<東京怪談ノベル(シングル)>


++   自由の証   ++


 解っているのだ、何時いかなる時代でも、孤独な事を。


 知っているのだ、何処へ行こうとも、常に拘束されている事を。


 自由などないその身に、小さな一片の羽を 未だ追い求めている。


 どれほどの時が経とうとも、子供のように。


 それが傍から見て どれほど無様な事なのかも、解っている。


 ―――それでも。



 息が苦しい。
 太鼓でも打ち鳴らしているかのような、酷い音。
 こんなにも近くで――誰かが、囁きかけている。
 しきりに何かを繰り返し 繰り返し…もう、随分と長い間話している。
 けれども何も聞き取れない。
 「静かにしてくれ」、そう口にしたつもりだった。
 自身の言葉は聞こえない。ただ、その代わりに誰かの囁き声が一層大きくなった。
 今はただ…静かに、眠らせて欲しい。
 疲れているのだと、口には出さずに強く念じる。
 瞼は重く、上下共にぴたりと張り付いて決して離れようとはしない。
 じっとその重苦しさに、耐えてみる。
 声は、止まなかった。
 何時までも、何時までも――ずっと 囁いている。
 彼の耳元で。
 返事をしてやりたくとも口が開かない。
 うるさいと思っても体は動かない。
 じっと耐えるのにも飽きてきた彼は、次第にゆるゆると…眠りに落ちていった。


 強い風を感じて――彼は目を見開いた。
 途端に目の前に広がる風景に驚いて、呆然とそれを眺め見る。

「よぉ、旦那。ぐっすり眠っていたな」

 見るからに怪しい出で立ちの男が、深くかぶった帽子から微かに見える鋭い瞳で、オーマをじっと凝視する。
 捕えるような視線に、彼もまたその男を見据え返すが、気がついた時には既に圧倒的に不利な状況だった。

 いつものようにシュヴァルツ総合病院に勤務していた。
 いつものように診察だってした。
 けれど……何時から眠りについていた?
 何時、外へ出たというのだろうか。

 彼は今、どこか知らぬ大地に仰向けに転がっている。
 黒いぼろ布を全身に纏ったような格好をした、帽子を深くかぶった男の足下に、転がっているのだ。
 (これは――ちょっとまずいんじゃねぇのか?)
 心の中で誰かに問い掛けるが、勿論返答を返す者は何処にもない。

「今……焦ってんだろ」

 男が口元をにやりと歪めた。
 直感だった。彼は「ヤバイ」と、本気でそう思った。

「俺ぁなぁ……あんたの秘密、知ってんだぜ」
「………」

 米神を汗が伝う。
 じり じり と。
 知り合いだっただろうか、かつてどこかで会った事があるだろうか、等とオーマの思考は次々と彼に関する情報を求め出す。
 しかし、答えが見つかる前にその思考は止められた。
 一瞬。何の意図も見せずにその男は空を切った。
 びくりと彼の体が揺れて、次の瞬間には血が噴出していた。

「なっ………」

 彼の左胸の上部にある――タトゥに、それは刻まれた。

「咎人に相応しいお飾りだろ?」

 赤いクロス<十字架>が彼の胸から血を這わせる。
「何のつもりだ、おまえ……」
「すぐにわかるさ、そうだろ? ヴァンサーの旦那」
 男が再び口の端を引き上げて歪んだ笑みを浮かべた。
「力ってのはな、万能じゃねんだよ……ずっと強者でいられると思うなよ? あ?
時と共に……奢れる者も流されてゆくのさ、「サカリ」の季節など、すぐに消える」
 男が短刀を腰元から抜き出すと、それを握り込んでオーマ目掛けて振り下ろしてくる!

「―――お前の命と同じようにな!!」

 オーマは軽く舌打ちをして、何故か反応の鈍い肢体に鞭を打って男を蹴り上げた。
 男がよろけた隙を突いて、其の侭立ち上がり、具現を行おうとした―――が、しかし

「なっ……何だ!?」

 今先刻まで纏っていたはずの、具現と呼応同調するヴァンサー専用の戦闘服【ヴァレル】が解け、ソーンへ来てからは久しく見ない私服を纏った姿へと戻っていた。
 彼が戸惑っている隙に、男は再びオーマの足を払い、大地に打ち伏せる。
 オーマは事態の深刻さに驚愕して男を睨み据える。
「おまえ、【ウォズ】……か?」
「ニュータイプのな」
 にっと笑って、男はぎらつく瞳でオーマを睨み返した。
「お前等が俺等を狩るように――俺等も、お前等を狩る。これからはそう言う時代が来るって事だぜ? あ? わかったかよ、ヴァンサーの旦那」
 そう言い放つと、男は再び短刀を構える。
「賭けろ。具現の力を使い、「俺」を封印する為にすべての「在りしモノ」の存在を断つか――それとも、それらを守るために「お前」の存在そのものを断つのかを……!!」
 空高く、翳された短刀に力が込められる。
「今、この瞬間に……!!!」
 振り下ろされる刃が陽光を受けて輝いた。

 (選ぶ? すべてを壊すのか それとも自らの死を望むのかを?)
 (どちらを選ぶ…? すべての「在りしモノ」と「俺」と―――)

「どっちを選ぶかなんて…んなモン、決まってんだろうが」
 彼の意思は、一瞬足りとも戸惑うことなどなかった。
 振り下ろされた刃を両手で挟み込むように受け止め、そのまま男ごと脇の方へと投げ飛ばす。
「……腹黒同盟の総帥をなめてんじゃねぇぞコラ、んなモン両方守る方を選ぶに決まってんだろうが!!!」
 オーマは体勢を立て直すと、男目掛けて体当たりを喰らわせた。
 起き上がりかけたところに突進された男は、どっと地響きを轟かせながら再び地面へと倒れ込んだ。
 オーマはそれでも立ち上がろうとする男に向かって、熱いパンチをお見舞いしてやる。
 男は、笑っていた。
「わかっているんだろうがよ、旦那が死ななけりゃこの闘いは終わらねんだぜ…?
【ヴァレル】は「ヴァレルマイスター」が造る。簡単な修復ならヴァレル自身が行う事も在るが――介在するタトゥそのものが機能しなくなっちまったら……どうするのかなぁ? ん? んでもって具現は【ヴァレル】無しでは余りに危険…と」
「………」
「俺ぁ【ウォズ】だ、普通にやってちゃあ旦那にゃ倒せねぇ。旦那は「在りしモノ」を守りてんだろ? それなら答えは簡単だろ? 結局の所、旦那が死ぬしかねぇって訳だ」
「……くっ」
「異端にゃ異端の掟がある。旦那もそいつを従順に守るこったぁ」
 男が振り回すように繰り出した一撃に、オーマは容赦なく吹っ飛んだ。
 (――確かに、このままじゃ一生終わらねぇんだよな)
 彼はぼんやりとそんな事を考えていた。
 どうしてか動きの鈍い体は、彼の頭にまでのろのろとした影響を与える。
 倒れ込んだ地面に、かすかに誰かの声が響いた。
「オーマ、私、オーマの力になる」
 見覚えのない女が駆け寄ってきてそう言った。
「あ? おい、おまえ…あぶねぇから、さがってろよ」
 何処から現れたのか、突然女が次々と言葉を紡ぎ出す。
「知ってるでしょ? 力っていうものはね、統べて、犠牲の上に成り立っている物なのよ……あなただって、そう。私という弱者の力を使って、もっと上へ行って頂戴――世の中はそんなに甘くはないわ。私、知ってる。犠牲は当然だってこと……だから…犠牲になるにしても、誰の為の犠牲なのかだけは自分の意志で選びたいの」
 女はオーマの方を振り返ると、明確な意志を持って彼に言い放った。
「どうせ誰かの踏み台になるのなら、私は、貴方を選ぶ。本気よ、信じて?」
 その言葉にオーマは目を見開いた。
「なに言ってやがるんだ、おまえ」
 ――初めて会う女だと、そう思う。これほどに押しの強い女ならば、必ず彼の心の片隅に何らかの形で残るであろう。
 しかしながら彼の記憶には「彼女」は一切なかった。
「どうせ、もう長くはないもの――あなたの、力になりたいの……弱いけれどね……嫌?」
 彼女が懇願するかのようにオーマを見つめる。
 オーマは余りに突然な事態に、疲弊して頭を抱えた。
「ヴァレルマイスターはここにはいない。タトゥの修復は、私がするわ――そのためには、ほんの少しの具現の力と、この血肉が在ればいい。私だってその端くれ…ようやく、貴方の役に立てる時が来たと思えるの。お礼がしたいから」
 すると、彼女は未だ出血の止まらぬオーマの左胸に、そっと手を宛てた。
「お願い、おねがいよ……」
 彼女の頬に、涙が伝う。

 何故だろう。
 苦しくて――強く、抱き締めた。
 どうしてだろう。
 けれども……その腕の中には、何もない。
 ほんの一瞬の出来事だった。
 勿論そんなつもりで腕に抱き止めた訳では無かった。
 けれども……そこにあるのが、唯一の事実だった。
 あるのは、ただ一つの「証」。
 彼女が生きていた、今もこの中で生きている、その証。
 ヴァンサーとしてソサエティに認められた、「証」。
 犠牲の上に力が成り立つという事をしかと証明する為に、心を証明する為にそれを選んだ。彼女の意志。
 誰か他の人間の犠牲、突き付けられた弱者と強者との関係。

「……納得なんか、できるかよ」

 ようやく洩れ出た言葉に、薄らと目を開く。
 そうして、気がついた。
 あの音は、自分の心音だった。
 そして彼女の心音だった。
 あの囁きは、自分がうなされている声だった。
 そして彼女の…声だったのだと。

 そうして、彼は苦笑する。
 どれだけ強く心に決めようとも、それを望まなくとも――夢でまで「犠牲者」を出した事に。
 どれだけ自身を嘲り笑っても、それは修正される事などない。
 ましてや、癒される事など決してないのだ。


 窓の外から射し込んで来る、朱色に染まった院内。
 先程までの風景など、何処にもありはしなかった。
「……どうしてだろうな」
 自身に力を貸してくれた女性の亡骸すら、見当たらない。
 胸に刻まれたはずの傷も――彼女の力添えのお陰で消えたのかも知れないが、その傷らしい傷も何処にも見当たらなかった。
 ぼろ布をかぶった帽子の男の姿も、何処にもない。
 すべては夢なのかもしれない。
 それでも、彼の心が、覚えている。
 彼の魂が、憶えている。
 嘗てそこにあった風景を、そこにあった意志を――



 気付いている、何時いかなる時代でも、孤独な事に。


 理解している、何処へ行こうとも、常に拘束されている事も。


 自由などないその身に、小さな一片の羽を 今も未だ追い求めている。


 どれだけの年月をが経とうとも、変わらずに。


 それが傍から見て どれほど無様な事でも。


 ―――それでも


 それでも、求める。



 翌朝、彼が窓を開くと桟の下に一羽の鳥がいた。
 冷たくなったその体をそっと拾い上げると、翼に治療痕が残っていた。
 それが、その鳥の寿命だったのかは定かではないけれど。
 オーマはそのまま外へ出ると、静かにその鳥のための墓標をつくった。


―――― FIN.