<東京怪談ノベル(シングル)>
或る雨の日
さらさら。
さらさら。
――銀色の糸にも似た、静かな雨が降っている。
そんな気だるい雰囲気の中、ここ…古書店「銀木犀」は、しっとりとした静寂に満ちていた。
聞こえるものと言えば、外から忍びやかに流れ込んでくる雨音、そして時を刻む秒針の音、こんな雨の日にも関わらず訪れる酔狂とも言える客の、ページを繰る音、それだけ。
本と同じか、それ以上の年月を思わせる木のカウンターの奥で黙々と本を読んでいる店員らしき青年は、こそとも物音を立てず、また客が来ている様子なのに顔を上げる事も無い。店長だと思われる老人の姿は、今日はないようだった。
「………」
羊皮紙の上に、一文字一文字細心の注意を払って書かれたであろう古書たちは、ずしりと重い存在感を、抱える腕の中に見せつつ、新たな主人となるかもしれない人物へと訴えかける。
やがて。
店に訪れていた唯一の客が、その手に一冊の厚い本を持ってカウンターへと近づいて行った。
「…これを」
店内の静けさを壊すまいとしてか、囁くように言った声だったが、それが思いの他良く響いて、本に目を落としていた青年の体がぴくりと反応する。
すぅ、と上げる顔。無表情――と言うよりも冷徹な輝きを見せる眼鏡が、何とも言えない迫力を見せている。
「…何か?」
「この本を包んでいただきたい」
だが、客もそんな青年に臆する事無く、ぽん、とカウンターの上に置いた本の表紙へ手を置いた。
それは、一応『銀木犀』の常連だからであり、青年――如月一彰の人となりを、わずかなりとも知っているからでもあった。
「――ああ…雨が降っているのか」
どこか気だるげに、しっとりとした店内の静けさを壊す事無く呟いた一彰が、ちらと本を見てがさごそと脇の棚の引き出しを探る。
「私が来た時には既に降っていたが」
「気付かなかった」
そうか、雨か、と言いながら数枚の大きめの紙と紐を取り出し、丁寧に丁寧に本を包んで行く。
「値段は――」
稀少本の類では無かったためか、店長を呼ぶまでも無く一彰はその本の値段を口にした。それでも、こうした本は基本的に貴重品のため、その本を仕舞うだろう本棚に匹敵する値が付けられている。客も別段驚く事無く、黙ったまま言われた金額をカウンターの上に乗せた。
「こっちが、上。油紙を中に敷いてあるから、簡単に染み込みはしないだろうが濡らさないように」
紙紐できちんと包み込んだ本を客に手渡しながらそう告げると、ふむ、と嬉しそうにコートの中へ抱えた客がにこりと笑い、
「助かる。それでは、またな」
「…またのお越しを」
きぃ、と僅かにきしんだ音を立ててドアが開くのを、じっと見守る店員に店を出る間際に会釈し、その客は店を出て行く。
さらさらと静かに降り続く雨は、路地の石畳を打ち、壁を伝って銀木犀を模した店の看板に縦縞模様を浮き上がらせていた。
そんな中を、路地を抜けた所に待たせてある馬車に乗ろうと、客が足早に立ち去っていく。
――路地をすれ違う者は滅多にない。それどころか、路地の突き当たりにある店の中に複数の客が入る事などまず無いこの店は、そんな感じでひっそりと営業していた。
それから、暫くして。
ぱしゃぱしゃぱしゃ…。
路地の向こうから、雨音をかき消すような勢いの足音と共に、小さな人影が走り込んで来た。手にはぐしょ濡れの籠を抱え、きょろきょろと辺りを見回すも、抜けられると思った路地の先は行き止まり。店らしき建物のドアの上にある小さなひさしを見つけて、その下へ慌てて滑り込む。そこから水滴の滴る前髪をくしゃりと掻き上げたのは、10歳前後の少年の顔。
一度止んだ天気に期待して、おつかいを終えた後に寄り道をしたのが拙かったと、今更後悔しても遅い。しかも近道のつもりで路地を抜けようと走り込んだ場所が行き止まりだったとは。
籠の中身は、布に包んでもらった焼き立てのパン。どうあってもこれ以上濡らす訳にもいかないが、かと言って空から容赦なく落ちてくる雨を止める事は不可能だし。
「………はぁ〜あ」
髪と同じく濡れた服の冷たさに溜息を付いたその時、
きぃっ、と音を立てて後ろのドアが急に開いた。
*****
「兄ちゃん、ありがとう」
「…何、たいしたことじゃない」
ぶっきらぼうな青年と、同じくらいぶっきらぼうな老人が少年を見る。
雨に濡れそぼった少年を、何も聞かずに中へ招き入れた一彰に最初少年は怯えていたものの、無表情ながらてきぱきと服を乾かしてくれたり、暖かな飲み物を飲ませてくれたりするに及んで、悪い人じゃなさそうだと思ったのか随分とリラックスした表情になっている。
店長に一時店番を代わって貰い、すっかり乾いた服を元のように着た少年は、しっかりと籠を抱えて青年と一緒に店に戻って来た。
「雨も止んだみたいだな。――また降り出さないうちに帰るといい。この路地をまっすぐ抜ければ広場に近い場所に出る。その先は分かるな?」
「うん、大丈夫」
もう一度ありがとう、と2人ににこっと笑いかけると、きぃと扉を開けて、僅かに差し込む日の光に空を見上げると、少年はぱたぱたと元気良く駆け出して行った。
「――代わります」
「…うむ」
かたり、と椅子から立ち上がる老人。
2人の間には、あまり言葉が無い。だが、それは決して不快な雰囲気ではなく、ただ単に2人共あまり喋らないだけで、それを互いに知っているからこその穏やかな空気だった。
一彰は老人が座っていた椅子に座り直し、店番をしていた時に読んでいた本を膝に乗せる。
――再び、静寂が支配する空間。
先程まで雨が降っていたせいか、店内では、いつもよりも古びた紙の匂いが強くなったように思えた。
-END-
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