<東京怪談ノベル(シングル)>


ブラックキャット

「ふぁ〜あ」
 早朝。
 そろそろ春の息吹も聞こえて来そうな風の中、大きな欠伸をひとつしつつ身体を大きく伸ばした大男。
 病院の扉に『開業中』の札をかけ、オーマ・シュヴァルツが玄関で気になった埃をぱたぱたと払う。
 どことなく甘い香りに目を向け、今日も良い天気になりそうだ、と空へ向かって顔を上げたその時、ちらと何か黒いモノが目に付いた。
「うん?」
 それが何なのか気になって顔を向けるが、そこには細い路地が影を落としているばかり。通り過ぎた感じではウォズとは思えず、それなら良いかとぐきぐき首を回してひとつ息を付き、そして、
「ようっし、今日も1日頑張りますかっと」
 真冬に比べれば少ない方だがこの季節も体調を崩す者が多い。それを見越して早めに開院したオーマが、軽く玄関前を掃除して中へ入って行った。

*****

「なんか最近さぁ…」
 家が近所と言う事もあり、この地に開業してからの常連客になっている1人が、診察室で声を潜めて話し出す。
 今日も風邪気味と言いながらそんなに具合悪そうに見えない顔を、好奇心で一杯にしつつ。これがまた近所の他愛ない噂話から、奇妙な話まで様々持ち込んでくれるため、オーマにしてみても割合楽しんでその人の話を聞いているのだったが、
「何だ?またガセネタでも仕込んで来たのか?」
 からかい混じりにネタを振ってみたが、相手はなんとも微妙な表情になって首を横に振り、
「いや、大したことじゃないんだ。大したことじゃないんだが、妙な若い娘が街中で目撃されてるって噂でさ」
 女性は見るからに高そうなドレス姿で街のあちこちを歩き回っているらしい。その姿を、ここ数日至るところで目にする事が出来るのだと言う。
 中でも、良識ある者なら昼間でも滅多に近づかないと言う路地裏や労働階級の人々が集まって暮らす集合住宅の辺りをうろついている姿も頻繁に見られていると言うのだから、確かに噂になりそうな話ではあった。
「…春だからねえ。ちょっと変った子でもいるんだろうねぇ」
 そう言いつつ、今度は近所で誰それが無事懐妊しただの、この間酒場で客全員を巻き込んで大立ち周りがあっただのと言ったゴシップの話題へと移行していった。
 ドレス姿ねえ…。
 興味深そうに話を伺いながらも、オーマは最初にこの男が口に出した『若い女性』の事を考えていた。
 …何となくだが、思い当たる人物がいないわけではない。
 この国の最重要人物――の娘であり、政を行う権力も持ち合わせている女性。その割に妙にフットワークが軽く、気付けば城を抜け出してお供も付けずに街を歩き回ると言う一面もある。
 要するに少々危なっかしいところがある、普通の少女と言う印象が強い女性なのだが…もしその女性、エルファリア王女だとしたならば、見かけられたと言う場所が気になった。いくら無防備に近い考え方とは言え、いくらなんでもそんな場所まで行ったりはしないと思うのだが…。
「おうい、ちぃと出て来るから留守頼むなー」
 それでも。
 一度気になってしまえば、本人であろうと別人であろうと確証を得るまでは落ち着いてなどいられない。
 午前中に集まって来た患者全ての診察を終えると、病院兼住居に残っている仲間にそう告げて、オーマは暖かな日差しの中外へと歩き出していた。

*****

 …目の前で、照れくさいのか後ろめたいのか、もじもじと身体を動かす良く見知った顔が、身長差から自然上目遣いになってオーマを見上げている。
「なあ」
 あまりにもあっさりと、しかも噂に聞いた通りの場所で見つけてしまい、怒りを通り越して呆れた顔そのままに見下ろし。
 盛大な溜息をひとつ付いたオーマは、手に何やら紙束を持つ王女にゆっくりと声をかけた。その周りには、柄の悪い男が何人か見事に腹を上に向けて転がっている。
「いくらなんでも、ちぃっと無防備過ぎやしないか?おまえさんの事を知らないでも、若い娘がうろつく場所じゃねえだろ、ここは」
「ご、ごめんなさいオーマ。でも、どうしても気になってしまって」
 はぁ、とオーマが溜息を吐く。
「その様子じゃ黙って抜け出して来たんだろ?――で、何がそんなに気になってるんだ」
「はい、あの…」
 ばさばさと紙の束を手に持ち、オーマの前に差し出す。
 そこに描かれているのは、無駄に緻密でリアルな黒猫の絵だった。
「数日前から行方不明なんですの」
「………猫探すのに自分の身を危険にさらしてどうするんだ」
「で、でも、猫はこうした暗い場所や細い路地が好きだと教えてもらいましたので」
「そりゃまあ」
 そして、飼い猫が戻ってこない事に気が揉めた王女自らが張り紙と配布用の紙束を手に街へ繰り出して来た、と言う事らしい。
 この絵もどうやら宮廷絵師に描かせたのだろう、そのまま額縁に張れば立派な肖像画だ、と苦笑しつつオーマが何枚か紙を手に取った。
「しょーがねえな、王女さんは全く。…これ、うちにも張らせてもらうぞ」
「あ…は、はいっ」
 こくこく。
 両手をぎゅうと握り締めて、真剣な面持ちで何度も頷く王女。
 それだけ心配なのだろうが、そう言う気持ちが分かるなら抜け出された城の者の気持ちも思いやって貰いたいと思うオーマだった。
 そしてオーマが側にいる事から元気を取り戻し、ビラ配りをすると言い張るエルファリアをようよう城へと帰した時には、オーマが病院を出てから結構な時間が経っていた。

*****

 それから、何日か経って。
 ――どんどんどん!どんどんどん!
「…あ?そんなに叩かなくても開業中の札は貼ってあるぞ?」
 まるで早朝か深夜の急患の如きドアの叩く音に訝しげな顔をしながらオーマが立って扉を開く、と、
「オーマ、見つかりましたの!帰って来てくれたのですわ!」
 ばふ、と勢い良くオーマに抱きつきながら、喜び勇んだ姿のエルファリアがいた。――街を歩くには場違いな衣装からして、また城からここまで直行して来たらしい。少しほつれた髪がふんわりとその額を覆っている。
「そうか、見つかったか。そりゃ良かったな」
 言いたい事は星の数ほどあれど、それら全てを飲み込んでにこりと王女へ笑いかける。
「ええっ」
 こくん、と大きく頷いた王女がぱっと花が綻ぶような笑みを広げ、
「オーマのお陰ですわ」
「俺の?」
 目をぱちくりさせながらオーマが聞き返す。確かに王女に言ったように病院の待合室にも張ったし、残りの紙を知り合いに見せたり渡したりしたのは事実だが、オーマ自身が探し回った訳でもなく、お陰と言われるような事をした覚えは無かったからだ。
「ええ。だって、あの日オーマに渡した紙を持って戻ってきたのですもの」
「――はい?」
 詳しく話を聞いてみると、その黒猫は配られていたビラを1枚口に咥えた姿で王城の庭に現れたのだとか。
「そりゃあ、散策が終わってふらっと戻ってきただけじゃ……って、ちょっと待った」
「はい、なんですの?」
「その紙だが、丸めて咥えて来たのか?それとも4ツ折りくらいに折られた状態で?」
「いいえ?そのまま紙の端を咥えただけですけれど?」
 どうしてそんな事を聞くのか不思議そうな顔の王女。
 だが、王女の飼い猫は普通からやや小柄なサイズの筈で、オーマが受け取った紙はその猫が身体を伸ばして横になれる大きさだった。それをそのまま咥えて持って来たと言うのは…。
 いや、そもそも何でその紙をわざわざ咥えて来た?自分の事が書かれていて、王女が心配しているだろうと思って慌てて城へ戻った…などとは考え難い。第一それでは普通の猫とは呼べないだろうし。
 おまけにさっきからちくちくと肌を刺すその感覚がどうにも…。
「あー…ちぃと悪いんだが、俺にもその猫見せてくれねえか?」
「ええ、丁度良かったわ、今日は一緒に来たんですの。さっきも玄関を一緒に叩いてくれて」
 つと立ち上がった王女が、外にいるらしきその猫を呼ぶ声が後ろから聞こえ、やがて、
「何だか照れているみたい。自分を探してくれた人の事が分かるんですのね」
 くすくすと笑いながら、その気配と共に現れたのは――。
「王女さん…そりゃあ、王女さんの飼い猫じゃ、ねぇだろ…」
 オーマに見つかるまいと無駄な努力をしているのか、王女の後ろにこそこそと隠れているつもりの黒猫。
 いや。
 ――大型犬を越えるサイズの、黒猫に扮したウォズの姿がそこにあった。
 しかも、しかも、だ。
 その気配とオーマの目を避けるような動きからして、オーマに面識のあるウォズに違いない。
「そうかしら?だって、ほら、同じ顔ですのよ?いつの間にか随分成長していたみたいですけれど…」
 そう言いながら喉を撫でてやると、蕩けそうな実に嬉しそうな表情でうっとりと身を任せている黒猫。
「いや、そりゃあ同じ顔かもしれねえが…サイズが違うだろうが、サイズが。それにその気配、どっかで…」
 ウォズなのは間違いない。その上で面識があり、オーマには睨みをきかせつつ、だが王女の側にいるだけでだらしなく表情が緩むような者と言えば――。
「あ――」
 たった1人、思い当たる者の事を思い出して声を上げかけると、ぎくりとした様子の黒猫がそろそろと外へ逃げ出そうとする。
「まあ待て待て。そう嫌がらないで少しこっちに来い」
 何もかも分かっているんだぞ、というニュアンスも含め、にやりと笑いながら猫へ話し掛け、そして、
「王女さん、そいつは王女さんの猫じゃねえ。俺の方の知り合いみたいだ。――まぁ、同じ猫同士、仲間に話も聞きやすいだろうから、そいつに黒猫探しは任せてひとまず城に戻るといい。今頃城の者が探し回ってるぜ?」
「まあ、そうでしたの…せっかく戻って来たと思ったんですのに…」
 しょんぼり。
 がっくりと肩を落として寂しそうな表情を浮かべるエルファリアに、おろおろしつつ慰めるようにぽむぽむその手に前足の肉球を当てる黒猫。
「…慰めて下さるのね?ありがとう。――そうだわ、あの子に会ったらお城に戻るようお願いしてもらえないかしら?」
 こっくり、と頷いた猫に少し元気を取り戻したのか、宜しくお願いね、と頭を撫で撫でし、王女は名残惜しそうに黒猫を眺めると、静かに病院を出て行った。
「さーてと」
 くるりと王女を見送ったオーマが黒猫と向き直る。
「王女さんの後を追いかけるだけじゃ飽き足らずに、とうとうそんなモンにまで化けるようになったかおい」
「………にゃー」
「何がにゃーだ。あのな、いくら成りすまそうとした所でバレたらさっきみたいに悲しませるだけなんだぞ?分かってやってたとは思えねえが、感心できねえな、こう言うのは」
『…うぅ…た、確かに…俺はどうすればいいんじゃぁ…』
 猫の姿のまま、その『男』は野太い声で心底情けない声を上げた。
 そこで、オーマもやや厳しかった声を和らげて、にこりと笑う。
「なぁに、簡単な事だ。探してやればいい、おまえさんとその仲間とでだ。王女の後付いて回ってたんだったら当然良く知ってるよな?」
『そ、そりゃあ、まあ』
「喜ぶだろうなぁ、可愛がってた猫が戻って来たとなれば。そうすりゃあおまえさんの株もぐーんと急上昇だ。そうだろ…おや?」
 同意を求めようと下に視線を落とした時には、もうその巨大な黒猫の姿は無く、ゆらゆらと勢い良く開いたらしい扉が揺れていた。
「早速行っちまったか」
 あれで意外に純情だよな、と呟きつつ、オーマは彼らに探索を任せる事にして、やりかけだった仕事をしに自分の診察室へと戻って行った。

*****

 それから1日と経たず、王城へ黒猫を届けに来た謎の一団があったと言う噂がまことしやかに囁かれた。何でも全身黒尽くめの奇妙な格好をした体格の良い男たちが、猫に散々引っかかれた傷跡も生々しく、それでも胸を張って王女の可愛がっている黒猫を抱いてやって来たのだと言う。この情報は門番兵が休息の時に話してくれたんだ、と酒場で与太話と共に語られていた。
 その与太話と言うのも同じく門番の兵士が聞かせてくれたらしいのだが、王女の黒猫が戻ったのとほぼ同じ頃から、大型犬並の大きさの黒猫が王女の側に現れるようになったのだとか。
 王女もこの異様な大きさの黒猫の事を喜んで迎え、愛猫と一緒になって遊んでいるのだと言う。
 それを同じ酒場で聞いていた大柄な男が何とも言い様の無い顔をしており、いつもならこう言った話には率先して口を突っ込んでくるのだが、今回はそれも無くあっさりと切り上げてしまったのを、常連の酒飲み仲間が不思議そうに見送っていた。


-END-