<東京怪談ノベル(シングル)>


 『踊り子』


 一陣の風が、春の匂いを運んでくる。
 そして、一人の少女が、その春風のように穏やかに、人々の間を通り過ぎる。
 銀糸のように輝く長髪に、陶器のように滑らかで白い肌。その上に載せられた円らな金の瞳。長い睫毛。形の良い唇。精巧に創られた人形のような美貌は、人目を惹かずにはいられない。
 だが、誰も彼女を気に留める者はいなかった。
 彼女からは『存在感』がすっぽりと抜け落ちているのだ。
 まるで風景の中に溶け込んでしまったかのように、彼女は『存在』し続ける。
 彼女は、この世界の様々なものを見ることが目的だから。
 見られる側には回らない。
 その役目を担ってはいない。
 彼女の名は、ソノ・ハ。
 職業は――ウォッチャー。


 ソーンの中心的な通りとなっている『アルマ通り』。
 そこは、いつものように活気に満ち溢れていた。
 様々な店に人が集まり、露天も繁盛している。
 ソノ・ハは周囲を見回しながら、人込みをすり抜ける。
 はしゃぎ回る子供の声。
 何が楽しいのか、お互いの背中を叩き合って笑っている若者たち。
 立ち話に花を咲かせている、数人の中年女性。
 小さな買い物袋を手に持つ老人。
 様々な年代、様々な人種、様々な人々が、同時にこの世界に、『いま』に存在している。
 その不思議さに、ソノ・ハは改めて思いを馳せた。
 抜けるような青空に視線を向ける。
 二羽の鳥が、並んで飛んでいる。
 呼吸に意識を向ける。
 果たして、自分に呼吸をすることが必要なのかどうかは分からなかったが、でも、そうすると、自分は『生きている』のだと実感することが出来た。
「あ、ごめんよ」
 その時、誰かが肩にぶつかり、謝ってくる。
 そちらを見遣ると、金髪の男が背中を向け、去っていくところだった。
「こちらこそ、ごめんなさい」
 ソノ・ハは、無機質な声で、男の背中に向け、謝る。その言葉に、男が振り向いた。
 十代後半くらいだろうか。まだ顔立ちに幼さが残っている。彼はソノ・ハの姿を認めると、踵を返し、こちらへと近寄ってくる。
「へぇ〜。キミ、カワイイね。俺と一緒に遊ばない?」
 軽薄そうな笑顔を浮かべながら言う男に、ソノ・ハは無表情のまま答えた。
「見るだけなら、構いませんよ」
「え?」
 最初はその答えの意味が分からなかったようだが、やがて勝手に妄想が膨らんだのか、男はさらににやけた表情になった。
「カワイイ顔して、昼間っから、随分積極的だねぇ。いいよ。俺のでよかったら、いくらでも見せてあげる」
 そう言って、男がソノ・ハの肩に手を回そうとしたその時。
「あんた、待ち合わせの時間とっくに過ぎてるよ!しかもこんなところで、こんなガキを口説くなんて!サイテー!!」
 前方からやってきた女が、唐突に男の頬を平手で打った。
「ってーな!ちょっと遅れたぐらいで……それにこの子は……ってあれ?」
 男が見回しても、ソノ・ハの姿はもう既にそこにはなかった。
 ソノ・ハは、少し離れた場所にあったベンチに腰を掛け、その男女の成り行きを見守る。
 結局のところ、事態は男が平謝りすることで、収まったらしい。
 先ほどまで男の頬を打っていた女の手は、男の腕へと回されている。やがて、二人の姿は、人込みに紛れて見えなくなった。
 男女関係の機微というのも、中々興味深い。
 そんなことを思いながら、ベンチから人の流れを見守る。
 不規則なスピードで、それぞれがバラバラに歩いているように見えて、よく見ると意外に規則性というものは見出せる。
 この流れも、世界の秩序が創り出しているのだろうか。
 続いて、空を見上げてみた。
 白い雲が追ったり追われたりしている様は、人込みに似ているような気がする。
 ソノ・ハが天に向かって大きく伸びをした時、足元に纏わりついてくるものがあった。
 そちらに目を遣ると、そこには一匹の黒猫。
 野良猫だろうか、ところどころが汚れていて、どことなくみすぼらしい。
 猫は、ソノ・ハと目が合うと「ニャー」と一声鳴いた。
 ソノ・ハは、自らの服が汚れることも厭わずに、その猫を静かに抱き上げる。
 猫は、微かに、太陽の匂いがした。
「私はウォッチャー。もしかしたら、あなたは私のウォッチャーなのかしら」
 そんな言葉が漏れる。
 自分が世の中を見る『ウォッチャー』なら、自分を見ている『ウォッチャー』もいるのではないだろうか。それは案外、こういった動物の姿をしているのかもしれない。
 ソノ・ハの考えをよそに、猫は彼女の手をすり抜け、ひざの上へと着地する。そして、そのまま丸くなり、気持ちよさそうに昼寝を始めた。
 猫を撫でながら、ソノ・ハはまた、視線を彷徨わせる。
 目を留めた先には、五歳くらいの男の子と、その母親らしき人物がいた。どうやら、アイスクリームショップで買い物をしているようだ。
 母親が、購入したアイスクリームを男の子に手渡す。その、腰を屈めた姿が、あの姿と重なる。

 レヴェランス。

 男の子が、嬉しそうにアイスクリームを舐めている。

 アントルシャ。ピルエット。パ・ド・ブーレ。

 だが、男の子は持っていたアイスクリームを、うっかり地面に落としてしまった。泣き始めた男の子を、母親が宥めている。

 エシャペ。グラン・フェッテ・アン・トゥールナン。そして再びレヴェランス。

 ここ数日、ソノ・ハが見つめ続けてきた人物。
 果たして、今日もいるのだろうか。
 そんなことをぼんやりと思いながら、彼女はひざの上の猫をそっと撫でた。



 ひっそりと。
 本当に、そこはひっそりと存在していた。
 周囲は木々に覆われ、その隙間から、茜色の日が差し込んでいる。
 まるで、スポットライトのように。
 かつては住居があったのであろうそこには、基盤だけが残されていた。
 そして、一人の女性が踊っている。

 アントルシャ。ピルエット。パ・ド・ブーレ。

 朱いスポットライトを浴びながら。

 エシャペ。グラン・フェッテ・アン・トゥールナン。
 そして、レヴェランス。

「今日で終わりよ」
 そう女性が発した言葉が、自分に向けられたものだということに気づくのに、少しだけ時間がかかった。ソノ・ハは、穏やかに答えを返す。
「終わり……ですか?」
「そう、終わり」
 女性は、寂しげに笑いながら、こちらへと向かって歩いてくる。
「……ここは、私の愛していた人の家だったの」
 彼女は、そうして語りだす。
「彼はお父さんの借金があって貧乏でね、寝たきりのお母さんと二人暮らしだった。でも、プロのダンサーになる夢を捨てきれずに、ずっと頑張ってきたの。やがて、彼の夢が叶う日が、ようやくやって来た。大手のバレエ団から見初められて……その時、私は公演で、ソーンを離れていた。でも、彼の晴れ舞台だけは必ず観に行くって約束した。まだ新入りだったから、三日間だけの初舞台」
 ソノ・ハは、黙って話に耳を傾ける。
「その頃、ここの近辺では、放火事件が多発していたの。そして、この家は、彼の公演の前日に火を放たれて……彼は練習から戻った後、それを見て呆然として……でも、お母さんをどうしても放って置けなくて、業火に包まれた家の中に飛び込んだそうよ。周囲の人たちは『もう無理だ、諦めろ』って止めたらしいんだけど……それで、彼はそのまま……」
 女性は目頭を押さえながら、首を小さく横に振る。彼女の声は震え、指先から透明な液体が幾筋も滴り落ちた。
「だから……だから、私は毎年、この時期になるとダンスを踊るの。彼の出演予定だった三日間だけ。私は、あの時から、バレエ団を辞めて、彼のためだけのダンサーになった」
 そこで、女性は突然立ち上がった。
「でも、それももう終わり」
 そうして、彼女はソノ・ハをじっと見る。その顔には、まだ涙の痕が残っていたが、同時に笑みも浮かんでいた。
「あなたのおかげよ」
「私の……?」
 そう呟くソノ・ハは相変わらず無表情だったが、内心では戸惑っていた。
「あなたが私のダンスをずっと観てくれていて、分かったの。思い出したって言う方が近いかしら。観客のいないダンスには意味がない。まだ私を待ってくれている仲間たちや、お客さんもいる。それに……こうやっていつまでも自分の殻に閉じこもってる私を見たら、きっと彼は怒るわ」
 女性の言葉に、ソノ・ハはゆっくりと頷く。それを見て、女性はまた笑顔を作った。
「不思議ね。あなたの目には力がある……何をやっている人なの?」
「ウォッチャーです」
「ウォッチャー……面白いわね。私は、見られるのが仕事。あなたは、見るのが仕事……これも縁ってものかしら」
 遠い目をして言う女性に、ソノ・ハは穏やかに告げる。
「私は、ただ見ているだけですから」
 その言葉に、女性はソノ・ハの肩を軽く叩き、片目をつぶってみせる。
「でも、誰かに見守られていることが、生きる力になることもあるのよ。本当にありがとう……じゃあね、小さなウォッチャーさん。私の公演も、よかったら観に来てね」
 そう言って背中を向けて去っていく女性を見送りながら、ソノ・ハは呟く。
「生きる力……」
 今まで、自分が見ることが、ただ見守ることがそういったものに繋がるとは、考えたこともなかった。
 でも、世の中には、そういうこともあるのだ。
 もう、昏くなった夜空を見上げる。
 満天の星に、夜空を切り裂いたような上弦の月。
 もしかしたら、自分もああいった存在たちに見守られ、生きる力をもらえているのだろうか。
 そんなことを思いながら、ソノ・ハは女性とは逆の方向に歩き出す。


 明日もまた、何かを見るために。