<東京怪談ノベル(シングル)>
咲く花に誓う
花が咲く。
約束をまとう花が、咲く。
いつか散りゆく花弁が開き、散っていく。
いつか訪れる再会の時を願うように、はらはらと。
そして残る香りは永遠を約束するように淡く辺りに溶けていく。
花に意味を与え、そこで結ぶ約束が確かなものだとは思えない。
けれど時に無性にそこにある意味に縋りたくなることも確かだった。
たとえばそう、最愛の妻と他愛もない、けれどそれでいて修復不可能なのではないかと思わせるような喧嘩をしてしまった時などは。今となっては発端がなんであったのかもわからない喧嘩だった。きっとささいなことだったような気がする。生活態度がだらしないだとかそういった本当にささいなことだったのだ、と思いたいとオーマ・シュヴァルツはなんとなく訪れた場所に座り込んで空を仰いだ。
空は青く澄みきって、流れていく白い雲が仄かな軌跡を描く。小鳥がじゃれあうように飛び交って、軽やかな囀りが響いていた。長閑な風景。けれどそのなかにあってオーマの心は重く塞いでいる。
妻が口をきいてくれなくなってからもう三日になる。こんなに長く喧嘩を続けているというのに、何故か理由がわからない。わからなくなってしまった。だからオーマは謝る機会が見つけられずにいる。何を謝ればいいのか、それがわからないのだから言葉も見つからないのは当然のことだった。
そんな二人のどこかぎくしゃくした状況を周囲も心配そうに、そして関わることを避けるように遠巻きに見ている。尻に敷かれているのは今や当然の周知の事実だったが、顔を合わせても口をきこうともしない二人に周囲は無関心を装いながらもどこかで早く仲直りをすればいいものにと思っていた。オーマも、そして妻も周囲がかもすそうした雰囲気に気がついていないわけではない。それでも仲直りをするきっかけはおろか、告げるべき謝罪の言葉を見つけることもできずにいた。
「あぁ……」
意味もなく口をついて出るのはそんな溜息のような音ばかりだ。
相手は勝気という範疇におさまりきらないのではないかというほどに男勝りで大胆豪快破壊的な性格の女だ。ただひたすらに謝り倒したところで許してもらえるものではない。その場限りの謝罪の言葉などで済ませようとしたならば、家を追い出されかねないような気がした。まだ家に置いてもらえるということはきっと、きちんと謝ることができれば許してもらえるという可能性があるのだとオーマは信じている。しかしいくら真剣に頭を悩ませ、思考をめぐらせても肝心の謝罪すべきものが見つけられないのは一体どうしてなのだろうか。それとも思い当たる節がたくさんありすぎて、敢えて自分から目をそむけているのか。
「わからねぇ……」
莫迦みたいに空を仰ぎ続けることしかできない。たった一つのピースを見つけることができればきっと総ては瞬く間に解決していくのだろうけれど、その一つが見つからないのだから途方に暮れるしかない。
一体妻は何に対してあんなに怒り狂っていたのだろうか。
今思い出しても背筋が凍る。傍にいた娘もすっかり怯えきってしまうほどの剣幕だった。どこからその豊富な罵詈雑言が生み出されてくるのかといった勢いで散々オーマを罵り、詰り、刹那の間にスイッチを切り替えたようにして笑顔で娘に接していたが、当の娘は熾烈な夫婦喧嘩に巻き込まれるのではないかとしばらくの間戦々恐々としていたのは明らかだった。そんな怒り狂う妻の集中砲火を受けたオーマはしばらく再起不能に陥っていた。それは今も続いている。何を云われたのか、何をされたのかはもう判然としない。けれど痛烈な一言一言が心を抉るようで、与えられた傷は今も深い。
きっとあの最中にも自分は謝罪の言葉を告げた筈だとオーマは思う。そしてもしかするとそれが怒りに拍車をかけたのかもしれないとも。もしそれが本当だとしたら、どんなに丁寧な謝罪の言葉を見つけたところで無意味なのではないだろうか。きっと無意味だ。柄にもない莫迦丁寧な謝罪の言葉はこれでもかというほどの愛情を込めて捧げたとしても、きっと許してはもらえない。
深い深い溜息がこぼれ、空を仰ぎ続けることも難しいほどに頭が重くなる。自然と項垂れるような格好になって、オーマはふと自分がどこにいるのかということを思い出した。
ルベリアの花が最も美しく咲き誇る場所。
ここを知るのはオーマと、そして妻だけだ。
眩しいくらいの偏光色をまとった花々。果敢無げな細い花弁。それでいてすっと空を目指して花弁を開かせるその姿は、どこか力強かった。
今や希少な花となってしまったそれはルベリアの花。八千年前にウォズと具現を生み出した謎の事象ロストソイル以降、この花を目にする機会は本当に少なくなった。万能薬等に用いられてきた花だが、オーマにとってこの花はそうした実用的なイメージよりももっと不確かでそれでいて温かな気持ちにさせるイメージを強く意識させる。
昔、妻から送られた花だった。
言葉ではなく花が彼女の心を伝えてきた。
それを手にした時の気恥ずかしさや嬉しさ、そしてどうしようもないほどに感じた彼女への愛おしさは今でも忘れることはできない。
愛しているから受け入れてほしいという願いを花に託した彼女の気持ちが言葉で伝えられるよりも強く伝わってきた。手のなかに残された花がいつまでも彼女がその胸に抱えている想いを溢れさせているかのようにしていたからなおさらに、オーマはその気持ちを受け止めざるを得なかった。受け止めたいと思った。彼女らしいまっすぐな想いだった。ひどく純粋で、言葉を忘れるほどだった。そして純粋だからこそきちんと受け止めたいと思わせた。
その花が今、目の前で揺れている。
ささやかに吹く風に揺られながら、まるで歌うようにしてオーマの目に映る。
一体あの頃の妻はどんな思いでこの花を手折ったのだろうか。
この果敢無い花に総てを託そうと決めたのは一体どうしてだったのだろう。
思ってオーマはこの花に与えられた伝承を思い出す。
―――想い人に送ると永久の想いと絆で結ばれる。
永遠を約束する花なのだという伝承だ。移り気に変わりゆく想いに永遠を約束する花なのだと思うと不意に妻がひどく愛おしく思えた。永遠の愛など言葉にすればそれは脆い。けれど妻はそんな想いをこの花に託して自分に届けてくれた。そう思うと彼女の愛がどれほど深いものなのかがわかった気がした。少女のようにこの花に想いを託してまで、その愛が強いことを伝えようとしてくれたのだ。陳腐な告白よりもそれは強い。ただ言葉で伝えられるよりも深く心に響く。いつか花は散りゆくけれど、それが残すものがこんなにも鮮明に心に焼き付くものだとは思わなかった。
オーマはぽつり妻の名前を呟き、目の前で揺れるルベリアの花に手を伸ばす。気恥ずかしさが先立つけれど、それ以上に愛おしさがこみ上げてくる。喧嘩の理由がわからないのと同様に、その愛おしさの理由もわからない。けれど少なくとも愛おしさだけは理由がわからなくてもいいと思える。きっとそれは気付かないうちにすぐ傍で形になっているものなのだ。たとえ形になることはなくとも、気付けばそこにあってオーマを幸福にしてくれる。
ささいな喧嘩を繰り返しても夫婦としての関係が終わることなく続いていることがそれを証明している。
言葉を見つけることができないのなら。思って触れた花を手折る。
不意に風が立って辺りの花々が一斉に揺れた。
花びらが舞い上がり、その風景はまるで祝福の瞬間のように眩しい。
それはいつかのあの日にとてもよく似た光景。
オーマは遠くに祝福の鐘の音を聞いた気がした。
たとえ喧嘩の理由を見失っても、彼女への愛を見失うことはない。
だからオーマは想いを託す花を手に帰路を急いだ。
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