<東京怪談ノベル(シングル)>


肌に咲く色の


 死よりも恐ろしくそれは常に傍らに寄り添っている。
 ヴァンサーとして世界に存在する限り。
 決してそれが覆ることはない。


 自分の命は常に誰かの手に握られた命なのかもしれないと思うことがある。そのようなことを心から望んだことがあったのかは定かではないけれど、どこかで自らの手で自分ではない誰かに預けてしまったのではないかと。つまらない考えであることは承知の上だ。そんなことを考えて答えが出たところで、既に定められてしまったものから逃れられるわけではない。
 それでも、ふと考えることがあるのはきっとどこかで自由に生きていきたいのだという願いが存在しているからだろう。ささやかな祈りだとオーマ・シュヴァルツは思う。なんでもないただ一人の存在として生きていきたい。慎ましやかで子どもの夢のような、憧れにも似たもの。純粋なままに守っていくことができたなら、きっと後ろを振り返り現状から逃れられないということを悔やむようなことはなかっただろう。憧れをそのままにただ慈しんでいくことができた筈だった。
 刻まれたタトゥは消えない。肌にしっくりと馴染み、まるで初めからそこにあることが当然であるかのようにして存在する。指先でその輪郭をなぞり考えることがあるとすれば、ここに存在証明があるのだろうかというそんなことばかりだ。タトゥはヴァンサーの証。ソサエティに正式に認められたことを証明する。ヴァンサーであれば誰もがこのタトゥを躰に刻まれるのだ。何も不思議なことはない。ヴァンサーであれば当然の意匠。それを肌に刻まれているからといって、オーマ・シュヴァルツという存在が根底から覆されるわけではない。それどころかタトゥがあるからこそ守られているのだと思う。
 守られている。
 死よりも残酷な末路からタトゥとして肌に深く彫りこまれ意匠は強くオーマの存在を守り続ける。
 ただそこにあるだけで圧倒的なものから守られているのだ。
 けれど同時にそのタトゥは純粋な感謝を捧げることができない理由をも確かに持ち合わせているのだとオーマは思う。
 どんなに愛すべき者が傍にいたとしても、どんなに総てを愛し守っていこうと心に決めても、決して覆ることのない定めの前では無力だ。愛情で守られていると思っていても結局はタトゥが、そしてそれを媒介として具現召喚着用しなければならないヴァレルがオーマを守っている現状。愛してくれる総てに感謝の気持ちを捧げることができても、タトゥには純粋なそれを捧げることはできない気配。
 いつもそこには終わりの色が濃く香る。
 今オーマの周囲に当然のように存在する総てからオーマを引き剥がしていくだけの力がそこにはある。
 ただ禁忌に触れるというそれだけで終末はタトゥを発端に明らかになるのだ。
 地位と立場を確約するものだからこそ、守らなければならないものがあるのだということを自覚させられる。
 別の顔を持っていたとしてもヴァレルをまとい、ヴァンサーとして生きなければならないという事実が変わることはない。
 世界の均衡を保つために決して犯してはならない禁忌がいつの間にか当然のようにオーマを縛り付けている。
 いつだったかヴァレルの具現が唯一可能とされるヴァレルマイスターであり、オーマのヴァレルの作者でもある姉がぽつりと云った。
 ヴァレルとまとうことも具現化させることも決して特別なことじゃない。誰かがやらなければならいだけのこと。それだけなのだと。だからそこにある運命を呪うべきではないのだと姉は云いたかったのかもしれないとオーマは思う。
 しかしそれではあまりに無力ではないだろうかとも思った。異世界ゼノビアではまだ戦闘時の限られた時間のなかでしかヴァレルの存在を強く認識する必要はなかった。それが一体なんの皮肉なのか今現在オーマが身を置くこの世界、ソーンでは常にヴァレル姿を心がけなければならないことでいつもそれに縛られているのではないかという考え、リアルな感覚が常に傍にあるような気がする。
 衝動的にヴァレルをまとうことをやめれば、総ては消えていくだろう。具現発動時に自分と在りしモノ総てが消滅する様を感じなければならなくなるはずだ。特にソーンでは異世界ゼノビア以上に総てへの異たる侵食が強く影響してしまうのだ。ほんのささいな気の迷いでそのような悲劇を引き起こすわけにはいかなかった。
 ただ純粋に守りたいものたちが住まう世界をささいなことで壊してしまうようなことはしたくはない。たとえ自分も共に消滅してしまうのだとしても、そこに残していくものがなくなってしまうとしても、少しでも長く世界の均衡を維持し、そこにある幸福を守っていきたい。けれど願う気持ちとは裏腹にひどく残酷で独り善がりな衝動がオーマの胸の内、奥深くで燻っているのも確かだ。
 決して行動に起こすことはできないとわかっていても、それでも消すことができない燻り。時に痛みを伴い、時に悲しみのようなものを与えるそれ。逃れられることができたなら、心から安らぐことができるのだろうかと考えないこともない。だが逃れる術などどこにもない。
 今になってヴァンサーという地位を捨てられるわけでもない。刻まれたタトゥを引き剥がしたところで何も解決しやしない。助けを乞えばそこに自分の弱さ見る。守護と破壊を併せ持つそれに翻弄されている。僅かに、心が揺れる原因はいつもそこにあるのだ。異端である自分を許容してくれたものだと思っているものだというのに、それが心を揺らす。不安的にさせる。ジレンマばかりが鮮やかになるその一瞬を乗り切れば、また常のように生活を送ることができたとしても再びその揺らぎは訪れオーマを人知れず苛む。その度姉の言葉を思い出す。
 自らに与えられた仕事を決して特別なことではないと云った。
 誰かがやらなければならないことなのだと、そうどこか諦めたようでいながらはっきりと云い放った姉。
 いつか自分にもそう思うことができるような日が訪れるのだろうかとオーマは思う。諦めと許容のバランスを取りながら、現実をしっかりと受け止め、今ここにある自分を確かなものとして受け入れられる日が来るのだろうかと。
 今はまだ判然としない。
 けれどいつかきちんと受け入れられるようになればと思うことは確かなのだ。決して変わらない。禁忌が常に寄り添い、その果てにあるものが絶望的なものであったとしてもそれを受け入れるようになれたらいい。大切なものが傍にいてくれるのだから、そのもののために受け入れるのだとしてもそれは決して間違いではないはずだ。何も自分という存在が生きているからといって、自分のためだけに生きているわけではない。生きているというそれだけで自分のためであり、誰かのためなのだとオーマは思う。
 たとえ今、オーマを生かすその命が誰かの手に預けられているものだとしても、今ここにあるという事実は決して覆ることはない。何も総てを奪われたわけではない。自由に生きていくだけのゆとりは残されているのだ。ならばそのなかで少しでも自由に、大切なものを守るために生きていけたらいい。
 そしていつか総てをきちんと受け入れることができればきっと、胸の内の燻りも静かに消えていく筈だ。


 死よりも恐ろしくそれは常に傍らに寄り添っている。
 ヴァンサーとして世界に存在する限り。
 だがそれがあるからこそ大切なものを守れるのだということも確かな現実。
 覆ることのないものを抱えて、それでも大切なものを慈しんで生きていくことができればそれが幸い。