<東京怪談ノベル(シングル)>


みちかい

オーマ・シュヴァルツは一人歩いていた。途方もなく広い草原をゆっくりと歩いていた。危険な草原を、無造作に歩いていた。
枯草に覆われているこの草原には、予告もなしにかまいたちが斬りつけてくる。だから、オーマのように歩く人は滅多にない。よほど急な用事ができて、草原を近道しなければならないときを除いて、大抵の人は遠回りする。単なる散歩にこの草原を選ぶところが、豪胆なオーマらしかった。
額を撫でる風に、オーマは目を閉じた。時々こうやって、風の気配を読んでやるのだ。生暖かいこの風が不意に、ひやりとした感触に変わる瞬間がある。それを見逃すと、かまいたちにやられる。
「変わった」
柔らかな風を切り裂いて、かまいたちが飛んできた。オーマは赤い瞳を見開く。かつて、剣を振るっていたときのように間合いを計る。一瞬の判断でわずかに身を捻り、紙一重で乱暴な風を右へと送った。弛緩しきった神経を不意に緊張させる、よい刺激だった。
 さらに草原を奥へ進んでいくと、再びかまいたちに襲われた。今度もまた、オーマはよけきることができた。しかし、よけた直後オーマのすぐ後ろでギャンという獣の甲高い鳴き声がした。振り返ると、オーマの膝くらいの高さに沿ってすっぱりと枯草が刈り取られ、すぐそばには鼻先だけ黒い耳の長い獣が腹部から血を流して倒れていた。
 この草原をねぐらにしている、足の速い獣だった。ただどんなに足が速くとも、判断が鈍ければかまいたちからは逃げられない。直撃はしていないようだったが、脇腹を深く抉り取られていったようである。
 オーマは口の中で呪文を唱えながら獣の横に膝をつき、その大きな手を獣の腹部に添え指先から命の水を滴らせた。だが、治療を試みても悪い運命は変えられそうになかった。獣は舌をだらりと垂らしてあえいでいたのだが、徐々に腹部の動く様子が遅くなり、薄い瞼もゆっくりと閉じられていった。
「・・・・・・死んだか」
念のために首筋へ指をあてて脈を確かめたのだが、やはり止まっていた。
 オーマは草原の片隅に小さな穴を掘って、獣の死骸を埋めてやった。

 死骸の上に土を盛り上げ、少し経つと獣を埋めたところから小さな白い光が湧き上がった。光は、おぼろにゆらめきながら、ふらふらと上空へのぼっていく。蛍を捕まえるように、戯れに手を伸ばし、掴んでみようとしてみても光は拳の中をすり抜ける。
「お前のゆく道は、そっちか」
オーマは、獣の魂に語りかけた。この無心な魂が、うらやましかった。
 獣たちは、自分の行くべき道を知りたいと思うでもなく無意識のうちに理解している。生まれた瞬間から、自分の運命を全て一本の道の上に見出しているのだろう。もしくは、そんな道があることも知らないからこそ枝分かれしている道の上に出くわしても迷わないのだろう。
 道というものは、道であって道ではない。たとえばこの草原、どこかからどこかへ抜けられるのだけれど、人が歩けるように草が刈られ踏み固められた道はない。枯草の中をかきわけていかなければならない。だが、その歩いた跡は確かに道になる。そうやって草原の上には、軌跡さえ残らないものの数多の人間が歩いた道が、目に見えないけれど残っている。
結局人は、なんと呼んでいいかわからない曖昧な空間の中を、自分だけを標にしてさまよっているようなものなのだろう。そして他人の歩いた足跡に惑わされ、誘われ、ときには元々自分の歩いていた道へ戻れなくなってしまう。
「そうやって、戻りかたをなくしちまう」
オーマは自嘲した。本当に、人間はいけない。ついつい、気をひかれてしまう。獣の魂が持つ光に、なんとなく憧れてしまう。
 白い光が、ふわりと下りてきてオーマのそばをニ、三周さまよった。幼い子供が助けを求めるようなしぐさであった。
「なんだお前、行くのが恐いのか」
オーマは、空を見上げた。あの向こうへは、いつかオーマも行くのかもしれない。誰もが行くべき場所なのかもしれない。
「けど、俺には早すぎる道だよな」
まだ行けねえよと、オーマは優しく光を慰めた。すると光は、言い聞かされ納得したように今度こそ空高く上って見えなくなってしまった。

 オーマと獣とはみちかい、つまり道交であった。今までもこれからもまったく違うほうへ自分の道を伸ばしていくその途中で偶然にすれ違っただけなのである。一瞬の十字路で、すぐにまた別れてしまう。
「俺の道は、そっちじゃねえ」
行かなきゃならないところがある。戻らなければならないところがある。
 オーマは草原の枯草に混じって、健気に緑色を茂らせている草を見た。それは、かつてオーマが暮らしていた世界にも生えていた薬草であった。草はかまいたちに傷つけられながらも、なおも必死に伸びようとしていた。
 元々散歩のついでに薬草を摘みに来たオーマであったが、その薬草だけはいじらしく思われ、摘み取ることができなかった。