<東京怪談ノベル(シングル)>


深色


 痛みは無い。こうして在るだけで、痛みはどこにも無い。


 オーマ・シュヴァルツはそっと溜息をついた。街を一望できる、小高い丘の上で。
「……平和、だなぁ」
 ぽかぽかと自らの身体に纏わりつく太陽の光は優しく、温かい。ざわざわと木々を揺らす風も心地よさを齎す。
 平和という言葉が、似つかわしい情景である。
「平和、なんだなぁ」
 しみじみと、オーマは再び呟いた。そのような認識は、今に始まった事ではない。このソーンに辿り着いてから、時折色々なトラブルに巻き込まれたり、寧ろ自ら飛び込んだりもしてきたが、一貫してオーマが思っていたのは「平和」という事であった。
(町並みは綺麗だし、自然も残っているし)
 オーマはくすりと笑う。しかも、一人ぼっちではない。オーマの愛すべき人たちもここに一緒に来て、ここでも大事な人たちが増えた。
(なんつーか、居場所があるっていうのはいいことだよな)
 孤独でない身の、なんと幸せな事か。
(綺麗なところで、大事な物もちゃんとあって……)
 オーマはそう考え、苦笑しながら眉間にしわを寄せた。
(それで、どうしてこんなに不安に駆られるんだろうなぁ?)
 自嘲を漏らしながら、そっと身体に刻まれたタトゥに触れた。何の触感もなく、どんな模様が描いてあるのか触っても分からぬ。しかし、見れば確かに模様が刻まれているのだと認識できる。
 肌に刻まれし、ヴァンサーの証。正式にソサエティに認められた際に刻まれる、絶対的な身分証明。
 それが疎ましいとも思わぬ。誇らしいとも思わぬ。
 ただそこに刻まれ、在りしものなのだ。
(この平和だと思う世界が、俺ぁ愛しい)
 オーマはタトゥから手を離し、再び溜息をついた。
(だから、俺がこの世界を壊すわけにはいかねぇ)
 ヴァンサーだからどうした、と言われればそれまでだ。だがしかし、オーマにとってはヴァンサーだからこそ、背負っているものも数多く存在している。
 重くて潰される事が絶対に無いといえば、それは嘘となる。
 気にする事なく自由にいられるといえば、それも嘘となる。
「俺は、この世界が好きだ」
 己の着ている服でさえも、この愛しい世界を守るためなのだと思うと、思わず苦笑が漏れてくる。
(たとえ、こいつを着ていないといけないとしても)
 オーマの着ている服は、ソーンをソーンとして存在させる為にある。本来ならば、戦闘時にしか纏わぬヴァンサー専用の戦闘服である、ヴァレル。だがしかし、オーマはそれを普段着として用いていた。
 異世界においては、具現は全ての存在と法則理念概念が「異」となっていた。そうなれば、敵であるウォズを屠るという禁忌に等しい代償を、己と全ての在りしものに及ぼす事となってしまう。
 しかし、ウォズを倒す為には具現を用いなければならぬ。それはヴァンサーとして、当然のことだ。
 その為、例え具現を発動させたとしても、己と在りしものが消滅しないように封印的な力を持ったヴァレルが必要不可欠であったのだ。具現と呼応同調するという、ヴァレルが。
(消滅なんてするものか。……させるものか)
 気にしすぎだと、心配しすぎだと言われればそれまでだ。だが、そういうようにたかをくくってヴァレルを纏わずにおり、消滅に追い込んでしまったらどうするというのか。
 この「異」たる侵食が強い、ソーンという世界で。
(それだけはさせない。許さねぇし、許されねぇ)
 オーマはぐっと拳を握り締める。ヴァレルを着用しなければ、着用した時よりも遥かに凌駕する力を発揮できるというのは分かっている。
 だからといって、それが何になろうか……!
 ここに存在する為には、ここを存在させる為には、そのような力は必要無いのだ。
「大事だからな」
 愛しい人々が住み、生活しているこの街が。
「大切だからな」
 こうして自らの存在が確立している、この世界が。
「俺が俺として存在する事が出来るための、絶対だからな」
 タトゥを刻まれたこの身体に、ヴァレルを纏い、オーマはここに存在しているのだ。大事なものを守るため、大切なものをそのまま維持する為に。
 その為の手間や苦労を、惜しむ訳には行かない。
『ここは、侵食が強いな……』
 ぽつり、と姉が漏らした言葉が蘇ってきた。オーマのヴァレルを作った、精神感応型具現能力者、ヴァレルマイスターである姉。
『酷い侵食だな』
 姉はそう言い、にやりと笑った。何故笑ったのかは分からない。オーマの纏う服を作らなければならないと、思ったからだろうか。
「俺ぁ……この侵食を、喜べねぇよ」
 オーマは苦笑する。姉のように笑えたら、どれだけ楽になるだろうか。
「だからといって、憎みもしねぇけど」
 憎む事も、忌々しいと思う事も、どれもしないけれども。この世界はそのような世界なのだと、認識するしかないのだから。
「仕方ねぇよな。俺は、この世界に来ちまったんだから」
 オーマはそう言い、再び眼下に広がる街を見つめた。人たちの生活が、そこで営まれているのだ。日々、様々なことを繰り広げながら。
 まるで色鉛筆のようだ、とオーマは感じる。沢山の色を持ち、それぞれが違う色で、それを用いて一つの絵画を作る。色たちが織りなす絵画は時に暗く、時に明るく、そして何よりも美しい。
「ああ、平和だなぁ」
 オーマはそう言うと、ごろりとその場に横になった。
 太陽の光は相変わらず柔らかく、優しく降り注いでいた。風は相変わらず、心地よいままオーマをすり抜けていく。
(心地いいな)
 ヴァレルを纏わねば不安が付きまとうばかりの世界。
 異の侵食が強く、具現発動による消滅が恐れられる世界。
 いつ織りなされた絵画が壊されるかもしれないという、恐怖がついて離れない世界。
 しかし、オーマはそれでもこの世界が愛しくて堪らない。
「俺ぁ、ここに存在しているんだからな」
 ぽつりと呟くと、目をゆっくりと閉じた。緩やかな眠気が、オーマに襲い掛かってきたのだ。
 オーマはその眠気に逆らう事なく、ゆらりと眠りの中へと落ちていくのであった。


 痛みは無い。存在はあっても、痛みはそこに存在しない。
 ただただ在るのは、慈しむ心と不安だけ。
 それでも在ることをやめぬのは、色彩が美しく、何よりも愛しいからだ。
 何にも変えがたく、何にも劣らぬほどに。

<深き色は胸に刻まれ・了>