある。

 突如、シュヴァルツの双眸から、ぶわっと滝のような涙が噴きでた。

「――――ッ俺ぁなあぁぁぁっ!」

 吠える。
 地を揺るがさんばかりの怒号を、迸らんばかりの熱い親父の血液を滾らせながら、発する。

「俺ァ、……っこの世界を、家族をよぉッ――――愛しているんだアァァっ!!」

 真夜中の咆哮は界隈の空気を震わせて、人々の耳を貫く。
 が、それに異議を申し立てたり、怒声で返すような者は存在しなかった。
 このはた迷惑で熱血な巨体の『親父』を、この街の誰もが愛し、慕っているのだった。

「月よ、聞こえるかぁッ! 俺はお前を愛しているぞ! 空よ、星たちよ聞こえるかあっ! 俺はお前たちを愛しているぞ! 娘よ、聞こえるかあッ! 父はお前を愛しているぞ! 妻よ、聞こえるかあッ! 俺は――」
「おやめよ、恥ずかしい」
 ふり返る。
 鼻水と涙でよごれたぐしゃぐしゃの顔である。きたない。
「……――――」
「酔って暴れるなら家の中になさい。いま何時だと思ってるの」

 そこに現れた女は、太陽のようであるとシュヴァルツは思った。
 豊饒と慈愛をその身に宿した最愛の女――――妻だった。

「さすがあんたの娘だね。父親のアホ声にもぐっすり眠ってたよ」
「俺とおまえの娘だろう。親を愛する良い娘だ」
 アホ声とは流石に、シュヴァルツも心外であると心中に批難する。が、ゆっくりと屋根を歩み来る妻にそっと手を伸ばすと、その身体を固く、――――固く、抱擁した。
「……きたない。あんたの鼻水と涙でねばるだろう。お離し」
 日ごろより妻と娘に親父脂と罵られる体液である。が、そんな言葉にもめげることなく、彼は妻の女らしい丸みをおびた肩をぎゅっと抱きしめ、甘えるようにうなじへ鼻先を擦り付けた。
「でかい図体して、そうやって子供みたいになるときがある」
 やれやれ、と云ったふうに女が溜め息を吐いた。
 シュヴァルツの硬い髪をそっと撫でてやると、彼女は遠く大地を見下ろしている月を煽ぐ。

 道は続く。
 己の歩んだ後に道ができ、己の行く先にそれは続いていく。
 愛も変わらず、続いていく。
 暑苦しいと罵られようと、親父脂と詰られようと、愛は止むことなく身の内から溢れ出し、彼の心を幸せに浸していく。
「まったく……年をとると、涙もろくなるのかね」
「長く生きたぶんの幸せが積み重なってなァ、嬉しすぎて涙が出てくるのさ」
 妻が笑うと、シュヴァルツも笑い返す。きたなかった。ずずず、とすすりそこねた鼻水を、妻は厭気な顔をしながらも慈しむようにぬぐってやる。

「嬉しくても哀しくても泣くなんて、ほんとに男ってのはやっかいな生き物だね」
 転がった空の酒瓶を拾い上げながら妻が云う。
「最高の褒め言葉じゃねえか」
 今一度といびつな形の月を煽ぎ、シュヴァルツはその眩しさに目を細める。

 月明かりは常に、己の手の届く場所を照らしていた。
 運命という名のもとに人を翻弄しながら――――そして、穏やかに見届けながら。

(了)

■□■今までのご愛顧、本当にありがとうございました。 森田桃子■□■